15.漢、婚約者と昂る(周囲に他人はいる)
帝国総本部の命により留め置かれた屋敷の食堂から、四天の四人が辞去してから間もなくだ。
「おぅ、戻ったか」
テーブルを拭く手を止めてユリウスは天井を仰いだ。
音もなく着地する三人の忍び装束の者たちだ。少年二人と少女の一人といった構成である。サイゾウとハットリ、キキョウのニンジャたちであった。
片膝をつく三人のうち顔を上げたキキョウがさっそく報告しようとしたらである。
「まぁまぁ話しは後だ。それより腹が減っただろう。俺が作ったスープ、ぜひ味見を頼む」
ユリウスの顔つきは期待で輝くようだ。新たな皿を並べている。
「ユリウス様、務めを果たすが先決かと申し上げさせていただきます」
居並ぶニンジャ三人の長に当たるツバキが畏まって具申する。
はっはっは、とユリウスは室内を満たす笑い声を立てた。
「そうかもしれないが、俺としてはだ。どうせ外で監視している連中はアサシンに遠く及ばない宮廷の警護兵類いじゃないかと睨んでいる。違ったら今ここで言ってくれ」
言う通りであれば、すぐに三人のニンジャはテーブルへ着いた。
ユリウスがはりきって自作のスープを差し出す。味の評価を待ち侘びた顔を向けていく。食べる三人へ自覚なく圧をかけていた。
ニンジャの三人は他の料理を差し置き、まずユリウスのスープへ口をつけるしかなかった。
「うーん、普通」ハットリの嘘偽りない無邪気な声だ。
「飽きない味だと思われます」キキョウは大人ぶった口調であれば配慮の色が濃い。
サイゾウは無言で飲んでは、別の料理へ手を伸ばす。さっさと終わらせた感がある。
「牢で出されるものよりはいい感じだと思うんだが」
残念そうにユリウスが先と同じことをまた言っている。
牢獄飯と比べられてもなぁ、と返すハットリにキキョウがうなずいている。人を入れ替えても反応は変わらない。
端の席に座るサイゾウだけが「おかわり」とスープの皿を突き出していた。
おおっと受け取ったユリウスは喜んで鍋から装う。
ツバキが少々苦い顔をして言う。
「ユリウス様、ニンジャにあまりお気を遣わないでください。我らは本来、影の者。主のために身を呈す存在であれば、贅沢すぎる扱いは気を緩めます」
なるほど、と感心するユリウスの横で、ハットリがスプーンを置く。
「よく言うよー、ツバキ姐。姫様の邪魔ばっかりしているくせにさ」
口を尖らすような反論が上がるなか、ちょうどよくプリムラが豆類を絡めた焼肉とパスタを添えた皿を乗せたワゴンを押して入ってきた。
「わかるぅ、わかってくれる?」
同志を発見し、すみれ色の瞳は輝いている。皿を前に置く際もご機嫌である。
ハットリを調子づかせるには充分だった。
「姫様が怒るの、わかるよ。せっかく姫様がチューしようしていたのにさ、覗き見なんかされてたらデキないよね」
食欲に向かう空気が一気に恥じらいの熱を孕んだ。
「なななななにー、そうだったのかー」
叫び皿を置くユリウスは顔を真っ赤にして婚約者へ目を向ける。
まるで顔色が移ったかのようなプリムラも動揺露わだ。
「いいいえ、あの……ガゼボへお誘いしたのは、それだけが目当てではなく……」
言葉尻が消えゆくようであれば、ツバキはここが出番と心得た。ぽかんっとハットリの頭を小突いては、ユリウスへ向く。
「どうもこの年齢は変なことばかりに興味を持つくせに、知識や経験の不足からおかしなことを口走るようです。どうかユリウス様、アホな小僧の妄言とお捉えください」
「えー、だって聞いてたよー。姫様がチューするんだって言うのを、ツバキ姐は応援するとか言ってたくせに覗きに行ったんだろ。だから怒られたんじゃないか」
悪気ない発言ほど怖いものはない。ハットリ、とツバキの呼び方は静かすぎて怖い。
「あなた、ここで死になさい」
ポケットから取り出した手裏剣はメイド服の侍女もまたニンジャであることを認識させる。三人を指導する立場であれば、腕は立つ。至近距離なら確実に額へ投げつけられる。
つまりハットリの命は風前の灯火にあった。
顔が真っ赤なユリウスであれば、思考より本能が先立つ。非常な危険を察知する。ツバキの本気を悟れば、止せ! と組み付いた。
もし他の人物だったら、手裏剣は飛ばされていただろう。
慕うユリウスに腕を掴まれただけではない。背後から抱き締められる体勢ときた。今度はツバキが顔中を紅潮させる番となる。よすんだ、と言われなくてもすっかり力が抜けていた。
何はともあれ危機は去った……わけではなかった。
あんたらね〜、と地獄の底からみたいな声がする。あまりのおどろおどろしさに、騒ぎなど意に介さず黙々と食べていたサイゾウでさえスプーンを持つ手が止まった。
ニンジャ一同は恐る怖る目を向けた。
「なんでよー、なんであたしより先にツバキが後ろから抱かれているわけー。がっつりじゃない、がっつり。なによ、ニンジャのみんなして、もう」
思いもかけず、ヤバい状態に入ったプリムラにニンジャたちは焦る。彼らの胸中に飛来する考えは、婚約者の前で本性は見せないほうがいい。ユリウスに悪い印象を与えたら大変だ。
そんな不安を吹き飛ばしてくれた者は、悪評価を芽生えさせないか、懸念していた相手であった。
怒りとも悲しみともつかない叫びを上げるプリムラは、ひょいと抱え上げられた。正面から向き合う体勢を取るや否や、小さなその背へ腕が回る。華奢な身体が筋骨逞しい胸の中へ収まる形となる。
まさしく抱きしめられていた。
ユリウスさま……。呟くプリムラはユリウスの右肩にのせる顔を喜色で染めている。耳元へ声も届けられてくる。
「王女、すまない。これから無事に帰ってこられるかどうかもわからない怪しい所へ行くのだ。不安でたまらなくなるのはわかる。申し訳ない、俺のせいで」
はっとプリムラの瞳が見開く。
「違います。わたくしが、わたくしのほうこそ、ユリウスさまを危険な状況へ追い込んでいるのです。ウイン皇弟の一存だってあるかもしれませんし、何よりわたくしが婚約者として来なければ、あんな敵地真っ只中へ行く命など下らなかったはずです」
「いや、通常なら騎士階級の者を使者になどとする要求は突っぱねられるものだ。だがそれに帝国が応じるとは思惑があるに違いない。先だっての戦線を離れた件は騎兵法会議にかけられないほど、余程まずいものなのだろう」
「でもこれで今回の件は帝国上層にある者が携わっていたことは、ほぼ確実と考えてよさそうです」
上体を離して答えるプリムラは冷静な具申者だ。
うん、とユリウスも力強くうなずき返す。
「相手がエルフだろうがなんだろうが人身売買に違いないからな。しかもそれを隠すために友軍を囮にしようなど、俺には見過ごせない」
はい、とプリムラが明朗に挙げてくる。
眩しそうにユリウスは目を細める。
「やはり王女は素晴らしいな。俺は感激しているぞ」
「なにがですか? 当然のお返事ですよ」
「豊かで安定した結婚生活のため、時には清濁合わせ飲むことも必要でしょう、と言う人もいた。ああ、いたんだ」
ふとユリウスの顔に暗い影が射す。
言われた際はとても傷ついたに違いない。だからプリムラは訴えずにいられない。
「ユリウスさまは勇気を持っているお方です。自分より他人のために胸を痛められるお姿は、ずっと会いたかった人そのものです」
ありがとう、とユリウスが言う。
それは一言だけゆえに真情の響きを持っている。
プリムラが固い決意をもって応えた。
「わたくし、ユリウスさまと一緒ならば地獄にだって付いていきます」
覚悟が婚約者とする互いの気持ちを昂らせていく。プリムラ、とユリウスが珍しく名前で呼べば、呼ばれた方も呼んだ相手の名を口にする。
キキョウが興味津々のあまり不躾な質問をしなければ、周囲を忘れて盛り上がっていたに違いない。
「男と女の人はこういう時に、チューするんですか?」
残念ながら二人の熱い感情は、ここで途切れることと相成った。