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3-20 雄弁な子どもたちは沈黙する

 いつもいつも。良かれと思って、どうして間違ってしまうんだろう。

 私ならきっとあなたをそこから救い出してあげられる。かつての私が欲しくて仕方のなかった全部を与えてあげられる。そう信じてたのに。いったいどこで間違えたのか?

 誤りは、そう思ってしまったこと自体。あなたに子供の私を見出してしまった時から。

 私は孤独なあなたにつけ入り、侵入し、覆い被さって、あなた自身を見ず、私の形にはめ込もうとした。どこまでも大人になりきれない傲慢な私が、神のように振る舞い、あなたを死に至らしめた。あなたを救いたいと本当に願うなら、私はあなたに退けられなくてはならなかったのに。


 私が母・瞳を殺したように。

 僕が息子・哲を殺してしまったように。

 愚かにも繰り返す。

一九八八年 橘功たちばないさお



「あ。パパだ」

 パトカーを大沼団地A棟正面にある児童公園前に止め、外へ出ると背後から聞き馴染んだ声が飛び込んできた。綿のような息を吐きながら真っ赤な頬をした息子が駆け寄ってくる。

(まこと)。どうしたこんなところで。傘も持たずに」

 今日は朝から雪で、夜にかけ降り積もる予報だ。息子はランドセルを背負っていない。こんな日に、わざわざ家から出てきたのか。見ると、ジャンパーの内側に手袋をはめた手で青い表紙の計算ドリルを抱え込んでいる。

「あのね。これ、隣の森のドリル。間違えて持って帰っちゃって。宿題だからないと困るでしょ」

 叱られたと思ったのだろう。真は必死で言い訳した。四年生の男子にしては幼い喋り方をおかしく思われないか気にして、同乗してきた(やぶ)の方をチラリと見やる。真は成長が他の子より少し遅れているのだ。

 薮はA棟の方に鋭い視線を向けていた。団地の住人の男から人を殺したという電話を受けて現場に向かっている最中なのだ。俺は真の頭の雪を手で払う。

「先生に電話して事情を伝えておいてやるから、今日はもう帰りなさい」

「でも、そこだよ森んち。ここの三階」

 真はA棟を指差した。俺の頭に電話の声が蘇る。


 大沼駅前交番に犯人から電話が入ったのは、二月十日十五時五十七分。

 男性にしてはやや高めのどこか人の良さそうな声だった。


『私、人を殺しました。ナイフで男を刺したんです。全部で十八箇所。もう助からないと思います。現場は自宅です。大沼団地A棟の三〇五号室。森拓郎(もりたくろう)と表札を出しています。どのくらいで来てもらえますか。申し訳ありませんが交番までは行けないんです。娘が小学校から帰ってきてしまいますので、血まみれの男を置いて家を空けるわけにはいかないじゃないですか。今日はひどい雪ですし。入れてあげられないのもかわいそうなので、急ぎでお願いしたくて、一番近い交番に電話しました』


「大沼団地A棟の森……」

 まさかと思うと同時に矛盾点に気がつき、左腕の時計を確認する。十六時十一分。俺たちの住む家族用の警察官舎は学校から一キロ以上ある。そして大沼団地は官舎から反対方面に学校から三百メートル。この雪だ。真が家にランドセルを置いて団地まで来るのに、十分ではとても足りない。だとすると被疑者の娘は? 彼の娘も小学生だ。電話の時点ですでに家にいないとおかしくないか。この雪の中、道草を食っているとは考えにくいが。


「森ぃ」

 息子が頬を綻ばせ、児童公園の方に向かって手を振った。視線の先を辿ると、赤いてんとう虫を模したドーム型の遊具に突き当たる。何箇所か空いた穴のひとつから、黄色いセーターの子供が顔を出していた。手を振りかえすでもなく、真、いや俺を、警戒している野良猫のようにじっと見つめている。

 薮が顎に手を当て呟く。

「あれは被疑者の娘か」

「おそらくは」

 あの娘、なんでそんなところに隠れていた。一人か。こんな日に公園で何をしている。ゆらゆらと降りてくる牡丹雪が視界を遮る。

(たちばな)はあの子を保護しろ。俺は玄関側を張る。」

 薮がA棟へ向かうと同時に、真が計算ドリルを振り上げて公園の入り口から雪の積もる赤いドームへと駆け寄っていく。

 真の背中を追いかけて見たのは足元の雪に滲むわずかな赤。それからドームの中で小さくなっている、大人の女の白い顔。遠くでパトカーと救急車のサイレンが鳴っている。女は顔を隠すように頭を深く下げた。

 唇の色をも失っている少女の正面に立ち、真は青いドリルを差し出した。

「計算ドリル。間違えて持って帰っちゃったの。ごめんね」

 少女は手を出そうともせず、立ったまま真をじっと見つめている。薄汚れた黄色いセーターの上にはジャンパーも着ていない。やはり彼女はあの電話の前まで三〇五号室にいたのだ。森拓郎の告白通りとするなら殺人の現場に。俺は背後の女性には気がついていないふりをして少女に話しかけた。

「橘真の父です。仲良くしてくれてありがとう」

 小さな目、真がまだ赤ちゃんの頃……他の子と何ら変わらないと疑いもしなかった頃に妻が買い与えた、いわさきちひろの絵本の子どものような、飴玉みたいなふたつの目に捕まる。

 長い沈黙の間に、真の胸で温められたドリルの表紙で雪が溶ける。

「……りがとう」

 掠れた声が漏れ、ドリルに手が伸びてきた。黄色い袖口にちらりと見える赤。

「怪我してるの? 血がついてる」

 真が少女の手をとった。女の子に簡単に触れるもんじゃない。普段ならきっと注意した。でも今はその余裕がない。所轄無線に薮の報告が入る。「現況、自首の通りだ」と。遺体を見たのだ。

 突然、遊具の後ろの穴から紺色のコートの女が飛び出した。反射的に体が動く。肩甲骨まで伸びたブラウンの髪。くたびれた黒いボストンバッグ。

「待ちなさい」

 ちょうどB棟側の公園出口にパトカーが着いた。刑事が出てきて彼女の前に立ちはだかる。挟みうちだと思ったその時だった。パトカーを追い越して救急車がA棟の方へ回ろうと公園を道沿いに曲がる、その正面に、公園を取り囲むように植えてある低木を越えて女が飛び出したのだ。救急車のフロントガラスにぶつかり女の体が横転する。

「……(ひとみ)!」

 先ほどとは別人のような痛ましい金切り声が少女の口から飛び出した。女は救急隊員が車から降りてくるより早く立ち上がり、国道に向かって全速力で走り去る。国道を渡ると大沼駅だ。




 そのあとは想像しうる最悪の結果を辿った。

 

 女・榊瞳(さかきひとみ)は電車に飛び込み亡くなった。持っていたボストンバッグには血まみれになった女物の衣類、それから赤く汚れた女児用一三〇サイズの桃色のコートが45リットルのビニール袋に包まれ詰め込まれていた。

 血液は三〇五号室で殺されていた被害者のものと一致。状況から見て被害者を刺したのは榊だ。被害者と森、榊が室内で揉めていたところに、森の娘・まなが学校から帰宅。愛は榊の凶行を返り血を浴びる距離で目撃した。

 凶器となったナイフは、被害者が三〇五を訪ねる前に購入したものだと調べがついた。なぜか被害者は持ち込んだナイフから手を離しており、榊がそれを使って男を刺し、絶命させた。その後、血を浴びた衣類をボストンバッグに詰め込み、少女を連れて逃亡。しかし道中、愛が真の姿を発見したため、一旦遊具に身を隠す選択を取ったものと思われる。

 娘の愛はいっさい口をきかなかった。遊具の中にいた理由も、姿を現すことにしたのがなぜなのかもわからないままだ。制服警官の姿を見て観念したのかもしれない。森も電話で話したことが全てだと、黙秘を貫いた。

 おそらく森は二人を大沼駅から電車で逃亡させるつもりだったのだろう。一一〇番ではなく直接大沼駅前交番に電話をかけたのも一時的にでも交番を手薄にさせ、彼女らを動きやすくするためではないかと推測がつく。逃亡の時間を計算してかけたのだろう。

 雪の中、真が学校から帰宅し、ランドセルに愛のドリルを見つけて大沼団地まで持ってくるのにかかる時間とも矛盾がないように思えた。


 のちに聴取で何を聞かれても押し黙ることになる愛が、公園で榊瞳の死を知った瞬間、俺の罪悪感を掬い取ろうとするかのように一言、呟いたのを思い出す。

 「瞳はずっと死にたがっていました」

 大人びた口調で、まるで自分自身にも言い聞かせているかのように。





二〇二五年 橘真


 葬儀場の外はうだるような暑さだった。三十九度。弔問客は皆ハンカチを手にし、汗を拭っている。


 半年前に失踪した高校生の長男の(さとし)が、隣の市に住む女子大生のアパートの浴室で遺体となって発見された。玄関の床に遺書が置かれ、浴室のシャワは流しっぱなしになっていた。窒息死。哲は切り取った自分の舌を手に持って仰向けになって寝転び、顔にシャワーを浴びていた。水に洗われて浴室は綺麗なものだったという。


 息子は大人びた外見とは裏腹に心の幼い子だった。父親である僕自身も精神的に遅れがあるとみなされ大人たちを心配させた子供だったが中学に入る頃には追いついて、だから彼もじきに落ち着くと軽く構えていた。けれど哲の問題は年を追うごとに大きくなった。

 こちらが勝手に重ねていただけで、僕と哲の問題は同じなどではなかった。絵ばかり描いてぼんやりしていた僕とは違い、彼は好奇心旺盛で、よく喋り、じっと座っていることができない子だった。賢い子だと思っていた。心配いらない。大丈夫だ。僕でさえ()()()になれたんだからと。

 妻は仕事に、長女の受験、哲の問題やその影響による双子の妹のケアとで疲弊していた。哲は妻が泣いて溢した「もう死んでほしい」の言葉を聞いて失踪したのだという。あの日から妻は十キロも体重を落とした。僕の迂闊なところは未だ子供のころのままなのだろう。


 受付を済ませ小柄な女性がまっすぐ歩いてきてわざわざ僕に声をかけてきた。

「この度はご愁傷様でした」

 子供の頃に真似て描いていた、いわさきちひろの絵が頭に思い浮かぶ。つぶらでまっすぐな瞳。僕はかつて彼女の絵につよく引き込まれていた。

「あ! あぁ」

 突然、背後で十年前のくも膜下出血で車椅子生活になっている父が頭を抱え、うめき出した。

「ちょっと、すみません。……父さん。頭、痛いの?」

「も、り、まな……」

「え?」

 父は不自由な腕で彼女を指した。

 森愛。いわさきちひろの絵に似た少女。面影を残した目の前の大人の女性が口を開く。

「私は、失踪していた哲くんの居場所を知っていました」

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