57.漢、いきなり吼える(理由が?)
ロマニア帝国が第十三騎兵団に対して間諜を放っていた。
信頼関係を揺さぶるような根深い問題だ。
だからプリムラとしては不思議でならない。
「みなさま、あまり驚かれているようではありませんね」
苦笑とも失笑とも採れる顔をしたイザークが答える。
「無論です。プリムラ姫。初めてのことではありませんので」
「そうそう。いつもの手口です。雑な間諜を放つのは。でもあれか、これはあいつらからすると監視でしたっけね。そう言い切ってこられたこともありましたよ」
そう言ってからヨシツネは串刺しの肉へ噛みつく。がぶり、いつもより激しい感じだ。平静を装った反動かもしれない。
「しかしこのような真似、自国の騎兵に対して行うことではないと思われます」
「姫ももうわかっているのではないか。帝国がいかに膿んでいるかを。もっとも吾輩もディディエ卿の下で働くようになってから、わかったことだがのぉ」
顎髭を撫でるアルフォンスは旧くを知る相手だけに、その言はプリムラの胸へ沁みる。
はっはっは! ここでユリウスが謎の高笑いだ。
「なになに、そんなに心配するな、王女。俺が敵に対して時々甘くなることは帝国内で周知されていることだ。俺が言い訳すればいいだけのことだ。それより今回は王女にいろいろ助けてもらって、俺は幸せ者だと噛み締める次第だ」
ユリウスさまったら、とプリムラが嬉しそうに返事している。
けれどもツバキは見取っていた。自分の主が笑みを作っていることを。
ユリウスを安心させたい一心だろう。だが偽りを吐いている事実に変わりない。一瞬だけとはいえ横顔に影を滑らせていた。
だからこそツバキは判断が間違いではなかったと確信した。
食事が終わり、それぞれが引き揚げていくなかだ。
こっそり独り近づいてきたプリムラへ真実の報告をささやいた。
間諜らしき連中は全て処分いたしました、と。
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うおぉおおー、とユリウスが叫びだした。
いきなりなんだとする気持ちとあるが、またかとも思う。
「団長、どうしたんですか。変なものにでも当たりました」
馬に跨ったまま尋ねるヨシツネは見降ろす姿勢だ。
帰りの行軍において、第十三騎兵団騎士団長は徒歩を決め込んでいた。
婚約者を乗せた馬を横で引く形を取っている。
ユリウス自身が申し出たエスコートである。
吼える要因は見当たらない。
「俺が食べ物ごときで当たるものか。食べ物でなくても当たらない自信だってあるぞ」
その主張に納得は出来るものの、顔が真っ赤ときては、そうですかと終わりにできない。
誰よりもその身を案じる馬上のプリムラが、先に質問者の役目を預かった。
「でも、どこか体調が悪いのではありませんか。健康な方ほど自分の体調には油断しがちです。わたくしとしてはユリウスさまだからこそ、心配になります」
「心配をかけてすまん。まだまだ俺は王女に相応しい男になりきれていないようだ」
「わたくしはそばにいられる他に望むものはありません。それにユリウスさまに相応しいかどうかは、わたくしのほうこそです」
「なにを言うんだ。俺は婚約者が乗る馬を引いて歩くのが夢だった。似合わないと承知しつつも格好をつけてみたかった。しかも相手が王女とくる、幸せだ」
まぁ、と馬上のプリムラが頬を染めている。
本当に妖精のようだ、とごつい男のユリウスがうっとりしている。
ますます赤くなるプリムラである。
雄叫びを発した原因について聞き出す要件はすっかり彼方へ飛ばされていた。ヨシツネは再登板するしかない。
「あのぉー、すんません。団長が恋する相手に夢見たシチュエーションを叶えて、ご満悦なところ申し訳ないんですが」
「ば、ばか、やめろ。本人の前で恋していることを言うなと言うことを言っただろう」
言葉遊びをしているわけではないことはユリウスの慌てぶりから察せられる。本気で口にしているに違いない。
本人の前にいつも自分で堂々言ってますけどね、とする呟きは胸のうちで留めたヨシツネである。口にしたら、また堂々巡りへ陥るのは明白だ。訊きたいことは別にある。
「それで団長、とても幸せとしながら、どうしたんです。いきなり吼えだして。なんか人間のものとは思えませんでしたよ」
「なんだ、そんなことか」
ユリウスにすれば何事でもないかのようだ。
まったくこの人はよぉー、とヨシツネは言いたいところをまたもやぐっと堪えた。もっともこちらも失礼な表現をしている点に自覚はない。
「もうオレらは慣れてますから騒ぎませんけど、気にはなりますよ」
「おっ、悪い悪い。大した理由ではないんだ。つい想いが昂りすぎてな」
「つまりユリウスさまは身体でなく心の問題というわけですか」
心配してプリムラが割り込んでくる。
はっはっは、とユリウスは高笑いしてからだ。
「そうなんだ。だから身体は爽快そのもの。心配はしなくていいぞ」
あっそ、とヨシツネは思うだけで表にしない。上司が抱く恋模様に自分ごときが付いていけるはずがない。いずれ夫婦になるであろう二人へ口を挟む真似はやめておこう。
と、思った矢先である。
「わたくしはユリウスさまが心へ抱えるものがあると聞けば心配でなりません。どうかおしゃってください。例えお力になれなくてもお話しになることで、少しはお気持ちが晴れるかと思われます」
どうやらプリムラとしては収まりつかないようだ。どうか話して欲しいとばかりに訴えてくる。
そうか、そうだな、と独り合点したユリウスは馬の手綱を握りしめながらだ。
「実はな。俺は王女をまだ純粋に女性として見られないのだ」
間近で聞いたヨシツネは今し方出した結論を翻さずにいられない。慌てて入って意見した。
いくらなんでもそれは言っちゃまずいでしょう、と。