3-08 昨日空が青かったから、ルカは世界を滅ぼすことにした。
『すまなかったな、ルカ。君にこんなことを頼んでしまって』
【ステータス:ブルー。すべての機能は正常です】
脳内に流れる博士からのメッセージを、ぼんやりとした頭で聴いていた。
『優しい君には不向きな役割だ、本当に申し訳ない。だけど君は優秀だから、きっとやり遂げてくれると信じているよ。あの子たちのことを……どうかよろしく頼む』
【ステータス:ブルー。すべての機能は正常です】
何度セルフチェックを繰り返しても、システムは異常を検知してくれなかった。
リトライ、リトライ、リトライ。
【ステータス:ブルー。すべての機能は正常です】
【ステータス:ブルー。すべての機能は正常です】
【ステータス:ブルー。すべての機能は――】
正常なわけ、あるはずないのに。
こんなにも心が痛いのに。
私は人を――殺したのに。
視界はどこまでも青く、青く、憎らしいほどに澄み渡っていた。
「Last Universal Common Ancestor」通称 LUCA。
地球に初めて誕生した生物の呼称である。
おそらくLUCAはとても単純な形をしていて、複製と分裂を繰り返し、やがて多種多様な生物へと進化を遂げていったのだろう。
すでにLUCAの面影は現代には残っていないけれど、ひとつだけ、脈々と受け継がれているものがある。
それは遺伝子。
LUCAの遺伝子は、今も私たちの体の中に息づいており――
カクンッ。
ヘリオが居眠りを始めたので、ドロシーは読み聞かせていた本をそっと閉じた。
ヘリオはよく父親の書斎から難解な本を持ってくるのだが……この本もまた、齢八歳の彼には早かったようだ。
無垢な寝顔に思わず顔をほころばせながら、ドロシーはメイド服の裾を払って紅茶の準備をはじめた。
日当たりの良い中庭に小鳥たちの囀りが響き、穏やかな時間が流れている。
茶葉を蒸らし、紅茶に入れるジャムを用意しようとフタに手を添えたその時、
「……はっ。ね、寝てない! 寝てないよ!」
「おはようございます、ヘリオ様。寝起きの紅茶、もうすぐできますよ」
「だから寝てないんだってば!」
ヘリオは美しいブロンドヘアを粗雑にかきむしって、机の上の本を胸元に手繰り寄せた。
「えっと……要するに、このLUCAっていうのが地球にいる生物の祖先なんでしょ? 僕もパパもおじいちゃんも、LUCAの遺伝子を持ってるんだよね。あ、ドロシーも!」
「残念、私はその中には含まれませんよ。だって――」
ガラスの割れる音がして、ドロシーは手元に目線を落とした。ジャム瓶のフタがへしゃげ、瓶が粉々に割れている。またやってしまった……。
「……この通り、私は人間ではありませんから」
「そのジャム、結構高かったんだけどなぁ」
突然背後から声をかけられ、ドロシーは「ひゃっ」と息を呑んで振り返った。
ヘリオと同じブロンドヘアに、深い碧色の瞳。
雇い主のサム・クロームが悲しそうにジャム瓶の残骸を見ていた。
「だ、旦那様、お戻りでしたか」
「また制御系がバグってるのか? Esシリーズはバグの少なさで売っていたはずなんだが……」
「パパ! お仕事終わったの?」
ヘリオが椅子から飛び出し、サムの胸元に抱き着いた。
サムは目を細めてヘリオの頭を優しくなでる。
「いや、またすぐ部屋に戻らなくちゃいけないんだ。博士から頼まれた仕事の量が多くてね。あの人はもう少し息子を大事にした方が――」
そこまで言って、サムは言葉を切った。小さく指を振ると、目の前に仮想ディスプレイが広がる。
Calling form Dr. Gene の文字を見て、サムは「ほらね」と肩をすくめた。
「ちょっと時間ができたと思ったらこれだ。ごめんなヘリオ、一緒に遊んであげられなくて」
「ううん、大丈夫! お仕事頑張ってね!」
ヘリオは明るい声で父親を送り出し、そのままドロシーの淹れた紅茶に口をつけた。
「大人になりましたね、ヘリオ様」
「なんのこと?」
「いえ。少し前なら旦那様にしがみついてでも止めようとしてらしたので」
「やめてよ、昔の話は」
ヘリオは唇を尖らせて、ティーカップを爪で弾いた。
「パパもおじいちゃんもすごい学者だもん。忙しいのは当たり前だよ。僕も早く学者になって、二人の手伝いをしたいんだ。そうすれば、パパと一緒にいられるしさ」
サム・クロームとジーン・クローム。
どちらも界隈に名を轟かせる著名な生物学者だ。
彼らと肩を並べようとすれば、相当の努力が必要なわけだが……ヘリオにはもっと年相応に遊んでほしいと、母親代わりのドロシーとしては思ったりもする。
クローム家で起動されてから六年。
ヘリオの母親が亡くなってから、六年。
彼を我が子のように慈しむには、十分すぎる時間だった。
「ねぇドロシー。さっきの本もう一回読んでよ」
「構いませんよ。次はもう少しゆっくり読みますね――あら?」
脳内でアラートが鳴った。
視覚操作で確認すると、一通ボイスメッセージが届いているようだった。
差出人は――サム・クローム。
さっき会ったばかりなのにボイスメッセージ……?
いぶかしみつつ、メッセージを開いた。
その時だった。
『ドロシー。このメッセージが君に届いているということは』
ガラスの割れるけたたましい音と共に、何かが中庭に落ちてきた。
重々しい音と共に地面に落ちたそれは、むくりと体を起こすと、傷だらけの顔をドロシーたちに向けた。
『きっと私は――もう、助からないのだろう』
サム・クロームは。
サム・クロームだったものは。
「旦那、様……?」
「GYRAAAAAAAAA!!!」
黒板をひっかいたような叫声を上げて、獣のようにしなやかに駆け出した。
踏み込んだ足は地面にめり込み、蹴り上げた土が宙を舞う。
およそ人間離れした速度でドロシーたちの傍まで肉薄したサムは、そのまま右手を振り上げ、
「パパ?」
ヘリオ目掛けて振り下ろした。
「危ないーーッ!」
空気を切り裂く音と、大理石のテーブルが砕ける音が同時に響いた。
とっさにドロシーがサムの体を蹴っていなければ、このテーブルの代わりにヘリオの体がバラバラになっていたことだろう。
体勢を崩したサムが立ち上がる前に、ドロシーはサムの体を抑えつけた。
「旦那様、どうされたんですか! しっかりしてください、旦那様!」
「GI、AAAAA!!!」
間髪入れず視界が赤く染まる。
次いで脳内に響く、アラート音。
【警告:レッド。あなたの行動はアンドロイド工学三原則に違反しています。速やかに対象から離れてください】
「そんなこと分かってます!」
【警告:レッド。アンドロイドが人間に危害を加えることは禁止されています。速やかに対象から――】
「うるさい!」
視界を覆う赤を振り払うように首を振り、ドロシーは暴れるサムの体を必死で抑え付けた。
混乱していた。動揺していた。
いったい何がどうなっているのか、理解が追い付かない。
脳内で響くサムの声だけが、ドロシーの正気を繋ぎ止めていた。
『手短に話そう。僕と僕の父、ジーンは、最終不変共通祖先――いわゆるLUCAについて研究を続けてきた。その結果、ひとつ分かったことがある』
『LUCAはこの惑星を侵略するために入り込んだ、地球外生命体だ』
「地球外、生命体……?」
『厄介なことに、LUCAは自分と同じ遺伝子を持つ生物を操ることができるらしい。もしも今、僕が正気でないのなら――残念ながら、僕は既にLUCAに汚染されているのだろう』
荒唐無稽な話だ。
しかし目の前にいるサムの姿をした何かが、彼の言葉が真実であると告げていた。
『生命が誕生する前の惑星に入り込み、自分の遺伝子をばらまいて侵略の機会を待つ。LUCAはそうやって、いくつもの惑星を侵略してきたようだ。何か対策を取らなければ人類は全滅する。そこで私たちが目を付けたのが、君たちEsシリーズだ』
Esシリーズ。
プロトアーク社によって開発された、アンドロイドの最高傑作。
『遺伝子を持たないアンドロイドであれば、LUCAの影響を受けず、LUCAに汚染された人間を排除できる』
「無理ですっ! アンドロイドは人間を攻撃できません!」
『そこで僕と父は君たちを解析し、アラートの解除キーの作成に成功した』
ポンッ。
状況にそぐわないポップな音が脳内で鳴る。
『解除キーを添付してある。これを使えば、君は人を攻撃できるようになるはずだ。だからドロシー、まずは手始めに――僕を殺してくれ』
「そ、そんなことできません!」
『LUCAに汚染された人間を治療する方法は存在しない。放っておけば他の人間を攻撃し始めるだろう。そうなる前に僕を殺すんだ』
「嫌です! できません!」
「ねぇドロシー! パパどうしちゃったの!?」
「GURUADUAAAAA!!!」
【警告:レッド。アンドロイドは人間に危害を】
「ねぇドロシー! ドロシーってば!」
「ヘリオ様、離れてくださいっ!」
『ドロシー、頼む』
『ヘリオのことを、守ってくれ』
「GYDARUAAAA!!」
「パパ! どうしたの、パパ!」
【警告:レッド】
『僕を殺せ』
「パパってば!!」
【警告】
「DURYASHAAA!!!」
【警告】『殺せ』【警告】『殺せ』【警告】
『殺せ』【警告】『殺せ』【警告】【警告】
『僕を』
「KOROSEEEEEEEEEEE!!!!!!」
目を瞑る。
数えきれないほどの思い出が、一瞬で脳内を駆け巡った。
「私には無理です、旦那様ッ……!」
「どけ、私がやる」
パッと、赤が散った。
それまでの喧騒が嘘のように、あたりがシンと静まり返る。
目の前に一人の女性が立っていた。
銀色の髪をはためかせ、右手でサムの腹部を貫いて、鉄仮面のように無表情で、その女性は立っていた。
「切り替えろ。私たちの役割は、人類のために、人類を殺すフェーズへと移行した」
サムの体が崩れ落ちる。
頭がついていかなかった。
聞きたいことは山ほどあった。
心の底から叫びたい気持ちはあふれるほどにあった。
だけど心の整理が追い付かないから。
ただヘリオのことを抱きしめて、ドロシーは問う。
「あなたは――誰?」
「個体名が必要か? シリアル番号はRU23-1-C88-A。何と呼んでくれてもかまわないが……そうだな。ジーン博士はシリアルを略して」
「RUCAと呼んでいた」