七夕の夜に。
執筆意欲も、溶けて消える夏。
みなさん、いかがお過ごしでしょうか。
連載の更新が止まっているのは、次の話の展開が、どうにも筆者好みではない風向きとなり、手をつけるのが、億劫になっているため。いずれは書くつもりだが、とりあえず、明日以降の自分に丸投げとする。
◇
7月5日、大災害は来なかった。
とはいえ、直前から、鹿児島の南西沖で頻発する地震に不穏なものも、感じつつ。
予言という名の「夢日記」に関していえば、そもそも、今年ではない説がある。あまり語られていない話だが、あの夢日記では「その年は一年中、冬と言っていいほど寒い日が続き」という冒頭文がある。だから、毎度の酷暑でもある今年に、それが発生するようでは、いろいろと辻褄も合わない。
かつて、フロンガスにより、オゾン層に穴が空き、緊急の社会問題となっていた時代がある。国際的な規制が行われ、代わりに使用されることとなった代替フロン(=温室効果ガス)。これらにより、今度は、地球の温度が、みるみる上昇。いつもの「ただちには影響はない」よろしく、放漫な運用を続け、現在に至る。
数年前、地球は「プチ氷河期」へと向かうサイクルに入っているとも言われていた。事実、太陽の活動が減衰し、黒点の出ない時期も長らくあった。―― それを考えると、何が「正解」なのか、よく分からなくもなる(どのみち不健全ではあるわけだが)。
◇
今夜は、七夕である。
ルーツは、中国の乞巧奠から。
牽牛織女の物語。
戦国時代(紀元前5~3世紀)には、既にその原型が存在する。
中国の乞巧奠は、女性たちが「裁縫」や「詩歌」の上達を祈る行事。一方、日本の七夕は、棚機津女の物語が、原初にある。川辺の小屋で、巫女が機を織る。そして、出来上がった織物といっしょに、神に身体も捧げ、引き換えに豊穣を祈願するという東日本の民間信仰が始まりとされる。奈良時代、これに中国の乞巧奠が合流し、人身御供的な要素が緩和される(名前だけが残る「たなばた」)。
「短冊に願い」をというのは、江戸時代からと、歴史は浅い。しかも、寺子屋の学生などが、学業成就などを祈願し、書き始めたものなのだとか。女性の技芸や、神へのお供え要素が、いったいどうすれば、男子学生たちのお願いムーヴへと変化するのか?(平賀源内の「土用の丑の日」なみのデタラメぶり)
「伝言ゲーム」の途中に、ひとりでもヤバイのが入ると、美しく崩壊するアレに似ている。これは、歴史全般の伝承においても、おそらく同じことが言えるのだろう。
◇
特に何かを語りたくて、書き始めたわけではない。ここ最近、投稿が停滞していたので、とりあえずで書いてみた(実際にはキーボードで入力しているのだから、そろそろ「書く」という言葉の代替を探す日必要もあるわけだが)。
言いたいことがあるとすれば、とにかく暑い!
おそらく、今年もまた10月半ばまでは、30度を超える日々が続くのだろう。体温よりも高い外気だ。
それでも、街を歩くと、けっこうな厚着の若者がチラホラいる。彼らは体温機能が壊れているのか、はたまたエイリアンか、何かか?