褒められたい
今日も妻・恵利の怒号が響く。
「こうやると汚れが落ちないって言ってるでしょ!もう余計なことしないで!」
仕事から疲れて帰宅した後、毎日聞かされている。こんな調子だから、家のことを何もする気にもなれないし、家路に着くのが憂鬱なだけだ。晋は毎日恒例の、息子の翔と一緒に恵利に聞かれないように気を付けて溜め息をつく、という行為を行う。
今日も母・恵利の怒号が響く。
「こうやって置くと食器が傷付くって言ってるでしょ!何度言ったら分かるの?」
学校から疲れて帰宅した後、毎日聞かされている。こんな調子だから、家路に着くのも宿題をするのも憂鬱なだけだ。小学校1年生の翔は、毎日恒例の、父親の晋の帰りを心待ちにしながら、誰にも聞かれないように気を付けて溜め息をつく、という行為を行う。
ある日恵利が熱を出して倒れた。晋は定時で退社し、夕食を買う為に家の近くのスーパーマーケットに入ったところで、あることを思い出した。
以前同じことがあったとき、手ぶらで帰って来たら恵利に大激怒された。確かあのときは、ヨーグルトとバナナ、ゼリー飲料にスポーツドリンクを頼まれたっけ。そこから気分や体調に合わせて少しずつ摂取していたのだ。
晋が帰宅して恵利にそれらを手渡すと、彼女はとても意外そうに、そして大袈裟に喜んだ。
「あら、すごい!助かるわ。本当にありがとう!あなたのことだから、絶対に手ぶらで帰って来ると思ったわ」
何故こう一言多いのだろうか。怒りを抑えながら晋がリビングに行くと、案の定食卓やキッチンは荒れたままだ。片付けようとしたところ、ふと、床に座って洗濯物を畳んでいる翔の姿が目に入った。
「偉いな。父さんも一緒にやろう。」
そう言って近づくと、翔はとても嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうお父さん!あ、この服はね、こうやって畳まないとお母さんがすごく怒るんだよ」
親子は笑いながら、とても楽しそうに家事をこなした。こんなに笑ったのはどのくらい振りだろう、と晋は新婚の頃に想いを馳せた。翔が産まれて以来、晋も翔も、いや恵利も、この家で笑ったことなんてもうずっとなかった気がする。翔はその分、学校ではちゃんと笑えているだろうか。自分は職場では笑顔なんて全く見せていないと思うが。
しばらくすると、恵利がよろよろしながら起き上がった。そしてリビングや台所を見て目を丸くさせた。
「すごい!とても綺麗じゃない!もしかして‥」
彼女が夫と息子の方を振り向くと、2人の男子は少々遠慮がちに
「う、うん‥。至らないところがあったらごめんなさい‥」
と、消え入る声で答えた。しかし恵利の反応は意外なものだった。
「何言ってるの!とんでもない!すっごく快適だわ。ねぇ、ありがとう。本当に本当にありがとう!」
恵利は涙を流さんばかりの勢いだった。それにつられて男性陣も、感動のあまり泣きそうだった。
ところがこの幸せも長くは続かなかった。恵利が回復したら、また以前のような溜め息交じりの日々に戻ったのだ。
晋が翔とお風呂に入っていると、翔が恐ろしいことを言い出した。
「お母さんって、病気のときしかいい人にならないね。一生病気だったらいいのに。」
晋は背筋が寒くなる想いを抱きながら、一応たしなめた。だが長男の意見には大いに賛成だ。なんせ、妻の愚痴大会を男同士で開く為に、こうやって翔との入浴係を自ら買って出たのだし、翔もそれを切望しているのだから。これで恵利の機嫌も良くなるので一石二鳥、いや家族皆ハッピーだ。
横で恵利が寝息を立てているときも、晋は寝付けなかった。
晋は以前、モラハラに耐えられずに精神科に通ったことがあった。そこで睡眠導入剤を処方されたことがある。しかし、通い続けるのが面倒だった為、あるときから市販の睡眠導入剤を服用するようになった。
やれやれ、今夜も服用しないと眠れないかな。晋は台所で薬を手にしたとき、ふとあることを思い付いた。
本当はいけないことなのかも知れないが、彼はケチって、気分によって錠剤を半分に割って服用するときがある。すると眠くなるまでには至らないが、身体がかなり重くなって怠くなるのだ‥。
そうだ。その薬を恵利に服用させるのだ。恵利が動けなくなって自分が家事をすれば、また褒めてもらえる‥
子供部屋のベッドの中で、翔はお風呂場で父親と話したことを思い出していた。そこで、ふとあることを思い付いた。
お父さんは確か、薬を飲んでいたよね?半分にすると、眠くはならないけど身体がかなり重くなって怠くなるという‥。その薬をお母さんに服用させるのだ。それで自分やお父さんが家事をすれば、また褒めてもらえる‥
次の日は土曜日だった。恵利は毎朝恒例のコーヒーを飲んでいる。
晋は作戦を決行することにした。例の錠剤を半分に割り、恵利も翔も見ていないところでコーヒーに入れた。
これは恵利に褒めてもらうためだ。そしてそれは、自分だけでなく、翔の笑顔の為でもあるのだ。そう、これは可愛い子供の幸せの為で、なにも悪いことではない‥。
一方で、全く同じタイミングで翔も偶然実行を決意していた。お母さんは毎朝恒例のコーヒーを飲んでいる。その母が席を外し、父もリビングにいないのを確認したところで、例の薬を棚から取り出した。翔は日頃から聞き分けが良いので、両親は完全に自分達の息子を信用しきって、誰でも手の届くところに薬を置いているのだ。
瓶から錠剤を出すと、既に半分に割られているものがあった。これは都合いい。きっと神様が後押ししてくれているんだ。
そしてそれをコーヒーに入れた。
家族3人でリビングにいたとき、テレビでは近くの観光スポットを案内していた。それを見た恵利が突然言い出した。
「今からここに行こうよ!」
あまりにも突然だが、これはよくあることなのだ。そして反論すると、恵利は烈火の如く怒り出して収拾がつかない。なので、恵利には逆らわないことこそが家族の平和、というのは男性陣にとって常識だった。
恵利が薬を服用したのが唯一の懸念だが、まあ一錠服用したわけではないし、具合が悪くなったら帰ればいい。晋は思った。
お母さんが薬を飲んだことが気になったが、まあ一錠じゃないし、具合が悪くなったら帰るよね。翔は思った。
そんなわけで3人でドライブに行くことにした。その観光スポットは車の方が行きやすいからだ。
「あ、飲みかけのコーヒー、勿体ないからタンブラーに入れて持ってこ」
マグカップからタンブラーに移し替えた後、恵利は夫と息子より少し遅れて玄関へと急いだ。
恵利と翔を乗せた車を晋が運転しているとき。突然晋の右肩が痛みだしたため、晋は慌ててドラッグストアの駐車場に停めた。
「あなた、どうしたの?」恵利が心配そうに顔を覗き込む。
「最近ゴルフばっかしてたから‥、肩が痛み出した‥」
「え?大丈夫?じゃあ私が運転するよ。湿布買って来るから、メーカーの希望とかある?」
「いや、湿布なら何でもいいよ、ありがとう。湿布貼って少し休めばすぐ良くなるから、しばらく運転してくれると助かるよ。」
恵利がドラッグストアから帰ると、晋はまだ運転席にいた。1人で移動できないくらいしんどいらしい。恵利が肩を貸して親同士の席を交換すると、恵利は運転席やミラーの調節をし、気合いを入れる為に、タンブラーのコーヒーをぐいっと飲んだ。
車が発進した。