3-22 声の波間をおよいでく
女の子であること、母子家庭であること、生理痛が重いこと、将来の行き先が不透明であること。緩い閉塞感の中で学生生活を送る主人公が、歌うことに生きる意味を見つける青春小説です。
私と同い年くらいの女子高生がシンガーになって世界に認知され始めたとき、私は生理痛と戦っていた。お腹がじくじくと痛くて、トイレに座って孤独を感じながら、スマホを睨みつける。SNSで流れてくる、そのシンガーのうれしそうなつぶやきを睨みつける。
生理はつらい。
つらいよってトイレにこもってスマホに打ち込んだって、私のつぶやきなんか、トイレの水みたいに流れてく。さらさらSNS。
生理でつらいってつぶやいた方が良いんかな。でも具体的にかくのキモイやん?
どうしよっかな。
画面右上には8:17の文字。
もう学校には間に合わない。
「いいや、休も」
口に出すと、少しだけ楽になった。
股からドロリと血の塊が落ちた。
うちの家系は生理が重いのだ、とママは言う。
ママも生理の日は学校に行っていなかった。どうせ行っても、戻すんだ、といかにもそれが普通のことのように言う。それでも頑張って行ってた時もあったみたいなんだけど、ある時、朝ごはんに納豆と海苔を食べて学校に行った。そしたら、人前でそれを全部リバースしちゃったらしく、あまりに申し訳なくなって休むことにしたらしい。
私を産んでからちょっとマシにはなったんだよっていうけど、どう見てもマシじゃない。最近薬で何とかしてるって言ってるけど、やっぱしんどそうだ。
ママの従兄妹は、生理痛がひどすぎて倒れて、救急車で運ばれたとか。倒れた場所が学校だったし、先生がびっくりして救急車を呼んじゃったみたいだ。
私も、整理が始まってから1年くらいすぎた頃、調子がとても悪くなるようになった。産婦人科の先生に相談したら、痛みがひどくなる前に痛み止めを飲むのよって教えてくれたので、その通りにしている。それで、少し痛みはましになった。でも学校に行ってじっと座って授業なんか聞けない。動いてる方が楽だったりする。じっとしてるのがつらい。
私は制服じゃない服にそでを通した。
少し化粧する。顔色が悪いのは分かりにくくなる。プチプラのBBクリームを塗って血色を隠した。ブラシでパウダーを乗せて鏡の中の顔を確認する。アイブロウペンシルはこげ茶。ベージュのアイシャドウは目立ちたがりじゃないから好き。アイライナーはママのを借りる。今日はマスカラまではいらないかな。ビューラーで上げるだけ。チークはコーラル系。ラメが入ってて気分が上がる。
こうやってちゃんと準備すると、平日の日中に歩いていても大学生っぽいから不審がられたりしない。うんうん、今日もどっから見ても女子大生っぽい。
最後にふふんって口角を上げてみた。
お腹が少しだけしくしく泣いているけど、見ないふりができそうだ。
お気に入りのオリーブ色のスニーカーを履いて、私は外へ出た。
時間は九時を少し回ったところ。
定期を使って三条の方に行こっかな。京都のお店は九時には開いてないところが多いから、観光客も少なめだ。人が少ない京都が好きだ。錦市場を歩いてみたり、高瀬川を見ながら森鴎外のことを考えたり。一日中歩き続けて哲学の道に行ったこともあるし、渡月橋にも行った。生理は悪いことばかりじゃないけど、トイレの場所は気になる。ドロリがショーツから漏れ出さないタイミングでトイレに行かなきゃいけない。
ちゃんと気にしてたはずなのに、いつもと違うタイミングでヤバくなった。
三条寺町あたりの小さなお店が並んでる、日中なのに今から寝ます、みたいなお店だらけの道で、お腹がじくじくした。
まずいな、次トイレに行こうって思ってた場所までまだだいぶある。デパートも開いてないしどうしよう。
焦った時だった、ぼさぼさ頭の眠そうなお兄さんが、ほうきとチリトリをもって目の前の店から出てきた。私は
「すみません! トイレ貸してください!」
と、そのお兄さんに言った。
「あ……ええけど? この奥。電気ついてないけどいける?」
「はい、ありがとうございます!」
私は店のドアを引いて、老婆のような足取りで店の中に入った。急ぎたいのは急ぎたいんだけど、ダッシュすると、ほら。ドロリが漏れるから……。
トイレから出ると、お店の電気がついていた。さっきまでは真っ暗だったのに。トイレに行くときに見たカウンターのシルエットとかで飲み屋さんかなって、なんとなく思ってたんだけど、長細い形のお店にはカウンターとお酒が並ぶ棚と、あとテーブル席が3つ。壁には黒人がトランペットを吹いてたりギターを握ってたりするポスターが明いっぱい張り付けられている。で、店の隅にピアノとドラム。
ピアノを見ていたら、お兄さんが、
「弾けるの?」
って聞いてきた。私は弾けないけど、ママが弾く。そう答えたら
「じゃあ、ママが弾いてるとき、君は聞いとるだけ?」
「や、歌います」
お兄さんは、へぇって言ってぼさぼさの前髪を少し上げた。お兄さんの目は真っ黒でぎょろっとしていた。
「何歌える?」
「わりと、なんでも。最近の曲でもいけるし、ママが好きな美空ひばりも」
「へー。美空ひばり……。久しぶりに名前聴いた。ひばりさんの曲、何が好き?」
「……りんご追分、とか?」
しっぶ! っとお兄さんはお腹を抱えてケラケラと笑った。
「トイレ貸してあげたんやしさ、ひばりさん一曲歌ってってよ」
そういってお兄さんは、ピアノじゃなくてドラムの前に座った。
「え、ピアノ弾くんやないの?」
「むりむり、俺はドラマーなんや」
お兄さんは器用に、スティックを手の中でくるくるとまわした。
「ドラムと一緒に歌ったこと、ないです」
「ピアノと一緒やって」
そういって、お兄さんはスティックを持ち換えて、ハケみたいなものを持った。それでシンバルをなぜる。
しゃら しゃら しゃら
金属の足音、いや、寒い日の風の音がする。
「りんご追分、入りたいところで入りよ。アカペラみたいなイメージでええよ」
お兄さんはずっと同じ音を出し続ける。すごいな、人間なのに機械みたいだ。機械みたいなのに自然の音がする。
私は入りたくなる場所を探った。そしてここだというところで声を出した。
朝一番の声の伸びはとてもよろしくない。朝起きてから声が出るまでには時間がかかる。だから歌のコンサートは午前中にはほとんどないでしょ、ってママが言ってた。一番いい声を出せる時間に、歌手は起きてくるんだって。ほんとかどうかは知らないけど。
だから、歌ってる途中、良くない声の自覚はあって。ちょっと心が苦しくてお兄さんの方を見た。そしたら、お兄さんは「ええよええよ」ってドラムの音で私の背中を押してくれてるみたいだった。
歌い終わったとき、お兄さんは「ええ声しとるやん」ってほめてくれた。ママ以外に褒めてくれる人は初めてで、すっごくうれしかった。学校休んで良かったかもしれない。
「またおいでよ。えっと、名前……」
「ミクです」
「イマドキの名前やな。初音ミク?」
「ううん、ひばりさんから貰ってるってママが言ってた。美空でミク」
「ミクさんのママ、ほんまに好きなんやな。ひばりさんのこと」
お兄さんはそういってくれたけど、私はそれがいいことなのかどうなのか分からなかった。自分の子どもに好きな歌手の名前を付けるのって、子どもにとっては呪いのようなものだと思う。私はそんなにこの名前が嫌いでもないし、由来が嫌でもないけど、そうじゃない子もいるんだろうな、と思ったりはする。
お兄さんから、お店の名刺をもらって店を出た。朝の京都に戻った。たぶん、振り返ったらあの店はないんだろう、と妄想をしてみる。それを本当にするために私は振り返らず、そのまま西に向かって歩いて行った。
歩いている間も、シンバルから出ていた冷たい風の音が耳に残っていた。
それから、行ったことのない神社やお寺の境内とか、無料の場所をうろうろして、お昼はマックで済ませて。自分のペースで歩いて休憩してってやってるうちに、生理痛はマシになってきた。御所をぐるりと一周して、ふと、朝行ったお店にもう一回行ってみようかな、という気になった。名刺をみると、営業時間は16時から24時になっている。
私が行った時間帯は、まだお店は眠っている時間だった。
起きているときの姿はどうなんだろう。それか、私の妄想が本当だったら、お店はドロンと消えてしまっているかもしれない。前を通るだけでも、と私はもう一度三条の方を目指した。