3-07 黒幕ムーブは降りれない~災厄の元凶と呼ばれた俺は今日も今日とて暗躍する~
「災厄の元凶」――そんな異名を背負うはずの少年に転生してしまった。
しかも、その身体の持ち主は脳内に居座って文句を言ってくる!?
過労死したシステムエンジニア、堀嗣若は、ファンタジーRPG『アストラルオーダー』の世界で目を覚ました。
だがそこは、彼が未プレイのまま積んでいたゲームの世界であり、転生先はなんと物語の黒幕「アーテル=グラキエス」の身体だった。
未来に待ち受けるのは、邪神復活による世界滅亡。
そしてその引き金を引くのは他でもないアーテル自身――しかし、彼を止めるどころか、堀嗣はこう思った。
「今更、黒幕ムーブから降りれるわけないやろ?」
少年アーテルの切実な願い――「妹を幸せにする」ため、脱力系サラリーマンと冷徹な氷の貴公子が手を取り合う。
笑いと陰謀が交錯する異色の黒幕転生ストーリーが、今ここに開幕!
朦朧とした意識が暗闇の中から浮かび上がった。光の差す水面へ導かれるようにゆっくりと覚醒する。それは不定形のアメーバが形あるものに進化するような、遅々とした歩みでありながら、着実に前進していた。取り留めのない思考の断片が絡み合い、言葉が意味を持ち始める。網目状に絡まり合ったシナプスに信号が走ると、だらりと弛緩した身体が生きようとする意思に応えた。
ぼやけた視界に飛び込んできたのは豪奢な天蓋、頼りないランタンの光、ベッド脇でもたれかかって眠る見知らぬ少女。何もかもが記憶にない光景だ。どこや、ここは?
学生時代から住んでいるワンルームマンションは、全てが手の届く範囲に収まる狭さだ。一人暮らしには十分だったが、他人を呼べるほどの余裕はなかった。このベッドひとつで部屋は埋まってしまう。薄給の身としては家賃の安さから引っ越しの選択肢など無いに等しいのだが。いや、とにかく自室でないことは確かだった。
自分の置かれている状況がわからないのも気になるが、喫緊の問題は体調の悪さだった。息苦しさに襲われ、新鮮な空気を肺に取り込もうとするが、浅く短い呼吸では状況が改善されない。こういうときはアレだ。鼻から息を吸って大きく吐き出す。慌てない慌てない、リラックス、リラァァックス。
多少、呼吸が落ち着いたところで周囲を観察する余裕が生まれた。体は熱を帯び、ベタつく汗で夜着が肌に張り付く。ひんやりとした絹のシーツが心地よい。絹か……、自分の財布からは絶対に出さないと言い切れる買い物だ。ここが自宅でないのは確かだとして、病院とも思えない。周囲の調度品がアンティーク過ぎた。ダマスク織の椅子なんて使える家も限られている。何より側で眠る少女は看護師を名乗るには幼過ぎた。
この娘、誰やねん?
ランタンの光を受けて輝く長い銀髪。田舎の婆ちゃんの白髪とは異なる光沢と透明感。現実感はないのに染めたような不自然さを感じない色合いだ。もしかして精巧に作られた人形かと見紛うような存在。手を伸ばして髪に触れると、指の間をさらりと零れた。
(妹に触れるな。殺すぞ!)
物騒な言葉に思わず手を引っ込めた。その気はなくともアラサーのおっさんが幼女に触れるのは世間体が悪い。不審者情報として通知されても文句は言えない状況だ。おっさんは常に身を慎まねばならないのだ。
俺かて、やましい気持ちで髪に触れたわけやない。なんや綺麗過ぎて作り物かと疑っただけや。自分が無害で悪意のない存在であることを、誰とはなしにひたすらアピールする。
(信用できるわけない。僕の身体を乗っ取った奴の言うことなんて。去れ、悪魔よ!)
脳内に響く声に驚いた。この身体は声の主のものらしい。自分の陥った状況に戸惑うだけだったが、意思疎通が可能ならまだマシかもしれない。何せ九十連勤を終えて家に帰りついたのが最後の記憶だ。あのまま過労死して誰かに取り憑いたとしか考えられない。全てはあのブラックな職場が悪いんや。なんや思い出しただけでも、ため息しか出えへんわ。
(ふん、仕事なんて大変で当たり前だ。環境に左右されて泣き言を漏らすような脆弱な精神は貴族として相応しくないな)
カチーン。なんやねん、コイツ。誰かに同情して欲しいという気持ちがなかったわけやないが、正論で叩きのめされると立ち上がる気力もなくなるわ。そもそも生き返らせてくれと頼んだわけやないし、なんやこう生きるモチベーションがないっちゅうか。解脱した感じ? 生への執着ってものがないんや。
(はあ!? 僕の身体を乗っ取っておいて言うに事欠いて生きる気がないだと!)
大体、輪廻転生するにしても、記憶を引き継ぐのは無間地獄やないか。魂がすり切れとる奴を転生したところで、劣化したデータのコピーでしかないやろ。記憶をリセットして救いを与えてくれへんか。
(わかった、わかったから落ち着け。僕にはどうしてもやり遂げなければならないことがあるんだ。今の僕とお前は一蓮托生なんだから、軽率な行動は避けてくれ)
とにかく俺は疲れたんだよ。生きることに。これ以上、頑張れとか言ってくれるなよ。もう精一杯、全力で生きとったやんや。いっぱいいっぱいや。表面張力で溢れそうなコップの水やってん。
(お前にやる気がないのはわかった。それならこの身体から出て行ってくれないか? それなら互いに利はあるだろう)
まあ、出て行くんはええけど……。多分、死ぬで。大体、なんでこの身体に転生したと思ってんねん。あんさんが死んだから、その抜け殻に入り込んだんとちゃうんか? となると俺がいなくなった後、どうなるかは明白やろ。
(そ、そんな……。まさか僕は死んだというのか……)
自信に満ち溢れ、常に凛としていた声に怯えが走る。声変わり前の高い声色から少年と言っていい年代だろう。不安を押し殺して胸を張り、恐怖に立ち向かっていた男の子を支えていた背骨からぽきりと折れた音がしたように感じた。虚勢というメッキが剥がれ落ち、残った地金は錆びて脆くなったようで思わず目をそらしたくなる。
沈黙の時間は居心地の悪いものだ。会話がなくなったが故に自然と少年のことを考えてしまう。自分のために何かをしたい気持ちはこれっぽっちも湧いてこないが、誰かのために何かをしたい気持ちは残っていた。それは誰かから感謝されたいわけでなく、ちっぽけな偽善でしかなかったが。
ええわ。手を貸したる。俺がこの身体であんさんのやり遂げたかったことを実現したろうやないか。魂の代わりに願いを叶えるなんて、実に悪魔っぽいやろ。
(本当か!? 願いを叶えてくれるなら僕の魂だって売ろう。これは契約だ)
ほな契約成立やな。俺の名前は堀嗣若。若と呼んでくれ。様は付けなくてええからな。名家の跡継ぎってわけでもなく、庶民中の庶民や。システムエンジニアになって六年。って仕事の話は止めとこか。どこを切っても辛い思い出しかない金太郎飴や。まあ、同じ体にいる者同士、仲良うやっていこか。
(僕の名はアーテル=グラキエス。辺境伯家の三男で十二歳だ。よろしく頼む)
アーテル……、アーテル!? 俺は聞き覚えのある名前に驚きを隠せなかった。年末の注目作として鳴り物入りで発売されたRPG「アストラルオーダー」。俺もネット通販で購入して積んだままにしていた。アーテル=グラキエスといえば、黒幕として世界を混乱に陥れた元凶でありラスボスとしてPVで紹介されていたはずだ。銀髪碧眼のイケメンで氷魔法と剣術を操る細マッチョだったが、深淵から力を引き出そうとして化け物に堕ちたはず。
アーテルは銀髪碧眼か?
(なんだいきなり。まあ、そうだが。鏡を見ればいいだろう)
氷魔法と剣術が得意か?
(自己研鑽は貴族の嗜みでもある。氷魔法は亡き母からの直伝だ)
自分を犠牲にしても叶えたい願いがあるか?
(そうでなければ、若と契約していないだろう)
ランプの魔人みたいなやり取りで確信したが、これはヤバい。もしかしなくてもゲーム世界の黒幕に転生したのか。何よりヤバいのは、仕事が忙しくて積みゲーにしていたことだ。PVと紹介記事の断片的な知識しか持ち合わせていない。エアプ勢より酷い有様だ。これから起こるであろう未来の出来事についてはさっぱりわからない。そんな生齧りの情報からでも飛びっきりの厄ネタがある。
アーテルには妹がいたよな?
(僕を看病してくれているな。若が手を出そうとしただろう)
アーテルが黒幕になった原因。それは妹の死だった。復讐に駆られたアーテルは辺境伯家を乗っ取り、黒幕として世界中で暗躍する。ゲームの始まりはそうだったはずだ。
マズい、アーテル。遠くない未来、妹は死ぬだろう。あんさんは復讐に駆られて世界を壊そうとするぞ。俺は世界の終わりを告げる預言者よろしく衝撃の言葉を伝える。自分が我を忘れるほどの怒りに囚われるとは思えないが、アーテルはそうではないはずだ。
(何を言っているんだ。そこまでわかっているなら僕と若で止めればいいじゃないか。そう言えばまだ願いを伝えていなかったな。僕の願いはただひとつ。妹を幸せにすることだ)
まったく、まったくだ。悪魔として失格やな。起きるかもしれない未来に怯えてどうする。理想とする未来を掴み取るための努力なんて、終わりの見えない仕事に比べたら屁でもないわ。やったろうやないか。女の子ひとり幸せにできんでどうする!
(ふっ、捉えどころのない男かと思えば、心の奥底にはくすぶっている種火が残っていたんだな。ああ、いいだろう。僕と共に歩もうじゃないか)
俺は心の中で、アーテルと固く握手を交わした。まだ少年と言っていい歳のせいか将来、黒幕になるような怜悧で酷薄な印象は受けない。おそらく彼の信念を根底から覆す出来事が妹の死なのだろう。何としても止めなければならないと心に誓った。
さて、取りあえずなんでアーテルは死んでしまっとるんかから聞こか。