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37話

 高橋の顔を見た瞬間、ついさっきまで胸の奥に居座っていた恐怖が、一瞬で消え去った。

 そしてほっと安心した。


 高橋に殴られているところ見られなくて、本当に良かった、と。


 私は痛みのことさえ忘れてゆっくりと身体を起こして座った。そして心配そうな顔で私を見つめる彼に言った。


「ただ、ちょっと転んだだけだから、気にしな」

「嘘」

「えっ」


 高橋の言葉に、思わず声が漏れた。

 高橋どうして…。

 高橋は今まで一度も見たことのない怖い表情をしていた。高橋は目を合わせて言葉を継いだ。


「最初から嘘だってわかってた。転んだんじゃないだろ。あの石川ってやつに殴られたんだろ」

「ち、違う。本当に転んだだけで、い、石川とは関係な」

「ここに来る途中に見た。あいつらが屋上から降りてくるのを」

「……」


 石川と、会ったって…?

 混乱した。頭が真っ白になり、思考が完全に止まってしまった。


「だからもう正直に打ち明けて。あいつらの仕業なんだよね? あいつらに殴られたんだろ。今まで春先さんがボコボコになってここにきたのも、全部あいつらの仕業なんだよね?」

「そ、それが……」


 どうしても言えなかった。石川に殴られたなんて、絶対言えなかった。だから私は目を逸らした。しかしそれでも高橋は私から目を離さなかった。

 その無言の視線が、早く真実を話してくれと、私に圧をかけてくるようだった。


「だから…それが……」


 高橋の問いに、どうしても答えられなかった。どうしても勇気が出なかった。だから私は逃げることを選んだ。怪我なんて無視して、勢いよく立ち上がった。すると、高橋は驚いたように目を丸くして私を見上げた。


「春咲さん? 急にどうして」


 高橋の声を私は必死に無視して、彼に背を向けた。そして、屋上のドアへと駆け出した。


「え、いきなり何を。春咲さん!」


 背後から高橋の声が聞こえたけれど、必死に無視した。ぎゅっと目を閉じて、聞こえないふりをして屋上から逃げるように立ち去った。

 その日、私は午後の授業をサボった。


 その日以来、私は屋上へ行かなくなった。私が情けなくて。私のことが恥ずかしくて高橋の前に立つ勇気がなかった。そして何より、あの日のように石川と屋上で会うのが怖かったからだ。

 だから私は石川に逆らわないようにした。お昼休みになると、石川に言われた通り、体育館の裏へ行って大人しく彼女を待った。そこで石川に殴られ罵倒され、死ぬほど苦しかった。けれど、高橋に見られるよりはずっとマシだった。

 いじめに耐えることはできた。でもこんな格好高橋に見られたら、どうしても耐えられなそうになかった。だから私は自ら進んで石川にいじめられていたのだ。

 だが、そんなある日のことだった。いつものように体育館の裏で石川に殴られていた時だった。


「春咲、てめぇふざけんなよ。無視すんのかよ」


 石川の声と同時に、遠くから懐かしい声が耳に届いた。


「…春咲さん?」


 名前を呼ばれて反射的にそっちに視線を向けてしまった。

 そんなことしちゃいけなかった。視線を向けたせいで、そこに立っていた高橋と目が合ってしまった。

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