3-02 宵闇に焦がれて
人間に絶滅させられた獣人の生き残り、イスキオス。
世話役として買われてきた孤児で奴隷の少女、セナ。
二人を引き合わせたのは、秘密裏に獣人の繁殖を目論む王宮魔導士だった。
「種を」
魔導士はひと月に一度、イスキオスから「種」を採取する。
その種をどこでどうしているのかをイスキオスは知らない。
研究で使われていることだけは知っていたが、それが不快でたまらなかった。
魔導士に触られることも、その時間がくることが、苦痛で仕方なかった。
ある日、イスキオスにとっては気持ちの悪いその光景を、セナに見られてしまって。
「私は、イオ様を守りたいです」
セナはイスキオスを救うために、奴隷として生きるはずだった未来を切り拓く。
虐げられる獣人と、奴隷の少女の、密かで切ない恋のお話。
イスキオスは、かつて種を絶たれた獣人の生き残りだった。
「種を」
男が小さな皮袋を手近に置き、イスキオスに近づく。逃げ場のない部屋、目の前に立つのはイスキオスに恐怖を植え付けた魔導士の男だ。
ベッドの上で固まったイスキオスの下腹部に、男が触れる。
「やめろ……やめ、っ……」
「吐くな。集中しろ」
「う、あっ……」
「そのまま集中していろ」
男の手がイスキオスを刺激する。たちまち体が高揚し、嫌悪が薄れていく。イスキオスの背中には男がいて、抱えるようにして密着していて。器用に、自身にも刺激を与えていた。
「やめ、もう……っ」
「皮袋に」
イスキオスの種は、小さな皮袋へ。
手に入れるべきものを採り、自身はすっきりした男はさっさとイスキオスから離れた。
「また、ひと月後に来る」
男の気配が消えたことを確認して、イスキオスはその場でしばらくえずき続けた。舞い戻った嫌悪感が、何倍にも膨れ上がって押し寄せてきていた。
「くそ、くそっ……」
男に触られること、捌け口の対象として見られていること。種の再興を目論みイスキオスから採取した種で研究を重ねていることに、日毎に不快さが増して耐えられなくなっていた。
「くそ……」
けれど、それよりもここから逃げ出すことのできない己の弱さに、イスキオスはただ悔しさに耐えるしかなかった。
それから、数日後のこと。
「こんにちは、お邪魔します! セナです! イスキオス様の世話役ですっ!」
王都から早馬でも五日はかかる、辺鄙な村のさらに外れに建つ家。そこに住まわされているイスキオスの前に突然現れた子供は、場違いなほど明るく自己紹介をした。
「……は?」
驚いたことも事実、ここには魔導士しかやってこない恐怖もある。しかし子供の陽気さに警戒心は薄れ、怪訝が勝った。
イスキオスより頭ひとつ分ほど小さい子供。黒髪は肩につかず、ぱさぱさで質が悪い。衣服は大きいからだぼつくのか、子供が痩せ細っているからだぼつくのか。男とも女とも取れる無垢な顔立ちの子供は、とても幼く見えた。
イスキオスの頭に生える二つの耳が注意深くその子供に向き、慌てて手近な布を被って隠す。
「なんだ、このガキ」
「セナです! 世話役です!」
「いらねぇ」
「いります!」
「お前、どっから出てきた? 魔法陣か?」
イスキオスは部屋を見回した。
窓は開いておらず、扉も閉まったまま。他に部屋のない一階は、竈と小上がりがあるだけの手狭な空間。階段を上がると二部屋あるが、一室は本棚があるだけで、もう一室は魔法で閉ざされている。――魔導士が転移に使う、魔法陣の敷かれた部屋だ。
意識して、イスキオスのしっぽの毛がぞわりと逆立った。
「どうやったか知らないが、魔法陣を使って勝手にここに来たなら殺されるぞ」
「勝手ではありません! ま、魔法使い様より仰せつかってます!」
「本当に魔法陣から来たのかよ」
「お手紙、預かってます!」
握りしめていたらしい封筒をイスキオスに差し出す。袖からのぞいた細い腕には紫色の痣があり、先ほどからイスキオスの鼻を嫌な匂いが刺激している。
受け取った手紙をひらくと、イスキオスは顔を顰めた。
「……ふん。テメェのふざけた実験のために、とうとうこんなガキまで巻き込んだか」
手紙には、簡単にセナのことが書かれていた。
身寄りのない孤児なこと。家事全般ができること。村で必要品の買い付けをすること。学は与えていないこと。決して、秘密を漏らさないよう躾けてあること。
秘密か、とイスキオスはセナの腕を掴む。
「躾けただと? それが、これかよ」
「あっ、やっ」
イスキオスは抵抗するセナの服を捲り上げた。腕だけでは収まらない、腹に広がる殴り蹴られした痣。雑に手当てされ、包帯には血が滲んでいた。
「ご、ごめんなさい! 殴らないでっ」
「殴らねぇよ。そこ座れ」
チッ、と無意識に舌打ちをすると、セナの肩がビクッと跳ねた。あぁ……と、深く息を吐く。
「俺はお前を殴らない。蹴りもしない。水と包帯を用意してやるから、俺が怖いなら自分で手当てしろ」
「これは、自分で手当てしました……」
「じゃあやり方を教えてやる。離れてお前に触らないから、俺の言う通りにやってみろ」
「は、はい」
竈の前にある小上がりにセナを座らせ、イスキオスは手当ての準備を整えた。セナから離れ、水で傷を拭ったのを確認して包帯の巻き方を教える。
「綺麗に巻け。ねじれたり、ゆるまないように、ちゃんと傷を覆え」
「こうですか?」
「ねじれてる」
「えっと、こう?」
「巻き始めがゆるんでる」
「こ、こう……」
「きつく締めすぎだろ」
「イスキオス様ぁ……」
セナが潤んだ瞳でイスキオスを見つめる。その顔には「無理です……」とありありと書かれていて、イスキオスは苦々しくため息を吐いた。
「腕上げろ。動くなよ」
「はいっ」
イスキオスは下手くそな包帯を解き、肋の浮いた体を間近に見る。痛々しい打撲痕。裂傷。ちゃんと拭えていないところを水で清め直し、痛みに体を震わせたセナをちらりと見やる。
「お前、怖くないのか」
「怖く……ない、です。今は。殴られないから……」
「そういうことじゃない。俺が怖くないのかってことだ」
聞きながら、イスキオスはセナの薄い腹に包帯を巻いていく。一本で足りるだろうかと心配していたが、セナの腹にはあまりが出るほどだった。切れ味の悪いハサミで包帯を切り、結ぶ。
すると、イスキオスの頭の布をセナはおもむろに剥ぎ取った。人間にはない二つの獣耳が露わになる。
「おい……!」
「イスキオス様は、私を殴りますか?」
「はっ?」
「私を躾けるために、殴りますか?」
セナの涙の溜まった瞳がイスキオスの獣耳から、イスキオスの瞳へと移る。まるで獣であることは関係がないようにまっすぐ見つめられ、イスキオスは言葉が詰まった。
「俺は……殴らない……」
「じゃあ、怖くないです」
セナがにっこりと笑う。
目尻からこぼれそうな涙は自分の小さな手で拭い、セナの声が最初の明るさを取り戻した。
「イスキオス様、世話役のセナです。よろしくお願いします!」
◆
獣人は人間にはない脅威の力を持つ。
生まれ持った能力、筋力、脚力、時には襲う本能も。かつて獣人を支配下に置きその力を利用しようとした人間たちは、いつからか獣人による反逆を恐れ種を絶つ計画を立てた。
先の王の時代の、壮大な捕物劇であった。
イスキオスはその戦火から逃された、唯一の獣人の子なのだ。
「イオ様、お食事ができましたー!」
セナが声を高らかにする。同じ空間、同じく竈のそばにいたイスキオスは眉間に皺を寄せた。
「そんな大きな声を出さなくても聞こえる。というか、見てるからわかってる」
「えへへ」
セナは家事を得意とした。
見てくれはかなり幼いが、実際は十二歳らしくてきぱきとイスキオスの世話を焼いた。
セナがやってくるまでの食事は魔導士が用意した保存食ばかりだったので、イスキオスは久しぶりに作りたての温かな食事を口にした。
「お前は料理がうまい」
「洗濯も上手ですよ!」
「そうだな。身長さえもっとあればな」
「イオ様もちっちゃいです!」
「うるさい」
セナが小さいのは、どうも栄養が足りていないだけのようで。
イスキオスは中身は成熟しているが、見た目はセナの言う通り小柄だった。
「俺が小さいのには理由がある」
「これから伸びるんですか?」
「……さぁな」
もう、伸びることはないだろう。イスキオスは理由を思い返して、気分が悪くなった。
「悪い、もう……」
「お腹いっぱいですか? 食器、下げますね」
下げた食べ残しも「私が!」と頬張るセナに、イスキオスは影を落として微笑んだ。
――魔導士による成長阻害の魔法。
イスキオスの見た目が小柄なのは、その魔法をかけられているせいだ。理由は、精通を終えて間もない若い種を継続的に採取したいためである。
十四歳の体のイスキオスはこれからも若い種を残せる猶予があるが、魔導士の研究がいつ目的に結びつくのかがわからないから。
イスキオスの本当の年齢は、すでに十八歳を迎えている。体だけ十四歳のまま、イスキオスはここで三年の歳月を過ごしていた。
「そのうち、お前に追い越されるんだろうか」
「え?」
買い出しに行く準備をするセナが振り返った。イスキオスは「いや」と目をそらす。
いつまで俺は、ここで。
滅んだはずの獣人。過去の捕物劇は先の王の英雄譚として、獣人は悪として語られている。イスキオスがもし魔導士から逃げ出して、その脅威となる存在が人間に知れた時――。
イスキオスの命を、今度は誰が握るというのか。人に殺されるか、それても魔導士に心を殺されるか。
イスキオスにとっての幸せは、決して命が続くことではなかった。
「行ってきます、イオ様!」
ぎゅっと、籠を持ったセナがイスキオスに抱きついた。
「おいっ……」
「いってきますは、こういうものなのでしょう?」
見上げるセナは「やってみたかったんです」と無垢に微笑む。そう言われてしまえば、イスキオスは振り払えなかった。
「気をつけて行ってこい」
「はい!」
陽の下を駆けていくセナは、イスキオスの目にどこまでも眩しく映る。しっぽがゆらゆらと、人知れず揺れた。