35.漢、雪の国へ4(姫は思い出すと怒ります)
すみません、とフンギが慌てて謝罪した。
「王女様の命に対する危惧は、今ここで、という話しではありません」
「落ち着け、ツバキ殿。ユリウスやベルほどではないが吾輩だって敵の気配なら察知できる」
顎髭をなでるアルフォンスは、ゆったり腰掛けたままだ。
立ち上がったツバキは戦闘体勢を崩さない。
「しかし今は護衛に私とアルフォンス様しかいらっしゃいません。用心にしすぎるなどないと思われますわ」
「いや、充分だろう。吾輩とツバキ殿で。なにせユリウスはそう判断したから、駆けっこなんかに興じられたと思うが、どうだのぉ」
そうですね、とツバキは一つ深呼吸をする。けれどもなかなか手にした短剣を仕舞えない。
「いくらツバキ殿でも出立早々から、あまり気を張っていては後がきつくなるのではないかのぉ。フンギ殿も姫の命に危惧する理由について、そのまま突っ立てたら話し難いのぉ」
ようやくツバキは武器を収め、元の切り株へ腰を落とす。
ふぉっほっほ、とアルフォンスは納得してもらえて嬉しそうだ。
お騒がせしてすみません、とフンギは頭を下げてくる。
「言い方がまずかったようです。ただ昨晩のアサシンによる襲撃はプリムラ王女様が狙いだったと小耳に挟んだままを口にしてしまいました。申し訳ございません」
「わたくしの方こそ、ご心配をかけてしまったようで申し訳なく思います」
相手の恐縮にプリムラは説明で応えることにした。
グネルス皇国の新しい皇王カナン・キィーファはプリムラの母国へ預けられた時期がある。ハナナ王国で知り合って以来、カナンはプリムラへ強烈な思慕を抱いた。婚約したと聞き親善大使の名目で呼び出し、想いをぶつけてきた。
「もちろん、わたくしは断りました。けれども婚約破棄して自分の下へ来なければ殺害するときたのです」
雑談どころではない話しにフンギは身を乗り出す。
「つまり現在のグネルス皇王はプリムラ王女様に執着のあまり暗殺を試みた、というわけですか」
「結局はユリウスさまたちに太刀打ちならず、諦めたみたいなことを言ってましたけど、どうでしょうか。カナンですし」
なにやらプリムラの声に悪意が混じり出したような気がしないでもない。傍らに控えるツバキだけでなくアルフォンスも微妙な顔つきとなる。
昨日が初対面のフンギはまだ気にならない。
「国の主導者が女性に入れ揚げたせいで国家が傾く例はたびたび存在しています。プリムラ王女様があまりに魅力的なせいとする話しですね」
「どうでしょうか。カナンですし」
さすがにフンギも気づきだす。なにやら個人的な感情が絡んでいるようだ。
「昨夜の襲撃は、カナン皇王という可能性は考えられますか?」
「カナンがわたくしを暗殺しにこようが、どちらでもいいです。だってキライです、殺したいほど愛しているなんて言いながら、他の女と遊ぶようなヤツなんて」
最後は吐き捨てる感じであれば、フンギは部族長を務める大人である。あまり触れないほうが良さそうな話題と判断する。情報は感情が絡むと実状から遠のくものと心得ている。
詳細は後日にでも、と他のたわいもない話題への移行を試みることにした。
うおぉおおおー、と雄叫びが聞こえてきた。
もはや誰のものと確かめるまでもない。
草木を蹴飛ばす勢いでユリウスが駆けてくる。
あっという間にやってくる。
帰ってきたと思えば、プリムラの肩を両手でつかむ。
「無事か、王女じゃなくてプリムラ。昨晩のようにおかしな連中が襲ってこなかったか」
見ればわかるはずだが、プリムラは婚約者の心情を何よりとした。
「はい、もうぜんぜん大丈夫です。なにせ名高き四天の一人であるアル……」
「他の三人はどうしている。プリムラじゃなくて王女は誰だか知らん相手に命を狙われているだぞ。四人いなくては、ダメだろ!」
ユリウスが少々錯乱しているようなのは、目の当たりにしている者ならばわかる。
アルフォンスは、他の三人が離れる原因を作った張本人が言うのぉ、と胸の内に巣食う台詞は取り敢えず呑み込まれる。それは他に言わずにいられない事柄があったからだ。
ツバキへ軽く一礼してから、ユリウスへ向かう。
「お主は吾輩の面子を潰してくれるのぉー」
ユリウスの顔は、何を言っているんだ、としていた。
こうして旅立ちは一日目からして先が思い遣られた。