30.漢、友情に感激す(真実のところは誤解)
ツバキぃ〜! その呼び声は怨嗟に満ちていた。
誰もが新たな登場人物の名を口へする前に、当人が駆け出していた。
黄金の髪は風を切って、皆の間をすり抜けていく。
訓練された兵を驚かす疾走だった。
「あら、姫様。ずいぶんお早いお越しですわ」
むくり上体を起こしてツバキは出迎える。主人が来たから無理して、ではないくらい誰もがわかる。本当なら横臥していたほうが、今までの行動に説得力が持てた。
やはり凄まじい怒りに当てられての、ついだったのであろう。
「ツバキ、あんた、あんたねー。許さないわよー」
鬼の形相だから、当初は放っておくつもりだったキキョウが背後から組みついた。
「姫様。落ち着いてください」
「許させないわよー、なんで、なんでよ。ツバキはわたくしより先に名前を呼んでもらったり、頭を撫でてもらったり、お姫様抱っこしてもらったり、それに選りによってチューまでなんて。許せない、許せないわ!」
かなり根に持っていたことを報せるプリムラの怒りである。むきぃーとなった姫様は手に負えないと経験上知るキキョウ以下ニンジャたちである。
ちなみに原因の素である自分達の姐さんは、ぽっと頬を赤くしている。
「イヤですわ、姫様。でもやっちまったものは仕方がありません」
最悪の態度で返答を繰り出す始末である。
まったく普段は大した人物なくせに、ユリウス絡みになると阿呆になる。
キキョウとしては従う二人をおかしくさせる原因に責任を取ってもらうことにする。プリムラを羽交い締めしながら、表情で訴える。ちょっと怒った顔つきになっていたかもしれない。
なぜなら申し訳なさそうにユリウスがやって来たからだ。きょろきょろ目を泳がせながら慌てて言ってくる。
「ずいぶん騒がしいみたいだが、どうしたんだ、王女。そんなに怒って」
げっとなるキキョウだ。思わずプリムラを抑えていた腕を離してしまう。まさかユリウスが事情を踏まえ執り成すどころか、ど直球で事態の確認なんてするとは思わなかった。これではまさに火へ油をそそいでしまう。
身体の拘束は解けたプリムラは心に余裕がない。ユリウスに初めて半べそで訴える。
「だって、だって。ユリウスさまの初めてのチューはわたくしだったはずなのに、なんでなんでいつもツバキばっかり……」
「王女、あれは人工呼吸だ。でもあれをチューとするならば、ツバキが初めてではない」
なーんだとするユリウスの変に自信たっぷりな態度が功を奏した。
へっ? とプリムラの瞳は涙目から不思議そうな色へ変えていく。
どういうことですか? とツバキもまた初めてのキスと信じて疑わなかっただけに動揺も激しい。
ユリウスは顎に手を当てるポーズを取った。
「戦場ではけっこう頻繁にやっているぞ。俺の人工呼吸で息を吹き返す例は多いからな。あ、そうそう、一度ヨシツネにやってやったら二度としないでくれと言われてな。されるくらいなら息を吹き返さないほうがいいなんてほざいていたぞ」
助けてやってあれはないな、と最後にぶつぶつ付け加えていた。
意表を突かれた顔はプリムラとツバキだけでなく、キキョウもまた加わっていた。もし続きがなければ笑いだしていたかもしれない。
顎に当てていたユリウスの手が頭へ持っていかれた。なにやら、ぼりぼりかきだす。何やら言い難そうな雰囲気を漂わせてくる。でも思い切ったように口を開いた。
「でも、そうだな。ツバキより前に人工呼吸をした女性が二人はいることを婚約者へ報告するぞ、ここに」
「ユリウスさま。無理してお話ししなくてもよろしいですよ」
「いや、いかん。やはりチューではなくても口づけに違いないからな。ここで隠せば嘘を吐くようなものになるだろう、それはいかんだろ」
固い決意を秘めた様子のユリウスであれば、プリムラも肝を据えて聞く姿勢を示した。
あまり大した内容ではなかった。
三月兎亭の看板娘であるファニーが川で溺れた際と、昔に助けたエルフの一人が呼吸を止めかけた時に行ったそうだ。
「やっぱり、ユリウスさま、凄い。何度も命を救ってきたのですね、その人・工・呼・吸で」
人工呼吸の部分を強調しながらプリムラは感激しきっている。
婚約者に褒められれば、ユリウスが調子に乗らないわけがない。
「他のヤツより、俺がやるほうが効果あるみたいだからな。男も女も人間も亜人も関係なく、バンバンやるぞ」
場合によっては問題と捉えられそうな発言を豪快にかました。
そそくさとツバキがプリムラの前まで這いずっていく。動きの敏捷さから毒の心配はもうなさそうだ。
「姫様、申し訳ございません。私の未熟ゆえ、ユリウス様に多少とはいえ負い目を持たせるような手間を取らせてしまいました」
「いーわ。わたくしだってツバキがいなくなるのは耐えられないもの。二人でユリウスさまに感謝致しましょう」
プリムラもまた膝を折った。だが単に面を上げさせるためではないようで、ツバキの耳元へそっと口を寄せる。
「ツバキ。毒が効いていた時はともかく、どさくさでもう一回口移ししてもらおうとしたでしょ。そこは許さないからね」
「あら、姫様。そこは念の為ですわ。まだしっかり飲めるかわからなければ、ユリウス様にしっかり流し込んでもらおうとしただけです」
あんたねー、とプリムラが真実の感情を殺した微笑みを浮かべる。
悋気はなりませんわ、とツバキも口許を緩める。
ふっふっふ、と互いに見交わしては含み笑いを立て合った。
それをユリウスは美しい友情の姿と見た。
「王女とツバキは本物の仲だな。仲直りなんてけっこう難しいことを、こうもたやすくこなすとは素晴らしい。明日と知れない戦乱の世だからこそ、今ある絆と生命は大事にしたいものだ」
なにかとても良い事を言っては、はっはっは! と笑っている。
これに冗談じゃないとする捕虜がいた。
「あんた、命が大事とか言っているなら、こっちにも解毒薬渡しなさいよー。段々目が霞んできてるの、毒がまわってきてるのよ。だから早く」
女暗殺者セネカが泣きつくではなく、怒りに任せた文句を言っていた。