3-09 鳥籠令嬢は幽鬼と踊る
精神に不調をきたしたとして、田舎の屋敷で療養する身となった侯爵令嬢のアナベル。
その屋敷――カナリア館は、彼女の母が死んだ場所でもあった。
母はアナベルと同じ様に、療養の為カナリア館に滞在していたと云う。それは家族の不幸と王都で流布した悪しき噂が原因だと云うが――
母はどうして王都を離れなければならなかったのか。どうして死んだのか。
その謎を探るべく、アナベルはカナリア館の闇に足を踏み入れていく。
『誰か助けて!』
声を限りに叫んだ。王都のお屋敷で、応接室で、苦痛のあまり蹲るハロルドの前で。
『助けて……ハロルドが、ハロルドが死んじゃう!』
悪夢を見ている様だった。端正な顔を苦悶と恐怖に歪ませる婚約者。絨毯に点々と散った赤い染み。今なお溢れ続ける鮮血。仕舞い忘れた玩具の様に無造作に転がった彼の左薬指。能天気に香る紅茶の匂い。そして、どこからか響く甲高い嗤い声。小鬼たちの嘲る声――
『やったぞ! 遂にやった! いけ好かないキザ野郎は血塗れだ!』
「アナベル様?」
名前を呼ばれて、ふと我に返る。緋色の髪に翡翠色の瞳。小さい顎に狭い額。母そっくりの顔が窓ガラスに映っていた。その背後に若い女が立っている。使用人のリズだ。振り向くと、雀斑が目立つ丸顔に訝しげな表情を浮かべていた。
「御免なさい」私は云った。「外が気になって」
窓の外は大雨だ。さっきまで晴れていたというのに、空は暗く、分厚い雲に覆われている。雷も鳴り出した。
「王都とは気候も随分と違うでしょうね」
「ええ」私は頷いた。「こんなに急変するなんて」
「近くに山がございますから。山を越えて発達した雲がああして大雨や雷をもたらすそうです」
「物知りなのね」
「いえ、只の受け売りです」リズは自嘲する様に云った。「アナベル様や王都の方々と比べたら、私なんて無学な田舎娘に過ぎません」
「そう卑下するものじゃないわ。王都だってそんな立派な人間ばかりじゃないんだから。むしろ――いえ、御免なさい。急ぎましょう。これ以上、叔母様を待たせるのも悪いわ」
私が促すと、リズは再び背を向け歩き始めた。カナリア館の廊下を一列になって進む。私の叔母にして館の主ライラの部屋を目指して。
再び閃光が瞬く。雷鳴が轟くまでの時間はさっきよりも短い。随分と近くに落ちたようだ。王都で学んだ知識――音速と光速の違いを頭に浮かべ乍らそんなことを思う。
あの日も雨だった。婚約者のハロルドが王都のお屋敷を訪れた日も――
コン
リズが扉を叩いた。叔母の部屋の扉を。気付くと、両手でスカートを握り締めていた。皺になってしまう。慌てて手を離す。
「アナベル様をお連れしました」
「入りなさい」
リズと叔母の応答の後、扉が開く。書棚に囲まれた部屋だ。カーテンが閉ざされ、ガス灯のシャンデリアが部屋に柔らかな光を落としている。
部屋の主はマホガニーの机の前に座していた。シニョンに纏めた褐色の髪。丸顔に似合う丸眼鏡に大きい鼻。このカナリア館の女主人。兄そっくりの妹。私の父そっくりの――
『アナベル。お前は疲れているんだ。結婚前で神経質になっていたのだろう? 暫くカナリア館で休養を取りなさい』
「御苦労様でした、リズ」叔母はリズに云った。「貴方は下がりなさい」
リズが礼と共に下がる。扉が閉まるのを待って、私は口を開いた。
「何の御用でしょうか」
「そう固くならないで」叔母は柔和な笑みを浮かべた。それから、机の上に置かれた手紙の束を示す。「貴方に手紙です。王都から三通。貴方のお父様と、それにお兄様とお姉様から」
机に近付き、手紙を受け取る。
「有難いわね、ベル。こんなにも家族に気に掛けて貰えるなんて」
「ええ。素敵な家族です。私には勿体ない程に」
私の実家、カルバス家は由緒ある侯爵家だ。私はその次女で、上に兄と姉が一人ずつ。かつては二つ離れた弟がいたが、五年前に屋敷のベランダから転落死してしまった。
家族はみな優しかった。父に兄たち、それに母も。
母が亡くなったのは、私が十二歳の時だった。死因はよく解らない。その少し前、母は王都を離れていた。弟の死を切っ掛けに精神を病み、田舎で療養することになったのだ。カルバス家が所持する屋敷、ここカナリア館で。
「あの、叔母様」
「あら、なあに?」
「いえ、その……母がここでどの様にしていたかお聞きしたくて」
私は何も知らない。子供だったから。実質の末っ子だったから。父や周りの大人たちは何も教えてくれなかった。どうして母が王都を離れた場所で死ななければならなかったのか。どの様にして死んだのか。
「そうね……とても穏やかだったわ」叔母は懐かしむ様に云った。「大抵は部屋で読書をするか、絵を描いて過ごされていたわね。使用人を連れて、外に赴かれることもあったわ」
「どの様な絵を?」
「貴方たち家族の似顔絵に、カナリア館、庭園の絵も。でも――」
「何ですか?」
「いえ、単純な風景画とも云い難いものだったの。と云うのも、実際の風景だけではなく、そこに存在しない筈のものも描かれていたから」
「存在しないもの……ですか?」
「ええ」叔母は尚も言葉を探す様に、「何と言えば良いのか――そう、絵本に出てくる小鬼の様な」
「叔母様は何の用だったのさ」
部屋に戻ると、ウィルに声を掛けられた。相変わらず、揺り椅子に腰かけたまま微動だにせずにいる。
「用?」問い返してから、手の中にある物に気付く。「ああ、手紙よ。お父様やお姉様たちから」
手紙を掲げて見せる。ウィルは揺り椅子から跳ねる様に飛び出すと、近くに寄って来て手紙を眺めた。
「ふうん。『検閲』された様子はないね。消印が押されてるし、ちゃんと封もされたままだ」
「当たり前でしょう。どうして検閲なんか」
「そうだね、そんなことする必要もないか」再び揺り椅子に飛び乗る。「最初からみんなグルだもの」
「変なことを云わないで」
私は椅子に腰を下ろした。オリーブ材のペーパーナイフで封を開く。まずは父の手紙から。それから兄、姉。読んでるうちに胸が苦しくなってくる。王都の様子、家族の近況、私を気遣う言葉の数々。
「それにしても、今回も来なかったんだね」
「何が?」
「解ってる癖に。ハロルドだよ。ベルの愛しの婚約者からの手紙さ」
私は手紙を机に置いた。ウィルに目線をやる。目が合うと、彼はにっと笑い、
「ま、来る訳ないよね。あんなことがあったんだもん」
「やめて、ウィル。ハロルドの話はしないで」
「そういえばハロルドは左利きだっけ。それじゃあ、ペンを持てるかも怪しいね。何せ、彼は指を一本――」
「やめて!」
「おっと、怖い怖い」ウィルはおどけた様に云う。それから真顔になり、「でもね、ベル。僕を黙らせることは出来ても、過去をなかったことには出来ないよ。ベルがやったことをハロルドは忘れない。ハロルドが忘れても、彼の指は元通りにはならない。ベルが指を噛み千切る前の彼には戻れないんだ」
「やめてったら!」
「そうはいかない。忘れられちゃ困るもの。姉さんが何でここに来たのか。何をすべきなのか、ね」
ウィル――弟が囁くように云う。頭から血を流しながら。首や手足を出鱈目な方向に捻じ曲げたまま。死んだ時の姿のままで。
カルバス家の次男は、発狂したカルバス夫人によって突き落とされた。
弟の死後、その様な噂が流れた。
母は元々、社交的な性格ではなかった。娘の私から見ても、時に意図を測りかねるような変わった言動をすることがあった。まるで人には見えない何かが見えているかの様に。
弟が死んでから、その傾向に拍車が掛かった。ショックだったのだろう。実の息子を亡くしたのだから当然だ。しかし、世間はそうは受け取らなかった。悪評が悪評を呼び、母を追い詰めていった。王都にはいられないと感じるほどに。『厄介払い』とウィルは言う。母が王都を離れたのは療養だけが目的ではない。父をはじめとする大人たちが母を排除しようとしたのだと。
『母さんがどうして死んだのか調べるんだ』何時からか現れるようになった弟の亡霊は繰り返しそう囁いた。家庭教師の授業を受けている時も、寝台に横になっている時も構わず繰り返した。『悔しいじゃないか。非のないことで王都を追われ、田舎で幽閉され、あげく命を落とすだなんて』
『解るよ。私だって同じ気持ちだもの。でも、調べるってどうやって?』
『決まってるだろ。現場に赴くのさ。カナリア館だよ。母さんが死んだ場所に直接乗り込むしかない』
『そんなこと簡単にはできないわ』
『できるさ。母さんと同じになればいいんだよ』
『同じに?』
『そう。狂うんだよ、ベル。狂ったように見せればいい。たとえば、すかした婚約者の指を噛み千切ってやるとかね』
「ねえ、ベル」亡霊は問う。「君はどうしてここにいる? どうしてここに来た?」
私は耳を塞ぐ。しかし、亡霊の声は指の隙間を縫って語り掛けてくる。
「無駄にするの? ハロルドが流した血も、苦痛も。自分がフイにした立場も」
どうしてあんなことをしてしまったのだろう。ハロルドは母の死や悪評と何の関係もなかった筈だ。なのに、どうして自分は彼を巻き込んでしまったのだろう。二度と癒えない傷を負わせてしまったのだろう。
「それにね、ベル。何も過去のことだけじゃない。君の未来だってこのままじゃ危ういんだ。解るだろう? 今の君は母さんと同じだ。とするなら、同じように消されても不思議じゃない」
「そんなこと――!」思わず反論する。「殺されたって云うの? お母様が」
「否定したいなら調べるんだね、母さんのことを」
ウィルがにたあっと微笑む。その顔は、絵本に出てくる小鬼の様に歪んで見えた。