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風の日

作者: 夜見 洋
掲載日:2026/02/11

リノリウムの床の上に裸足で立つと、寒かった。僕の体はふるえて、軽い尿意を感じた。それが剣道の試合だったからなお更だった。僕は緊張しまくっていた。

 体中を覆う重い防具の中から、僕はあえぐように息をしていた。面、篭手、胴、垂れ等、全部合わせたら5キロくらいはあるだろう。竹刀を握っている手が重い。握力が半分になってしまったようだ。

「これで戦うんだからな―、やってらんないよ」

 と僕は声に出して言った。面をかぶっているせいで耳も塞がれているから、周りにそれが聞こえたかは分からない。ふと2階席を見上げると、うちの剣友会の旗がかけてあり、馬鹿親たちがひとかたまり座っていた。僕と一緒に試合に出る井山の母親は、「ここは冷えるわね」とか言いつつ派手なひざ掛けを広げ、先生に言われたように振りかぶって打つのよ、胴は打たないのよ、などと驚いたことに剣道のアドバイスをし始め、こっちにも何か言ってきたので、よっぽど張り倒してやろうかと思ったが、止めといた。

 とにかく気の進まない試合だった。試合は五人一組の団体戦で、なぜか僕が大将だった。強いわけでもなかったので、それは練習の出席率か何かで決められたらしく、まったく迷惑な話だった。そうこうしているうちに、僕たちは審判にうながされて 五人で相手のチームと向かい合った。「礼」という馬鹿でかい声がして、僕たちは間抜けな人形のように頭を下げた。先鋒の井山が飛び出るように、中央へ進み出た。

 区民体育館は一丁前にドーム風になっていて、天井が高かった。窓は三階席から大きく天井に向かって伸びていて。そこから初秋のさわやかな風と日差しがあふれていた。光は会場のすべてを照らして、黄色に染めていたが、緑の床だけはそれを無視して混沌とした影を保っていた。そういえば今日の風は素晴らしいな、と僕は思った。それは風というより素晴らしい季節のにおいだ。風に、確かににおいがあるということは素直な驚きだった。その匂いは3年前の小学校の入学式に嗅いだにおいと同じだった。それは明るい日差しに乾いていて、透明で、すべての希望をひらいていくようなにおいだった。僕はこの風に名前がつけられないかと、しきりに思っていた。季節の変わり目にしか、おそらく感じられないような素晴らしい風のにおいを記憶しておきたかった。

「やめ、勝負あり」

 審判の声が響いた。井山はあっけなく負けてしまったようだった。僕は内心ほっとしながら、そのままみんな負ければいい、と思った。

一人で引率に来ていた鈴木先生が次に戦う大倉に声をかけていた。「ドンマイ、ドンマイ、思い切っていけ」と野球のような声援を送った。この先生は、剣友会の中で僕の好きな先生だった。稽古は厳しかったが、話すことが面白かった。竹刀の中結いは刀の切っ先を示すもので、そこで切らなくてはならない、刀の根元で相手を切っても切れ味が悪くてだめなのだそうだ。だから竹刀といえどもみだりに床につけず、刀の切っ先だと思って大事にしないといけない、それから刀は反りが大事なんだ、そもそも良刀というものは・・といった話をえんえんと続けるのだ。そんな時代劇のような感覚がみょうに面白く、僕はしらけている周りの友達をよそに、先生に質問したりした。

「二刀流というのは、どう構えるんですか?」

先生はちょっとびっくりしたような表情をうかべ、それから実に愉快そうに教えてくれた。先生は僕の親と同じくらいの年で、背はひょろ長く、面長な顔に普段はまじめそうな表情をうかべていたが、ときどき熱くなると、巨人戦を観る世の中のおとうさんと同じようにはしゃいだり、不機嫌になったりした。僕は先生のそういうところは好きではなかった、そんな大人は周りにいくらでもいるのだ。僕は先生が静かに剣の話をするのが好きだった。

 「勝負あり」

大倉も負けてしまった。先に三勝したチームの勝ちだから、勝つためにはこちらは三連勝しなくてはならないが、それが無理だろうということは相手チームの強さを見れば明らかだった。鈴木先生も先ほどと比べると明らかに意気消沈したようで、しょうがないな、というような笑みを浮かべていた。中堅同士がでていくと、先生は僕に「佐藤、細かいことだけど竹刀を持つときは、つるの部分を下にするんだぞ、そうでないと刀の場合は指を切ってしまいかねないからな」

 と、試合とまったく関係ないことを言った。

「はい」

と僕は笑いながら答えた。この先生はやっぱりいいなあ、と思った。

不意に会場をあの風が通りすぎた。面をつけていてもそれは、その匂いは分かった。試合をしている人や審判や、次に並ぶチームが、その風を複雑にかき混ぜていた。その場違いに素晴らしい季節の匂いが、高くなったり低くなったり、まるでドップラー効果のように僕を刺激した。何かが起きるような予感がしたら的中して、こちらの中堅と副将が勝った。副将の与田はさっさと面をはずしながら、満足そうな顔でこちらを見た。与田はやたら早い面を相手に打ち込み続けて圧勝した。お前が大将をやれよ、と僕は言いたかった。よりにもよって大将にチームの勝敗がかかるなんて最悪だと思った。

さっきまでクールだった鈴木先生まで、また加熱し始めて手拍子交じりに「いよ―し、よくやった、よくやった」などと言い、ただの巨人ファンのおじさんになってしまっていた。

「よ―し佐藤、あとはお前が決めてやれ」

鈴木先生がいやに気色ばんだ大きな声で言った。僕は少ない空気をかき集めるように呼吸を繰り返しながら立ち上がった。自分の脈拍と呼吸がまるで他人のもののように感じられた。そのまま人形が操られるような心境で、いやだ、いやだと思いながら床に示された開始位置に立ち、かまえると、開始の声がかかった。

「いやああああああああ」

「けえええええええええ」

と思いがけず相手も僕も声を張り上げ、ものすごい勢いで突進した。お互いに竹刀を振りかぶり、打ち下ろそうという体勢だったが、その前に体ごとぶち当たった。互いの面の前面についている鉄の部分がぶつかりあい、すごい金属音とともに、僕と相手はうしろに弾け飛んだ。一瞬、相手の必死な表情が見えた。僕は体勢を立て直して突進し、再び激突した。今度は相手の激しい息づかいと、恐ろしい圧力が伝わってきた。相手は肥満体で、体の動きは鈍かったが、手の動きは異常に速かった。僕の戦い方に、あまり動かずにつばぜり合いをしながら、一瞬の離れ際に攻撃をするというのがあったが、それは使えそうもなかった。相手に密着しようとしても、すさまじい力で突き放すのである。そうなると、こっちの方が体勢を崩して危険だった。そんな訳でいつのまにか勝負は体当たり中心の肉弾戦のような展開になった。突進しながら僕は何度か相手の胴や面を打ちに行ったが、すべてかわされてしまった。相手はほとんど攻撃してこなかったが、ときどきとんでもない隙を狙って打ってきたので恐ろしかった。お互い一本も取れずに残り時間が一分を切ったので、僕はこのまま引き分けだろうな、と思った。無理に勝負に行って負けるよりはずっといい。これでも一生懸命戦ってるんだから・・そんな風に思っていると、今までまったく耳に入らなかった周りの音と、鈴木先生の僕を呼ぶ大声が聞こえてきた。

「佐藤! 佐藤―!」

と、めったやたらに僕の名前を叫びながら、先生は何かの身振りをしていた。それは野球の審判のやるセーフのゼスチャ-そっくりだった。先生は必死に僕に向かって、両手を何度も水平に広げるような格好をしてサインを送っているのだ。それがどういう意味なのか、まるで分からなかった。何にしてもこのままいけば引き分けだからいいだろう、と思いながら無視したが、先生はさらに語気を強めながら僕の名前を叫び、セーフを繰り返した。それはもう僕の好きな鈴木先生ではなかった。その顔には苦悶の表情と、僕を罵倒するようなイライラが滲み出ていた。

僕はすっかり冷静ではなくなって、そのサインを胴を打て、ということだと判断して、相手の胴を打ちにいった。戦争で無謀な作戦だと知りつつも、司令官の命令に従う兵士の気持ちはこういうものなのだろうな、と僕はそんなことを考えた。相手の胴はちっともガードが甘いなんて事はなく、ほとんど無駄なのにな、と僕は思いながら、それでも打ちにいって、僕は負けた。

試合が終わり、整列して相手のチームと礼をした。僕とその相手はまだ面をかぶったままだった。鈴木先生は後ろから僕の頭をかるく叩き、「引き分けでよかったんだよ」と説教するように言い、もう一度さっきのセーフをやってみせた。セーフというのは、引き分けにしろという意味で、代表者決定戦になれば与田が勝つから、そういうことだったのだ。

僕はぼう然とし、それから自分の中に制御できない未知の怒りがせりあがって来るのを感じた。それは僕の先生に対する尊敬や、大人の良い部分のイメージや、僕の中のいろんなものを壊していった。バラバラだ。僕は鈴木先生に目をあわさず、仲間を無視して会場を出て、防具をはずした。2階席に戻ってジャンパーをはおると、「みんな情けないわねー」と井山の母親がおちゃらけた調子で寄ってきたので「殺すぞ」と言ってやり、僕は外に出た。 

そのまま500メ-トルくらい歩いて、公園の芝生の上に横になった。空には雲ひとつなかった。それは真空の空で、僕の好きなあの風をどんどん巻き上げているようだった。


                                  



 

 

 


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