54.漢、勝利す(誤解も招く)
モンサン湿原は《たばかりの美しき沼》の異名を持つ。
由来は一見から始まる。緑の葉と色とりどりの花弁が下を覗かせないほどびっしり生えている。ここへ踏み込むことは可憐な草花を荒らす行為に等しいと思わせられる。
瑞々しい草原が擬態と知るには、しばしを要す。
当初はやや泥濘んでくらいの足元が、いきなり底が抜けたように沈む。
まるで踏み荒らす者は成敗とする意志が込められたかのような、他に例を見ない沼地であった。思いも寄らない特殊な土壌であれば、近づく者は滅多にいなくなる。放置された土地なれば話題にされず、外の住人の耳まで届かなくなること久しい。
「しかし、なぜだ。我らを誘い出した帝国騎兵は平然と駆け抜けていったぞ」
周囲同様に下半身を泥沼に沈ませた龍人族の猛将アーゼクスが叫ぶ。
はっはっは! 沼地の外縁に立つユリウスが高笑いを上げた。どうやら第十三騎兵団騎士団長特有の前振りは身内に限らなくなったようだ。
「うちにはスゴーいのがいるのだ。水の上を歩いてしまう凄い者がな」
作戦会議においてプリムラからの発案だった。
相手を沼地へ引きずり込む誘い役をニンジャに任せたい。水面を歩く技術を会得している。泥沼くらい何事もなく歩いて見せられる。
ならば、とユリウスがさらなる提案をした。より信憑性を高めるため、帝国騎兵の何人かを加えよう。幸いにもヨシツネやベルといった身軽な連中もいる。明日の朝まで沼の上を歩けるよう叩き込んでくれ。
当然ながら名指しされた二人は不平を挙げた。なにが幸いですか、また無茶振りを、と反駁する。
ユリウスはプリムラと婚約してから挙げるようになった高笑いをしてからだ。大丈夫だ、今回は水の上ではない、と言う。
それもそうだな、とイザークにアルフォンスまで賛同されて、ヨシツネとベルの不平は作戦成功ためという大義名分の下に呑み込まれた。それからやたら張り切るハットリを中心とする指導の下、夜通しの特訓となる。
苦労し甲斐はあった。
霧中に四天と呼称されるほど名だたる騎兵の出現は龍人兵を大いに惑わせ、見事に誘い出しの成功へ導く。
「恐るべしだ、ユリウスだけでなくその配下たちも。まさか剣や弓だけでなく、そんな特技を身につけているとはな。まるでニンジャではないか」
どうやら猛将アーゼクスはその存在を知っているらしい。
幾度かの交戦を経て顔を知られるようになったヨシツネとベルが参加していなければ、ニンジャを知る龍人兵である。もう少し慎重な追撃となっただろう。
なんだかんだあったが第十三騎兵団騎士団長の追加策は当たったわけである。
「どうだ、アーゼクス。もういい加減、こっちの話しを聞く気になっただろう」
すっかり霧が晴れ、眩しい陽を背にユリウスが笑いかける。
いい顔だった。
疑ってかかるが常の戦乱に明け暮れる世界で、裏表ない人柄を見せてくる。信用したくなる。
ふっと泥から上半身を生やす格好のアーゼクスもまた笑みで返す。
「ああ、そうだな。我々の負けだ。武器を放棄し、大人しく身柄を預けよう。ただ侵攻の責は戦闘頭アーゼクス一人としてくれないか。他の命は助けてやって欲しい」
「安心してくれ、いい話しを持ってきただけなんだ。今日の戦だって、話しを聞いてもらうが目的だったくらいなんだ」
「そうか、そうだったのか」
「ああ、そうだ。ではさっそくだが、聞いてもらいたいことがある」
そう言ってユリウスは腕を伸ばし指をさす。ビシッと向けた指先には小高い丘から見下ろすプリムラがいた。
「彼女は俺の婚約者だ。いろいろ心配をかけたが、今度こそ生涯を共とする相手となりそうだ」
ユリウスが自慢げに胸を張っている。
まぁ、とプリムラは紅くした頬へ両手を当てている。紹介されて、とても喜んでいる。
ちなみに敵味方関係なく唖然とした空気が包んでいた。
イザークは我慢をしていた。なぜ、第一声が婚約者の紹介になる、勝敗はついたとはいえまだ戦いの最中だぞ! 見ろ、龍人たちも理解が追いついてないぞ! そう文句が出かかったが、ぐっと堪えた。
それだけ嬉しかったのだろう、と無理矢理に承服させる胸の内であった。
他の者たちも渦巻く感情はそれぞれであれ、別に口に出してまで意見することでもないと思う。
ただ名指しで紹介された相手だけは他と違った。
ぶるぶるアーゼクスは震えだす。怒り以外の何物でもない感情を激しく絞りだす。
「見損なったぞ、ユリウス。おまえはそんな男だったのか!」
言われた当人だけではない。敵味方関係なく、なにが? とする顔が次々に産出されていった。