第10話 酸っぱい汗
《土曜、午前11時》
四谷の駅からここまで、結局全部走ってきてしまった。
昨夜の姉ちゃんとの地獄の夕食のせいで、身体の中のテストステロンが飽和状態だったのだ。走って、汗をかいて、筋肉を痛めつけないと、理性がどうにかなりそうだった。
ピンポーン。
ドアが開くと、悠真が目を丸くして私を見た。
今日の私は、月曜のゴスロリとは正反対。陸上競技用の、目が痛くなるような蛍光イエローのパーカーに、同じ色のパツパツのレギンス。右肩にはテキストが詰まった重いトート、左手にはスーパーのロゴが入ったパンパンの買い物袋。
「ハァ……ハァ……。学校でちょっと……居残り練習してきたから。メンゴ、遅れちゃった」
「土曜日に?まだ部活やってるのか?」
※ 悠真が呆れたように道をあける。私はズカズカと部屋に入り、酸っぱい汗の匂いを撒き散らしながら荷物を下ろした……酸っぱい汗?男子にはこのフェロモン臭はどう臭うのだろうか?臭う?匂う?
「来年2月に日本室内陸上競技選手権っていうのがあるの。それまでは引退できないのよ。それに……急に走るのを止めたら、ホルモンバランスが崩れるの。冬季練で追い込まないと、女子高生は急に太ったり、リズムが狂ったりするんだから」
※ 姉ちゃんに言ったのと同じ台詞。でも、悠真に言うと少し意味深に響く。私のリズムを狂わせているのは、冬季練の負荷だけじゃないんだから。デブの陸上部員を抱きたくないでしょ?
「なるほどな。アスリートも大変だな」
悠真は感心しているけど、私の頭の中は昨夜から決まっていた。
色仕掛けは封印。ゴスロリを姉ちゃんが着るなんて言い出した以上、同じ土俵で戦うのは危険すぎる。それに、模試で偏差値を上げないと、姉ちゃんとの3P地獄に引きずり込まれる。
(悠真という『干物』を食ってるだけじゃ、受験には勝てない。今日の私は、胃袋を掴む正妻作戦よ!)
「悠真、キッチン借りるね。業務スーパーの冷凍食品ばっかりじゃ、脳みそに栄養いかないでしょ?」
《台所のテクニシャン》
※ 私は手早くパーカーを脱ぎ捨てた。下はスポーツトップ一枚。汗ばんだ肌に、蛍光イエローのレギンスが張り付いている。スポブラタイプだからブラはしてないし、クロッチ付きのレギンスだから、アンダーもなし。悠真は気づかないだろうけど、せめて、それぐらいは色気を出したいのだ。
「あん肝が特売だったの。ポン酢で食べよう。あとは、ほうれん草のお浸しに、ブリ大根。牡蠣と白子の天ぷらも揚げるから」
姉ちゃんと違って、私は動ける。167センチの身体を狭いキッチンで効率よく動かし、包丁をリズミカルに叩く。
「……これ、見てよ。店員さんに勧められたの」私は買い物袋から、サッポロの『濃いめのレモンサワーの素』を取り出した。「缶は重いから、コンクタイプ。5倍希釈だから、これ一本でソーダ1.8リットル分飲めるんだから。経済的でしょ?」
炭酸水をパカッと開け、手際よくレモンサワーを作る。
※「え?お昼なのに、酎ハイ、呑むの?」と悠真。
「呑みながらの方が効率が上がるの!」
お昼だというのに、悠真のダイニングテーブルには、居酒屋顔負けの豪華な料理が並んだ。
さっさと食べて、さっさと片付ける。私は昨夜の飢えを、料理を作るという「実習」にぶつけて昇華させた。
《13時、熱力学の迷宮》
「さあ、お勉強。やるわよ」
レモンサワーのジョッキを片手に(お酒で勇気をもらってるだけ!)、私はテキストを開いた。悠真も私の気迫に押されて、真面目な顔で隣の椅子に座る。
「……よし、じゃあ今日は『化学平衡と反応速度』からだ。凜花、ボイル・シャルルの法則の応用として、理想気体の状態方程式を思い出せ。PV = nRT だ」
「Pが圧力、Vが体積、nが物質量ね」
「そうだ。では、一定の体積内で温度 T を上げた時、平衡状態はどう移動する?ル・シャトリエの原理だ。外圧や温度の変化を打ち消す方向に反応が進む。凜花、お前の中で今、何が『打ち消されようとしてる』?」
「……っ、そんなの、悠真が私に『熱』を与えすぎるからに決まってるじゃない」
数式と、レモンサワーの酸味。原子の運動エネルギー:E = 3/2 kT(kはボルツマン定数、Tは絶対温度)
温度が上がれば、分子は激しく飛び回る。私の中の分子も、悠真という熱源のそばで、激しく衝突を繰り返している。
夕方になり、窓の外が藍色に染まっても、私はペンを置かなかった。18時、19時、そして20時。悠真が驚いたように時計を見た。
「……すごいな、凜花。今日は一度も『ご褒美』なんて言わなかったな。彩花の檄が効いたか?じゃあ、今日はここまでか。よく頑張ったな」
悠真は、私が今日このまま帰るものだと思い込んでいる。
「……悠真。何言ってるの?」
「え?」
「彩花姉ちゃんに言われなかった?『この土日は、悠真に朝から晩まで教えてもらいなさい。悠真にも頼んどいたから』って」
私は立ち上がり、蛍光イエローのレギンスに包まれた長い脚で、一歩、悠真に詰め寄った。
「『朝から晩まで』よ?つまり、朝が来るまで。……凜花は今日、ここに泊まるんだからね」
悠真が「え?」と声を漏らし、派手に仰け反った。
理系の計算式では解けない、二日間だけの平衡状態。
今夜、私は絶対零度さえも溶かすような、最高濃度の「補習」を彼に強いるつもりだった。
※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
※飲酒喫煙シーンが書かれてあります。
※性描写を含みます。




