3-23 ユーフォリアに感傷を
車に轢かれた猫の亡骸。それは日常のようで非日常だった。
通学路の途中で猫の亡骸を見つけた私。死を悼んでいると突如として視界が光に侵される。現れたのは暖かな世界で、そこはまるで楽園のようであった。一面に広がるたんぽぽの花畑。懐かしい匂い。果てしない空。そしてそこにいる一人の少女。
白髪を揺らしながらこちらを見る少女はいったいどういう存在なのか。この世界はいったい何なのか。疑問を抱きながら私は惹かれるように少女へと歩き出した。
不思議な少女と世界に触れた私は、この世界の生命の仕組みを目の当たりにする。そして、少女に手を引かれるようにしてその仕組みに巻き込まれていく――。
裏で複雑に絡み合う少女の思惑。私の抱えた後悔。訪れる「終わり」の時。
――どうかあなたの人生に幸福がありますように。
自動車という金属の塊に撥ねられた白い猫の亡骸。
小さくて、柔らかくて、簡単に崩れてしまいそうなそれは、本当に簡単に崩れてしまう。きっと少し前までその柔い体で懸命に息をして生きていたはずなのに、それはもう二度と動かないのだろう。
どんな性格だったのだろうか。猫らしく警戒心が強かったのだろうか、それとも人懐っこかったのだろうか。どんな声で鳴いたのだろうか。その可愛らしい顔に勝手に甘えたような高い声を想像する。
けれど、どんなに想像しても、今はもう脱力していて生命だった片鱗すら感じさせない。それが失われるときはどれほどの痛みだっただろうか。想像もできないその最期は幸福だっただろうか。きっとそれは私にはわからないことだった。
猫の前で立ち止まる私に、いくつもの視線が刺さって、そして逸らされる。悲しいことに、この世界はこれが日常と化しているようで、誰もが見て見ぬふりをしていた。無残なその姿に私は目を伏せて、しゃがみ込む。ただ、今はこの子に頑張ったねと言ってあげたかった。その頭に触れようとすると、私を眩いほどの光が包み込んだ。
温かな匂いがする。何時かに私を守るように包み込んでくれていたような、懐かしい匂い。胸が不思議と締め付けられて、涙が零れ落ちそうだった。そんな私の頬を柔らかな風が撫で、それに導かれるように顔を上げる。
その瞬間、視界が黄色い光に埋め尽くされた。一面に広がるたんぽぽの花畑。たんぽぽというのはこんなに光を放っていただろうか。鮮やかなそれは眼を細めるほど眩いのに、私の胸に安心感を滲ませる。
その周りを小さな光が瞬くように舞っていて、まるで生命の煌めきのようだった。そっと指先で触れれば、光は溶けるように消えていく。私はいつの間にか裸足になっていて、光を追いかけようと一歩踏み出すたびに足の裏をたんぽぽがくすぐった。その感覚に何処までも行けるような気さえしてくる。たんぽぽの上を歩くたびに黄色が舞って、光の中を歩いているようだった。
見上げれば雲一つない快晴が果てしなく広がっている。地平線に近づけば近づくほど空は白んで、永遠を湛えていた。私は何となしに手を伸ばしてみる。何処まで行ったらあそこに辿り着けるだろうか。何時までも辿り着けないような、けれど案外傍にあるような、そんな気がしていた。
風がセーラー服のスカートを揺らす。風は柔らかな空気とともに小さな猫の鳴き声を運んだ。そちらを振り返ると、少し遠くに白髪の少女が見えて、私は惹かれるように足を踏み出した。ただ少女が崩れ落ちそうに見えて、あの猫がふと頭によみがえってしまったから。曖昧な感情で、私は少女という存在に触れようとした。
ふわりと黄色が舞うたびにその輪郭が鮮明になっていく。その少女はただ長い髪を揺らして私を見つめていた。凪いだ視線に、けれど私の足が止まることはなかった。その視線に私を排除するような色は見当たらなかったから。白いシンプルなワンピースが翻って、少女の影が揺れる。
手を伸ばしあえば少女に触れられるくらいの距離で、私は自然と止まった。数秒見つめあって、それから私が口を開こうとした瞬間、ふわりとした感触が足に触れた。私がびくりと体を揺らして足元を見ると、真っ白な猫が擦り寄っている。先ほどの鳴き声はこの子のものだったのだろう。しゃがみ込んでその子を撫でると甘えたような声で鳴く。そんな私たちを見ていた少女が口を開いた。
「この子はきっと幸せだった」
白猫がそれに返事をするように鳴いて、少女の足に頭を擦りつけた。少女はそんな白猫の頭を一撫でして持ち上げる。そして私の方を見つめるので、私はそっと手を伸ばして白猫を受け取った。少女は満足げに微笑んで、胸元にあった十字架のネックレスを首から外す。
「だから、還してあげないといけない」
そう言って少女は数歩後ろに下がった。ネックレスの十字架を持って手を真っ直ぐ伸ばす。少女が瞬きをすると長く白い睫毛が揺れて、十字架は少女の身長ほどの大きさになっていた。白猫は少し弱弱しく鳴いて、瞬きを一つする。少女はそれに頷いて、その十字架を地面に突き刺した。
突き刺した部分から淡い黄色の光の粒が漏れ出して、天に昇っていく。その光は十字架の近くからも舞い上がり、段々とその光が舞い上がる範囲を広げていった。いつしかその光が世界全体から溢れ出すようになり、世界が崩壊し始める。風で花弁が舞い上がるように、魂が星になるように、世界の欠片が光になっていった。
崩壊していく世界を、私はただ目に焼き付けることしかできなかった。ふと私の目の前に光が舞って、その時初めて腕の中が軽くなっていることに気付いた。白猫を見ると、その体もまた光に包まれていた。その様子に私は慌てて少女の方を向く。少女は私を真っ直ぐ見詰めて言った。
「大丈夫、在るべき場所に還るだけだから」
私はその言葉に白猫がどこへ行こうとしているのか、感じ取ってしまった。僅かに顔を歪めた私に白猫は慰めるように鳴く。私は下手くそに笑って、もう大半が光となったその体を抱きしめた。安心したような顔をした白猫は、全てが光になって、空へと舞い上がっていく。
「またね」
私は、そう呟いていた。その光はちかりと瞬いて、空の彼方へ消えていく。光を見つめていた少女は私の言葉にこちらを向いて、少し目を見開いていた。光が消えて言った空を見上げて、またこちらを見て仄かに口角を上げる。
「……そっか。うん、いつかまた会えたらいいね」
その言葉に世界は完全に崩壊し、私の視界は白に染められた。
私はいつの間にか何時もの通学路にいた。温かな世界は、まるで最初から存在していなかったかのように跡形もなく消え去り、目の前には残酷な事実のみが広がっている。あの世界で動いていた猫もまた、物言わぬ塊と化していた。その亡骸に近づく影が見えてそちらを振り返ると、そこには少女がいた。それだけがあの世界が存在していた証明のような気がした。
少女の目から涙が一つ零れ落ちる。私はその光景が酷く神聖なもののように思えて、ただ見詰めることしかできなかった。もう一つ零れ落ちた時、漸く私は案じる言葉を口にすることができた。
「涙が……」
「大丈夫、終わりが近づいているだけだから」
少女はそう言って少し乱暴に涙を拭う。そして猫の亡骸に近づき、その下に手をそっと差し入れた。崩れないように慎重に持ち上げ、人が通らない道の端に置く。私はその傍に行き、手を合わせて目を閉じた。ただ安らかに眠れるように。きっと少女と考えていることは同じだった。
目を開けると、少女も私に倣って目を閉じていた。その横顔を眺めていると、暫くして少女が目を開けてこちらを向く。
「あの世界は魂がこの世に留まるために作るもの」
その言葉は私が欲していた説明で、けれど言葉が余りにも足りていなかった。
「この世界に留まる?」
「そう、魂というのは曖昧で何もしないでこの世に留まることはできない。けれど、世界を作って無理に留まってしまう魂がいる。そんな子たちを還すのが私の役目」
「この世に留まることって悪いことなの?」
そう私が聞くと、少女は僅かに顔を顰めた。それから寂しそうに笑う。膿んだ傷跡に触れたような感触は、私にその傷跡の痛々しさを目の当たりにさせ、僅かな居心地の悪さをもたらした。
少女はゆっくりと瞬きをした。もうその顔に寂しそうな色はなかった。
「正しく生まれ変わることができなくなってしまうから」
そして達観したような、それでいて酷く澄んだ瞳でそう言った。
「……じゃあ、なんでみんな留まろうとするの?」
「色々ある。例えば事故死してしまった野良の子なんかは自分が死んだことに気づかないから、留まろうとしてしまう」
少女は猫の亡骸を見ながら言う。私が思わず顔を歪めると、少女は私を見て柔らかく笑った。
「あの子は幸せだった。あの世界が何よりの証拠」
鮮やかにあの優しく温かい世界がよみがえった。あの世界は確かに幸福感を詰め込んだ世界だった。
目を見張る私に少女は付け足す。
「あの世界は魂そのものだから」
「……そっか、よかった」
私は息を吐くように笑う。表情なんてわからないはずなのに、光になったあの猫が最期に笑っていたような気がした。
そんな私に、少女は息を吸って僅かに硬い声で言葉を放った。
「――そして生きてるものがあの世界に入るためには素質がいる」
少女は私を真っ直ぐ見詰めた。目を瞬かせる私に畳みかけるように言う。
「貴女には私みたいなことをする素質がある」
「え……」
「ねえ、魂たちを還してみない?」
「でも――」
「貴女の身近な人がこの世界に留まっていたら、還すこともできるかもしれない」
私の言葉に重ねるように少女はそう言った。その言葉はまるで私の過去を見てきたかのように、私の後ろ暗い何かを露わにする。
母の、最期の顔が頭をよぎった。私を見て泣きそうに歪んだ顔。最期は柔らかく笑って旅立っていった、なんて書かれるような幸せな最期ではなくて、ただただ悲しみを纏った最期だった。その原因が私なんじゃないか、という可能性がずっと頭を離れなくて、お墓参りの時にいつも「幸せだった?」と問うていた。
その母は今どうしているのだろうか――。母がまだこの世界に留まっているんじゃないかと、漠然とそう思ってしまう。
黙り込んだ私に少女は静かに言った。
「無理やり還すのではなくて、説得できるのが一番だから。きっとそれは、私にはできないこと」