3-06 ガラスの靴のディアマンティーノ
母が再婚して、ミュリエルにはリュセットという妹ができた。父親譲りの笑顔で笑う、素敵な子。
そんな妹と初めて顔を合わせた日の夜、彼女は悪魔の訪問を受ける。
「ガラスの靴」の姿をした悪魔、ディアマンティーノ。
「君の妹は、悪魔に命を狙われているよ」
「どうして?」
「魂が特別なんだ。命を奪ってでも取り出したい悪魔が、大勢いる」
「なぜ私のところに来たの」
「僕と一緒に、他の悪魔と戦って」
「あなたはリュセットの味方なの?」
「僕もあの子の魂は欲しい。けれどそれ以上に、あの子がこれから歩む人生を邪魔させたくないんだ」
悪魔の力は、人の願いで強くなる。
他の悪魔を圧倒する力が欲しいディアマンティーノ。
妹を守りたいという願いを持つミュリエル。
足りないものを出し合って、二人はリュセットの明日を守る。
ベッドの中で、ミュリエルは今日初めて顔を合わせた妹のことを思い出していた。母の再婚相手の連れ子、リュセット。父親譲りの素敵な笑顔で笑う子だった。
「私もあんな風に笑えたらなあ」
我が家の女主人である母に似て、ミュリエルの外見は威圧感があるらしい。イライラしている日だったとはいえ、小さい子に顔を見るなり泣かれたことがある。真っ黒な髪がもう少し明るい色なら、目つきがもう少し柔らかければ。
「お勉強もできるらしいし」
お互い本を読むのが趣味で、今日は好きな本の話をした。その時に分かったのは、リュセットが外国の言葉をいくつか読めるということ。
父親が国をまたいで事業を営んでいるため、自然と身に着いたのだという。
「あの子よりもすごいと思えること、ひとつも無い。そんな私がお姉さん……なれるのかな?」
「そんな弱気じゃ困るなあ」
「誰!?」
ミュリエルが声のした窓辺を向くと、閉めたはずの窓が開き、何かキラキラとしたものが入ってきた。月の光を受けて輝くそれは、ガラスの靴。履くもののいない靴が、軽快で硬質な足音を立ててひとりでに動いている。
「はじめまして。僕はディアマンティーノ、悪魔だよ」
静止した一組の靴は、ガラス細工の小人へ姿を変えた。短い手と足、胴体と同じ大きさの頭にはとんがり帽子。
「妖精じゃなくて、悪魔?」
「もう少し、悪魔らしい姿の方が良かったかな?」
言葉に合わせて尖ったしっぽと爪を伸ばすが、それでも小人の印象は「悪い妖精」のそれ。
「ずいぶんかわいい悪魔ね」
「かわいい、のかあ。女の子の感性は難しいね」
伸ばした部分を戻しながら、やれやれと首を振る。
「今日はお願いがあって来たんだ。まずは事情を、落ち着いて聞いてくれる?」
かわいくも少々うろんな乱入者に、ミュリエルは続きをうながした。
「まず、君の妹は悪魔に命を狙われている」
「……それは、あなたも?」
彼女の目の前にいる小人も、悪魔と名乗った。
「僕は違うよ。あの子の魂は欲しいけど、生きていて欲しいと思ってる」
「いったいどういうこと?」
「リュセットの魂は特別なんだ、悪魔なら誰でも欲しくなる。肉体という器を壊して取り出そうとする奴も、絶対にいる」
「……あなたがそうじゃないのは」
突然の物騒な話に、顔色の悪くなったミュリエル。そんな彼女をさしおいて、悪魔は楽し気に笑う。靴と小人、どちらの姿もこの悪魔の一面でしかない。
「ミュリエルは、読んでる途中の本を燃やされたらどう思う?」
「あなたにとって、私の妹は一冊の本なの?」
「今まで読んだ中で一番好きな本、だね。他の悪魔を敵に回してでも、最後まで読みたい。それに……」
ディアマンティーノの表情から、笑みが消えた。
「今までいくつもの人生を見てきたから知ってる。人間の一生は百年にも満たないけれど、それでも人間にとっては長くて大事な時間だって」
悪魔にとって死は、遊びの順番を飛ばされる程度のものでしかない。
「僕らにとってはたったの百年、人間にとってはただ一つの命。争奪戦を待つくらい良いじゃないか。僕はそう思うんだけど、そう考えない悪魔もいる。そいつらの、邪魔をしてやりたいんだ」
「私へのお願いって……」
「僕といっしょに、悪魔と戦って欲しい」
昔ミュリエルは「頭を抱えたくなる」という表現を見た時、それがどういうものなのか分からなかった。今、彼女はそれを経験として理解している。
ただの人間の子供に過ぎないミュリエルが、どうやって悪魔と戦うというのか。
「僕ら悪魔の力は、人の願いに反応して何倍にも強くなる。ミュリエルの願いを僕に向けてくれれば、どんな悪魔が相手でもリュセットには指一本触れさせない」
寝間着越しに、ミュリエルは自分の胸に手を当てた。
「リュセットに生きていてほしい」という気持ちはもちろんある。しかし彼女には、この想いがディアマンティーノの言うような力を生み出すとは思えなかった。誰の心の中にもあるはずのこれが、そんなに大層なものであるはずがない。
「気持ちの強さだけなら、リュセットのお父さんやミュリエルのお母さんもあまり変わらない。でも、僕の力は二人と相性が悪いんだ。ミュリエルほどの力が出せなかったり、出せても他に問題が出てくる。そんなのは一人で戦うのと大して変わらない。いっそ一人で戦った方が良いくらいだ」
ディアマンティーノは体を浮かせて、ミュリエルに真正面から視線をぶつけた。
「ミュリエルとじゃなきゃ、戦い抜けない。僕に『君の想い』を貸して。僕の『悪魔の力』を預けるから」
眼光、意思、存在感。抑えられていた彼の一側面、強大な悪魔としてのそれが露わになり、圧力となってミュリエルを捉える。息のつまるような感覚を押し返し、彼女が声を出そうとしたその時、空気が弾けた。
「……まさか、こんなに早く来るなんて」
「今のは、何?」
「他の悪魔が眠りの魔法を使って、僕が抵抗した。このお屋敷が崩れたって、他の人間たちは起きられない」
ディアマンティーノは天井へ視線を向け、その先に存在する悪魔の気配を推し量る。
「今日は、僕一人で戦う」
「っ、いきなりどうして!? さっきまであんなに」
「こんな状況で、君にYesと言われても信頼できない」
ガラスのボディが軋み、膨れる。ミュリエルと話をしやすくするための姿は、今必要なものではない。
「待って」
「……危ないよ、けっこう大きくなるから」
両手で体を包むように、制止された。これでは力を開放することができない。
「勝算はあるの?」
「十回やって七回勝てる、かな」
「三回は負けるじゃない!」
手の中のディアマンティーノを回し、視線を合わせる。
「私が協力したら、どう?」
「十回やって十回勝てる。相手にならないよ」
「なら、そうして」
「嫌だと言ったら?」
「やりなさい」
体にかかる指の力が強くなった。
「あの子がいくつだと思ってるの? 私の少し下で、まだ十にも満たない」
人の想いは、あふれると目から零れ落ちる。彼は何度もそれを見てきた。
「それが、十回に三回は死ぬ? ふざけないで!」
「ふざけてなんかいない。悪魔に死にゆく人間の気持ちなんて、分かる訳がないだろう?」
「……私と一緒に戦うの、戦わないの?」
ディアマンティーノの顔に笑みが浮かぶ。
「悪魔の力を振るってみるかい?」
ミュリエルの手の中で、彼はガラスの靴へ姿を変えた。
「僕の力は『人間を望む姿に変える』もの。僕を履いたものは、願いを反映した姿に変わる。主導権は渡すから、状況に流された訳じゃない、力を預けるに足る人間だと僕に示してくれ」
今日まで生きてきて、彼女は一回も武器を持ったことが無かった。それに等しい存在が、今その手の中にある。相応の恭しい手つきで床に置き、履く。
見た目通りの冷たさは無い。温度を持たない悪魔の力、先にディアマンティーノが解放しようとしていたものが、足を経て全身へと流れ込む。
ミュリエルは、まるで体が弾けるかのような圧を内側から感じ、実際に自分の体が大きくなっていることに気付く。普段の自分を見下ろす高さは、大人の目線。
服装も変化していた。つばの広い帽子、ブーツにマント、腰にはサーベル。
「これは、銃士?」
「君の願いに応じた姿だ」
彼女が読み親しんだ本の中のヒーロー。悪魔の力はその姿を選んだ。
この姿で成すべきは、ひとつ。
頭上に感じる気配を一瞥し、窓の外へと飛び出す。悪魔の力で作られた姿は、「物が下へ落ちる」という法則には縛られない。マントをひるがえし、屋敷の上空へと昇る。
「……ディアマンティーノ、ありがとう」
「何のお礼?」
双眸で捉えた悪魔の姿は、ガラスの小人など比較にならない異形だった。首の無い人の胴体、片腕は絡んだ鎖、もう片方はトカゲのカギ爪、下半身は大型の動物。
「あなたなりに、私に歩み寄ってくれたんでしょう?」
今も彼は、ミュリエルに戦うための力を与えてくれている。異質な存在だと理解はしても、恐れはない。
「やりたいようにしただけだよ」
「私も、ありがとうと言いたくなったから言っただけ」
「……悪くないね、その考え方」
悪魔の鎖が解け、それぞれの先端についた凶器が顔を見せた。鎌首をもたげた蛇のように機を窺い、矢のような速度で一斉に襲い掛かる。
ミュリエルは、回避ではなく防御を選んだ。彼女が体を覆ったマントを、鎖たちは貫くことができない。
ふと、彼女の頭に考えが浮かぶ。体の中の圧力を、この鎖に流せないか。
悪魔の力は、願いと言うにはささやかな考えに反応してみせた。
増幅された力の奔流が、マントを介して鎖へと流される。そして鎖たちは弾け飛んだ。ミュリエルの願いに沿って、悪魔の肉体を破壊する。
「悪魔の力、かける人の心。その答えは……」
彼女が無造作に抜き、縦に振るったサーベルは悪魔の体を両断していた。
「この、圧倒的な力」
「そこは『私の勝利』でしょう?」