16.漢は滝壺で語らう①(婚約者が来てくれた)
欠けた月がぽっかり浮かぶ晩だった。
散りばめられた星々もまた燦然と輝く。
エルフたちが設置した灯火もある。
闇はその支配を譲り、樹々のかぐわしき香りが漂う。
奥の滝が立てる水音さえ穏やかな響く。
ただ一点だけ、普段ではあり得ない騒々しさが加わっていた。
うおおおおおぉおおお!
獣も逃げ出す人間の雄叫びが滝から放たれてくる。
激しく落下してくる水流に打たれながらだから、凄い声量だ。褒められるかどうかは別にして大したものである。
ユリウスなればこその芸当であった。
もっとも本人としては、まだまだとしている。
本来なら激流に耐える鍛錬が精神の浄化をもたらす。
残念ながらユリウスの肉体は、人間か? と評される頑健さを誇る。
苦行の効果には程遠い。
それでも考えや気持ちを整理する方法が、これくらいしか思いつかない。
雄叫びはきつくない部分を補う意味で行っている。
大変だと自らに暗示をかけている、というわけである。
つまり滝に打たれていても余裕があった。
けたたましい水流の落下音に包まれていようとも、ユリウスの耳は近づいてくる些細な足音を拾う。
視線を向ければ、水際に立つ人物が認められた。
小柄で、夜闇でも目立つ黄金の髪で、なおかつ意中の女性である。
しばらく一人で考えさせてくれ、と言い残してから、だいぶ経つ。
一人で考えることに限界を感じていたところだ。
何より婚約者には相談をしなければいけない。滝に打たれて、やっとそこまで考えが及んだ。
本滝から離れ水面をかき分け歩く。
プリムラが手拭き布を手に待っていた。
近づけば、なんだか顔を蒸気させて息まで荒くしている。
つい心配になってしまう。
「どうしたんだ、王女。熱でもあるのではないか」
「い、いえ。あまりにユリウスさまが美しすぎてもぉおお、わたくし興奮……感動で我を失っています」
はっはっは! とユリウスが水面を蹴飛ばすように岸へ上がる。
「美しいなんて言われたの、初めてだ。婚約者とはいいもの……いや、待て待て。以前の婚約者には言われた試しはないから、王女に限る話しだったな、これは」
それから再び高らかな笑いを、今度は夜空へ向けて放った。
プリムラのすみれ色の瞳にはまるで嘆息の吐いているかのようにも映る。やはりユリウスはいつもの感じではない。もっと説得力ある言葉を紡ぎたい。
けれども迫ってくる婚約者は腰巻一つのほぼ裸である。綺麗な肌へ無数に走る傷跡が肉体を艶かしくしている。加えて水を滴らせている。月光に浮かび上がる姿はまさしく神かと見紛う。
少なくともプリムラにはそうだった。
「ユリウスさまは素敵です。素敵なんですぅ」
頭に浮かんだ数々の言葉は、口を開けば昂る感情によってかき消されてしまう。ツバキがいたら、はしたないとされる声が出てしまう。
婚約者の嬌声をユリウスが気にしたふうはない。ただただ夜空を仰ぐ。
「嬉しいな、ああ嬉しい。婚約者にそんなふうに言われて、俺は幸せ者だ」
さっとプリムラを覆っていた赤みが退いていく。しゃんとした声で応じた。
「幸せというならば、わたくしのほうこそです。ユリウスさまの許へ来てからは夢のような日々です」
そう言いながら拭き布を差し出した。
受け取るユリウスは水面から出た。上半身の水滴を拭う。
「しかし、王女……いや王女という呼び方は良くないな。ああ、良くない、良くないとも。俺に婚約者は一人だけでいい、そう妻は一人だけでいい……」
顔を降ろしたユリウスは正面に立つ小柄な婚約者へ目を落とす。
「……そう、プリムラだけでいいんだ……」
たちまちにしてプリムラのすみれ色の瞳が潤んだ。
けれども、ぐっと堪えるように唇を噛み締める。
直後に吹っ切ったように明るくだ。
「ユリウスさま、そこの岩に座っていただけませんか。髪はわたくしに拭かせてください」
言われた通りユリウスは指差された岩へ向かう。拭ったばかりの拭き布を肩に引っ掛けて腰を降ろす。背後には台の役目を果たす岩がある。小柄なプリムラでも足を乗せれば頭へ届く。
ユリウスの髪へ手縫い布が覆い被さった。ゴシゴシとプリムラの拭く手つきは手荒なようで優しい。硬い髪質に合わせる絶妙な力加減を行使していた。
ユリウスとプリムラが共に過ごしてきた証を示す姿であった。
ユリウスさま、と呼ぶプリムラは頭を拭く手を止めない。
「わたくしは王族としての教育を受けております。世嗣の重要性については理解しております。どうかユリウスさまは今後を考え、最善とされる選択をお取りください」
りぃりぃりぃ……、岸辺に生える草木の間から鳴いてくる。虫の声は却って静けさを引き立たせている。
ユリウスは髪を拭く必要がなくなるまで口を開かない。
上着を持ってきましょう、とプリムラが拭き布を引き上げて、ようやくだった。
「俺は皆が思うような男では……人物ではない」
らしくないとする声が返ってくる。
器用にお腹の辺りで畳んだ拭き布をプリムラは胸に抱きしめた。
「……荷が重すぎますか」
「ああ、重い、重すぎる。しかもあいつらまでとは思わなかった」
エルフとドワーフといった種族の代表者両名が縁戚を結びたいと申し出てきた。
政略結婚として娘を差し出す話しを持ちかけてきた。
ユリウスは、意味がない、と断った。
するとエルフとドワーフの長たちの背後へ廻る人影があった。
配下とするが、それは組織上における便宜だ。
立場を超え、仲間とする四人だ
イザークとアルフォンスとベルとヨシツネ。四天と名を馳せる勇将たちである。
その四人が揃って片膝が着く。
恭順の意を示す姿勢を取ってくる。
格好だけなら、まだ何の冗談かと問える。
けれどもイザークが代表して言う。
我らの王、と。