表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/38

第14話 平気の平左

《《日曜日、午後2時》》


 「平気の平左」で、と決めた。


 午前中の勉強は、奇跡的にはかどった。私が泣き腫らした目でテキストを開いて、悠真が何も言わずに物理の問題集を隣に置いて、二人は黙って向き合った。


 泣いた後の私は、なぜかいつもより頭が冴える。感情を全部出し切った後の空っぽの器に、公式がすとんと落ちてくる感じ。


 ボイル・シャルルの法則。ル・シャトリエの原理。エントロピーは増大する。-乱雑さは増す一方で、元には戻らない。


 ……そうだよね。


 カチャ。


 玄関の鍵が開く音がした。私の背中が、反射的に強張った。


「ただいま。……あら、凜花。まだいたの」


 リビングに入ってきた彩花姉ちゃんは、研究室帰りの大きなトートバッグを肩にかけたまま、私をちらりと見た。驚いた様子はない。最初からこうなると知っていたような、涼しい顔。


「うん。朝から来てたよ。昨日の復習してて、そしたら悠真がまたわからないとこ教えてくれて」


 私の声は、我ながら完璧だった。「平気の平左」。


 悠真が立ち上がり、姉ちゃんのバッグを受け取ろうとする。その動作の自然さが、胸に刺さる。


「お疲れ様。向こうはどうだった?」

「まあまあね。データが一個おじゃんになって、今週やり直し」


 彩花姉ちゃんはソファーに腰を下ろし、靴下を脱ぎながら言った。研究室帰りの、少し疲れた顔。でもどこかが「満たされた」表情は、昨日の夜と変わらない。


 私はテキストのページをめくる手を止めないようにしながら、二人を盗み見る。

 悠真が姉ちゃんの隣に座る。肩が触れる。それだけの動作なのに、私の胃の奥が、じわりと熱くなった。

 ダメだ。見るな。


「凜花、昨日は何を習ったの?」


 姉ちゃんが私に向き直った。

「熱力学と化学平衡。あと、ルミノール反応」

「……ルミノール反応?」

「化学発光の原理。悠真に教わった」


 姉ちゃんが悠真を見た。悠真が苦笑した。その二人の間に流れる、私には入れない「共有された時間」の質感が、今日は特別に重く見えた。


「変なことを習わせないでよ」姉ちゃんが悠真に言う。「模試まで時間がないんだから」

「凜花が聞くんだよ」


 また、二人だけの会話になる。


 私はノートに「不可逆反応」と書いて、すぐに消した。


《《午後3時》》


 姉ちゃんがキッチンでお茶を入れている。


 悠真と二人きりになった三十秒の間、私は問題集から目を上げなかった。悠真も何も言わなかった。


 でもその沈黙の中に、昨夜のすべてが圧縮されていた。酸っぱい汗の匂いも、丹田の話も、「おいしくないね」も、午前四時半の暗闇で見た彼の寝顔も。


 全部あった。全部、確かにあったのに。

 今の私は、ジャージを着た「彩花の妹」だ。


「凜花、これ」


 姉ちゃんがマグカップを私の前に置いた。ほうじ茶の香りが立ち上る。


「ありがとう」


 完璧だ。私の返事は完璧だった。


 姉ちゃんは悠真の隣に戻り、自分のタブレットを開いた。研究のデータを確認しているらしい。悠真が画面を覗き込む。


「ここの数値、おかしくないか?」

「そうなのよ。だから今週やり直しなの」


 私にはわからない会話が続く。理系の言葉なのに、この二人の間では私の入れない専門の領域になる。四月から同じ大学の、同じキャンパスにいる二人。


 筑波に行こう、と朝に決めた。


 その「決心」は今も揺らいでいない。揺らいでいない、はずだ。


 でも。


「凜花、眠い?」


 姉ちゃんが私を見た。


「え?」

「目が赤いよ。昨夜、夜更かしでもしたの?」


 心臓が止まりそうになった。でも私は笑った。


「ちょっとね。遥と電話してて」


 姉ちゃんは少しの間、私の顔を見ていた。「まったく」でも「そう」でもなく、ただ静かに。

 その沈黙が、三秒か四秒か、私には三十秒に感じられた。


「……そう」


 姉ちゃんはそれだけ言って、また画面に戻った。


 呆れもしない。咎めもしない。ただ「そう」。


 バレていない。

 バレていない、のに。

 なぜか、それが一番、胸に痛かった。


 ……それとも、姉ちゃんはすべてを知った上で、「そう」と言ったのだろうか。


 私にはわからなかった。彩花姉ちゃんだけには、永遠にわからない気がした。


《《午後5時》》


 帰ります、と言った時、悠真も姉ちゃんも普通に「またね」と言った。


 悠真が玄関まで見送りに来た。姉ちゃんはソファーで足を伸ばしたまま、タブレットを見ている。


 玄関で、私が靴を履いていると、悠真が口を開きかけた。


「凜花、ぼくは……」


 その時。


「悠真、醤油どこ?」


 リビングから、姉ちゃんの声が飛んできた。


 悠真が振り返った。私も顔を上げた。


「……戸棚の右端」と悠真が答えた。「ありがとう」と姉ちゃんの声が返ってきた。


 沈黙。


 悠真がまた私を見た。でも、もうさっきの続きは来なかった。言いかけた言葉が、どこかへ消えてしまったように、彼はただ小さく息を吐いた。


「……今朝の味噌汁、美味かった」


 私は返事をしなかった。


 エレベーターのボタンを押して、ドアが開いて、中に入った。


 扉が閉まる直前、私は一度だけ振り返った。


 悠真が廊下に立ったまま、こちらを見ていた。


 扉が、閉まった。


《《帰り道》》


 四谷の駅まで、今日は走らなかった。


 トートバッグを肩にかけて、夕暮れの中をゆっくり歩く。11月の風が、ジャージの上からでも冷たく染み込んでくる。


 「平気の平左」は、完璧にやり遂げた。


 姉ちゃんにも悠真にも、何も気づかれなかった。たぶん。


 なのに、なんでこんなに胸が痛いんだろう。


 悠真が言いかけた言葉。「凜花、ぼくは……」の続き。


 醤油を探す姉ちゃんの声が、それを飲み込んだ。


 あの続きは何だったんだろう。


 知りたい。知りたくない。知ってしまったら、筑波に行けなくなる気がする。


 ルミノール反応。


 洗っても、時間が経っても、消えない痕跡。


 「凜花、ぼくは……」


 あの続きも、きっと私の心に一生、青白く残り続けるんだろうな。


 私は空を見上げた。四谷の夕空は、蛍光イエローでも黒でもなく、ただ静かに暮れていった。



※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。

※飲酒喫煙シーンが書かれてあります。

※性描写を含みます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ