第14話 平気の平左
《《日曜日、午後2時》》
「平気の平左」で、と決めた。
午前中の勉強は、奇跡的にはかどった。私が泣き腫らした目でテキストを開いて、悠真が何も言わずに物理の問題集を隣に置いて、二人は黙って向き合った。
泣いた後の私は、なぜかいつもより頭が冴える。感情を全部出し切った後の空っぽの器に、公式がすとんと落ちてくる感じ。
ボイル・シャルルの法則。ル・シャトリエの原理。エントロピーは増大する。-乱雑さは増す一方で、元には戻らない。
……そうだよね。
カチャ。
玄関の鍵が開く音がした。私の背中が、反射的に強張った。
「ただいま。……あら、凜花。まだいたの」
リビングに入ってきた彩花姉ちゃんは、研究室帰りの大きなトートバッグを肩にかけたまま、私をちらりと見た。驚いた様子はない。最初からこうなると知っていたような、涼しい顔。
「うん。朝から来てたよ。昨日の復習してて、そしたら悠真がまたわからないとこ教えてくれて」
私の声は、我ながら完璧だった。「平気の平左」。
悠真が立ち上がり、姉ちゃんのバッグを受け取ろうとする。その動作の自然さが、胸に刺さる。
「お疲れ様。向こうはどうだった?」
「まあまあね。データが一個おじゃんになって、今週やり直し」
彩花姉ちゃんはソファーに腰を下ろし、靴下を脱ぎながら言った。研究室帰りの、少し疲れた顔。でもどこかが「満たされた」表情は、昨日の夜と変わらない。
私はテキストのページをめくる手を止めないようにしながら、二人を盗み見る。
悠真が姉ちゃんの隣に座る。肩が触れる。それだけの動作なのに、私の胃の奥が、じわりと熱くなった。
ダメだ。見るな。
「凜花、昨日は何を習ったの?」
姉ちゃんが私に向き直った。
「熱力学と化学平衡。あと、ルミノール反応」
「……ルミノール反応?」
「化学発光の原理。悠真に教わった」
姉ちゃんが悠真を見た。悠真が苦笑した。その二人の間に流れる、私には入れない「共有された時間」の質感が、今日は特別に重く見えた。
「変なことを習わせないでよ」姉ちゃんが悠真に言う。「模試まで時間がないんだから」
「凜花が聞くんだよ」
また、二人だけの会話になる。
私はノートに「不可逆反応」と書いて、すぐに消した。
《《午後3時》》
姉ちゃんがキッチンでお茶を入れている。
悠真と二人きりになった三十秒の間、私は問題集から目を上げなかった。悠真も何も言わなかった。
でもその沈黙の中に、昨夜のすべてが圧縮されていた。酸っぱい汗の匂いも、丹田の話も、「おいしくないね」も、午前四時半の暗闇で見た彼の寝顔も。
全部あった。全部、確かにあったのに。
今の私は、ジャージを着た「彩花の妹」だ。
「凜花、これ」
姉ちゃんがマグカップを私の前に置いた。ほうじ茶の香りが立ち上る。
「ありがとう」
完璧だ。私の返事は完璧だった。
姉ちゃんは悠真の隣に戻り、自分のタブレットを開いた。研究のデータを確認しているらしい。悠真が画面を覗き込む。
「ここの数値、おかしくないか?」
「そうなのよ。だから今週やり直しなの」
私にはわからない会話が続く。理系の言葉なのに、この二人の間では私の入れない専門の領域になる。四月から同じ大学の、同じキャンパスにいる二人。
筑波に行こう、と朝に決めた。
その「決心」は今も揺らいでいない。揺らいでいない、はずだ。
でも。
「凜花、眠い?」
姉ちゃんが私を見た。
「え?」
「目が赤いよ。昨夜、夜更かしでもしたの?」
心臓が止まりそうになった。でも私は笑った。
「ちょっとね。遥と電話してて」
姉ちゃんは少しの間、私の顔を見ていた。「まったく」でも「そう」でもなく、ただ静かに。
その沈黙が、三秒か四秒か、私には三十秒に感じられた。
「……そう」
姉ちゃんはそれだけ言って、また画面に戻った。
呆れもしない。咎めもしない。ただ「そう」。
バレていない。
バレていない、のに。
なぜか、それが一番、胸に痛かった。
……それとも、姉ちゃんはすべてを知った上で、「そう」と言ったのだろうか。
私にはわからなかった。彩花姉ちゃんだけには、永遠にわからない気がした。
《《午後5時》》
帰ります、と言った時、悠真も姉ちゃんも普通に「またね」と言った。
悠真が玄関まで見送りに来た。姉ちゃんはソファーで足を伸ばしたまま、タブレットを見ている。
玄関で、私が靴を履いていると、悠真が口を開きかけた。
「凜花、ぼくは……」
その時。
「悠真、醤油どこ?」
リビングから、姉ちゃんの声が飛んできた。
悠真が振り返った。私も顔を上げた。
「……戸棚の右端」と悠真が答えた。「ありがとう」と姉ちゃんの声が返ってきた。
沈黙。
悠真がまた私を見た。でも、もうさっきの続きは来なかった。言いかけた言葉が、どこかへ消えてしまったように、彼はただ小さく息を吐いた。
「……今朝の味噌汁、美味かった」
私は返事をしなかった。
エレベーターのボタンを押して、ドアが開いて、中に入った。
扉が閉まる直前、私は一度だけ振り返った。
悠真が廊下に立ったまま、こちらを見ていた。
扉が、閉まった。
《《帰り道》》
四谷の駅まで、今日は走らなかった。
トートバッグを肩にかけて、夕暮れの中をゆっくり歩く。11月の風が、ジャージの上からでも冷たく染み込んでくる。
「平気の平左」は、完璧にやり遂げた。
姉ちゃんにも悠真にも、何も気づかれなかった。たぶん。
なのに、なんでこんなに胸が痛いんだろう。
悠真が言いかけた言葉。「凜花、ぼくは……」の続き。
醤油を探す姉ちゃんの声が、それを飲み込んだ。
あの続きは何だったんだろう。
知りたい。知りたくない。知ってしまったら、筑波に行けなくなる気がする。
ルミノール反応。
洗っても、時間が経っても、消えない痕跡。
「凜花、ぼくは……」
あの続きも、きっと私の心に一生、青白く残り続けるんだろうな。
私は空を見上げた。四谷の夕空は、蛍光イエローでも黒でもなく、ただ静かに暮れていった。
※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
※飲酒喫煙シーンが書かれてあります。
※性描写を含みます。




