3-03 ルチーナは真実を知りたい~育ての母は無実の罪で追放された悪役令嬢でした~
高級娼館ポヌ・エタリースに生まれたルチーナは店主のスピラを母代わりに育った。しかしスピラの急逝にルチーナの運命が大きく動き出す。
ルチーナは悲しみにくれる中、スピラが残した一通の手紙を手にした。その内容はスピラの過去を記したものだった。かつて伯爵令嬢だったスピラは婚約者と婚約者の浮気相手に濡れ衣を着せられ、婚約破棄。さらには伯爵家からも除名となり、失意の中娼婦となったというもので……。
ルチーナはスピラの濡れ衣を晴らすべく、街で出会った訳あり公爵子息ユークレイトと共に真実を求めて王都へ向かう。けれどユークレイトの事情も一筋縄ではいかないようで……。
嘘と駆け引きだらけの貴族社会で、はたしてルチーナはスピラが着せられた罪の真相にたどり着けるのだろうか――
母が死んだ。
いや、母と言っても血は繋がっていない。ルチーナにとって育ての親にあたるスピラが、つい三日前、突然この世を去った。
普段はきつい香水の匂いと男女の睦み合う声で賑やかな娼館ポヌ・エタリースも、陽の高いこの時間はシンと静まり返っていた。夜の仕事を終えた娼婦たちはすっかり寝入っている時間帯だ。だがそれ以上にオーナーだったスピラの死が暗い影を落としている気がする。
「はぁ、疲れた……」
ルチーナは小さなため息と共に調理場に足を踏み入れた。きつく結ったミルクティー色の髪を解くと、着慣れない喪服のせいもあって一気に体が重くなる。腫れぼったい瞼を映した水を一気に飲み干すと、その辺に置いてあった椅子にドカッと腰を下ろした。
「葬儀は終わったから、あとはお得意様に手紙を書いて……」
無事に葬儀が終わったものの、ルチーナの仕事はまだたくさん残っている。悲しんでいる暇はない。今夜もまた客が押し寄せるのだから――。
ポヌ・エタリースはリオランダ公爵領と王家直轄地の狭間――“享楽特区”と呼ばれる地区にある。享楽特区は今でこそ多くの酒場に賭場、そして娼館が立ち並び賑わっているが、元は罪人の流刑地だった。そういった背景もあり王家ですら目こぼしする享楽特区には身分を隠して遊びに来る貴族が後を絶たない。
中でもポヌ・エタリースは、貴族であってもなかなか予約が取れない有名店。この店を今の地位まで押し上げたのは他でもないスピラだった。
神秘的な黒い瞳が印象的だったスピラは、かつて享楽特区の頂点に立つ娼婦だったらしい。スピラ目当てにお忍びでやって来る貴族は後を絶たず、隣国からわざわざやって来る常連もいたと聞く。
ルチーナがこの店で娼婦の子として生まれた時には既に経営側に回っており、産みの母が産後すぐに亡くなってからはスピラが母代わりとなってルチーナを育ててくれた。二年前、ルチーナが十六歳になってからは売り上げの計算など、店の手伝いもさせてくれるようになっていた。娼婦たちも妹のようにルチーナを可愛がってくれたおかげもあり、ルチーナはこの街で何不自由なく生きて来たのだった。
けれどまさかこんなに早く別れが来るなんて、思ってもいなかった。
いつもの時間になっても起きて来ないスピラを「疲れているだろうし、ゆっくり寝かせてあげよう」と呼びにいかなかったのはルチーナだ。もしもっと早く起こしに行っていれば、スピラは助かったかもしれない。
ルチーナのヘーゼルの瞳からぽとりと水滴が落ちた。
「……私のせいよね」
それはスピラの死から幾度となく繰り返した言葉だった。店の従業員たちも教会の司祭も、皆スピラの死は「ルチーナのせいじゃない」と言ってくれた。けれどルチーナの胸に重くのしかかる罪の意識は消えない。
スピラは本当の母のように深くルチーナを愛してくれていた。スピラの部屋にはルチーナが幼い頃に描いた似顔絵や手紙がまだ飾られているし、赤ん坊時代の服もまだ保管してある。そしてルチーナが一人になっても困らないようにと、スピラはこれまで様々なことを教えてくれた。読み書きや言葉遣いはもちろん、貴族相手の商売方法に気難しい人物の懐柔方法、経営者としての心構え。果ては女として生きて行くための手練手管まで……。厳しいスピラに当時は辟易していたものの、今になってようやく気付く。全てスピラの愛だった、と。
「まだまだ一緒だと思っていたのに……母さん、ごめんなさい……」
ボロボロと零れる涙が黒いスカートを濡らす。こらえ切れない嗚咽を少しでも抑えようと、ルチーナはポケットからハンカチを取り出そうとした。すると指先にかさりと触れるものがあった。
「そういえば……」
葬儀の後、司祭から渡されていたものがあったのをすっかり忘れていた。取り出すと、それは黄ばんだ封筒だった。
「司祭様は母さんから預かっていたと言っていたけど……」
スピラは自分に何かあったら読んでほしいと言っていたらしい。懺悔の代わりということだろうか。しかし司祭はルチーナに渡すことを選んだ。「神はもうスピラさんを赦しております。これはあなたが持っていた方が良いでしょう」と言い添えて……。
ルチーナは鼻をすすりながら、わずかな迷いと共に封を切った。秘密を覗き見るような後ろめたさはあったものの、それよりもスピラの存在を少しでも感じたかったのだ。
封筒の中には数枚の便箋が入っていた。仰々しい紋章が刻印された便箋には几帳面そうなスピラの筆跡で文字が綴られている。だがすぐにルチーナは手紙を読んだことを後悔することとなった。
「なに……これ……」
手紙に書かれていた信じられない内容に、ルチーナは思わず店の外に飛び出していた。
§
手紙に書かれていたのは、スピラが元は伯爵家の令嬢だったという内容だった。
婚約者がいたものの、婚約者に浮気相手がいたこと。そして浮気相手から無実の疑いをかけられ婚約破棄。さらには実家の伯爵家から除名されてしまった無念や、娼婦となった後悔が、所々涙で滲んだインクで綴られていた。
(なら母さんは、貴族のお嬢様だったってこと……?)
まさかそんなことあるわけがない。これではまるでスピラが小説に出て来る悲劇の悪役令嬢ではないか。作り話に決まっている。しかしスピラはそういった冗談を言うような人間ではなかった。
(それにあの母さんが、濡れ衣を着せられたままでいるはずがないわ。あの手紙はきっと何かの間違いよ)
ルチーナの知るスピラは強い女性だった。どんなに理不尽な要求をしてくる客にも毅然とした態度で立ち向かっていた。
(それなのに、あの手紙の中の母さんはただのか弱いお嬢様じゃない。そんなの母さん――ポヌ・エタリースのスピラじゃないわ)
まずは司祭に詳細を聞かなければならない。教会への道を急ぐルチーナは、動揺のせいか背後に近づく影に気づけなかった。
「おい、ルチーナ」
急に名を呼ばれ、弾かれたように振り向いたルチーナの視界に飛び込んできたのは汚れた姿の男だった。
「あなた……」
「スピラが死んだとは嬉しいねぇ。ようやくあの日の恨みが晴らせるぜ」
ルチーナはニヤニヤと近づいてくる男に見覚えがあった。かつてポヌ・エタリースに在籍していた娼婦に執拗に迫り、出入り禁止になった男だ。ポヌ・エタリースで問題を起こしたとなればこの街でこの男を相手にする店は無くなる。そのせいでスピラ、そしてルチーナに逆恨みを募らせていたのだろう。
「何言ってるの? 悪いけど私、今急いでるの」
「うるせぇ! その前にその喉掻っ切ってやるよ」
そう言って男が取り出したのは錆びたナイフだった。
まだ周辺の店も開いていないこともあり、助けは期待できない。それなら騒ぎになる前に早くかたをつけてしまおう、そうルチーナが思った時だ。男の後ろから別の影が飛び出してきた。
「――今のうちに逃げろ!」
「えっ!」
男の上に覆いかぶさったのは金髪の、まだ若い眼鏡の青年だった。きっとルチーナを助けようと男に飛び掛かってくれたのだろう。だが、残念なことに彼はあまり争い慣れていなかったらしい。
「――っ、はなせぇっ!」
「うわぁっ!」
青年は暴れる男に振りほどかれ、べしゃあっと激しく土煙を上げながら地面に投げ出されてしまった。ルチーナが慌てて青年に駆け寄ると、分厚い眼鏡にひびが入っている。顔に擦り傷をいくつも作り、見るも無残な姿だ。
「ちょっ……あなた大丈夫――」
「くそぉぉっ!」
一方、邪魔が入ったことに怒りを増した男はナイフを振りかざし、一心不乱にルチーナめがけて突進してきた。男の目は焦点が定かではない。こうなれば力づくで止めるしかない。
――ルチーナ、いいかい。女が何かに立ち向かう時は、絶対に譲れないものがある時だけだ。あたしは立ち向かう相手を間違えたけど、あんたなら大丈夫だ。なんたってあたしの娘なんだからね。
その瞬間、脳裏にスピラの声がよぎった。
そうだった……。ルチーナが立ち向かうべきは、今ここではない。
「うわぁぁっ!」
激しい叫び声をあげる男のナイフがルチーナに迫る。しかし男のナイフがルチーナに届くことはなかった。
刹那、男の体が宙を舞う。男の突進する勢いを使いルチーナがその体を背負い投げたのだ。
この技もスピラから教わったものだった。ルチーナの中にはしっかりとスピラが生きている。そのことに気づくと胸の奥が熱くなった。
(母さんが何者でもいいわ! だって私の母さんは、ポヌ・エタリースのスピラ――ただ一人だもの!)
ズン、と男が地面に沈む音と同時に、ナイフが軽い金属音を立てて地面に落ちた。さらにとどめとばかりに男の顔を力いっぱい踏みつけると、「ぎぇっ!」とカエルが潰れたような音を出して男は動かなくなる。このまま寝かせておけば、きっと誰かが回収していくだろう。
ふん、と鼻を鳴らし、次にルチーナは座り込んだままの青年を振り返った。
「ありがとう。おかげで助かったわ」
「あ、いや……」
「さ、手当てしないと。行きましょう」
そう言って呆気に取られている青年の手を取ると、ルチーナは力いっぱい引き上げる。このままポヌ・エタリースに戻り、青年を手当てしよう――動き出すのはそれからで良い。もう教会に行く必要は無くなったから。
(母さんの濡れ衣、私が晴らしてみせる……! 私は母さんのために立ち向かうわ)
数日振りに目の前の霧が晴れたような清々しい思いだ。ルチーナは思惑を秘めた眼差しに気づかないまま、一歩を踏み出したのだった。