水底の部屋、 心中の場所
俺はあいつのことが嫌いだった。いつも無口で何考えてるかわからなくて、近づきがたいくせに、趣味の話になると気持ち悪いくらい熱くなって。そういうところが大嫌いだった。
俺は運動が出来るけど、あいつは出来なかった。
あいつは勉強ができるけど、俺は出来なかった。
俺は歌がうまくて、でもあいつは下手で。
あいつは手先が器用で、でも俺は不器用で。
俺はアウトドア派で、あいつはインドア派で……。
俺たちは何につけても真逆で、正反対だった。
――俺は、あいつのことが、嫌いだった。
α 22日 15:32
このクラスには、二人の相澤がいる。一人は俺。成績は自慢できたものじゃないけど、運動神経は並外れて良いと自分でも思う。スポーツならなんでもござれ。今はバスケ部に入っているが、小学校のサッカー部でも、中学の野球部でも、常に周りから一目置かれていた。
「相澤! 部活終わったら、何か食って帰ろうぜ!」
「おっ、いいなそれ! これで今日のきつい練習も乗り越えられるだろうし、他のバスケ部のやつらも誘うのはどうだ?」
「そうだな! さすが、相澤。さえてるぜ!」
「ねえ! 私たちも帰り何か食べてこうと思ってたんだけど、一緒にいい?」
「ああ、もちろんだ!」
俺の周りには、いつも自然と人が集まった。みんないいやつらだし、昔から友達関係で困ることはなかった。一度きりの高校生活、ルールなんか気にせず、楽しんでなんぼだ。
「そうだ。来御ヶ原も一緒に来いよ!」
「えっ。う、うん」
彼女は、来御ヶ原なんて、いかにもすごそうな名前をしているが、別に普通の子だ。バスケ部のマネージャーで、俺が気になっている女子でもあった。あまり目立たないし、口数も少ないが、見た目や笑った時の顔がかわいかった。来御ヶ原のほうも、俺とよく一緒にいてくれる。俺があげた星形のヘアピンもつけてくれていて、まんざらでもないんじゃないかと、内心期待していた。
「そういえば、相澤君。『もう一人の』相澤君は、元気?」
だから、不意打ちだった。来御ヶ原が、俺の嫌いなあいつの名前を口にするとは思っていなかった。
「なんで、そんなこと聞くんだよ?」
あからさまに不機嫌な俺を差し置いて、来御ヶ原はさも当然のような顔をしている。
「え、だって、二人は同じ家で暮らしてるんだし、もう一人の相澤君のこと、一番よく知っているのは、相澤君でしょ?」
「だからって、あの相澤だぞ? あの、暗い方で有名な。あいつに何か用事でもあるのか?」
「わかったよ。君がもう一人の相澤君のこと嫌いって知ってるのに、こんなこと聞いて、ごめん。別に……ちょっと聞いてみただけだから」
「そうか、なら、いいけど。来御ヶ原があいつと関わって、何かあったらって思って……」
そんな見えすいた嘘を吐いて、俺ははぐらかす。今、あいつに抱いたこの感情を、来御ヶ原にも、俺自身にも悟られたくなくて。
「きつく言って悪かった……。今日はその、部活もいつも以上に頑張るし、帰りも何かおごるからさ。見ててくれないか?」
「うん……わかった。じゃあ、いこっか。お互い、がんばろうね」
「ああ、本当にうぜー」
俺は帰りに買ったハンバーガーを、歩きながらむさぼった。
「ん、何が?」
「暗い方の相澤のことだよ」
来御ヶ原の口から、あいつのことを聞いた時から、どうにもむしゃくしゃする。
「あ、あー。確かに、最近ちょっと調子のってるよな。あいつ、いつも一人でいるし、何考えてるかわからないしな」
「お、おう! そうだよな! 相澤もそこまで気にすんなって! またいつもみたいに愚痴ろうぜ」
俺がこぼした言葉に、みんなが同調する。みんなが俺に賛成してくれる。ああ。やっぱし、みんな、良い奴らだ。俺の周りには、たくさんの人がいる。
――――あいつとは違って。
α 22日 ??:??
ああ、また、ここか。と俺はすぐに思った。ここはきっと、現実のずっとずっと奥の心の中の場所。ここは、心中の場所だった。光が射しているのに、明るいのか暗いのかはっきりしない。ゆらゆら揺らいで壊れそうなのに、なかなか壊れてくれない。この場所は嫌いだ。嫌でもあいつのことを感じてしまうから。まあ、いいか。どうせまた、すぐにこの場所から目覚めるんだろうし。それまでの辛抱だ。
ふとこの場所にぽつんとある、ただ一つの扉を見つめる。あそこから出れば、もうこの場所は無くなるのだろう。だが、あそこから外に出てはいけない。あの向こうが恐ろしい場所だという事を、俺は知っている。この場所では、自分にとっての既知も未知も、透明なのだから。
β 23日 8:09
「よお! 相澤! ……ってなんだよ、暗い方か」
僕が学校に来た時にかけられる声は、だいたいこれだ。まあ、でも、それはしょうがない。このクラスに相澤は、僕ともう一人いるのだから。なにより、僕らは瓜二つといっていいほど顔がよく似ている。一瞬顔を見ただけで僕か彼か判断するなんて到底無理、不可能だろう。ただ、その後の仕草や口調、態度を見れば一目瞭然だ。僕と彼は完全に真逆といっていいほど、性格も好みも、出来ることも違う。それゆえ、明るい彼は「明るい方の相澤」。暗い僕は「暗い方の相澤」と、よばれている。僕が彼らから離れた席に着くと、陰口は始まる。しかも僕に聞こえるくらい大きい声のトーンで。
「はあ……なんで、あいつなんだよ。朝から暗い方の顔おがむなんて、テンション下がるな、おい」
だが、その生徒の声は、言葉とは裏腹に少し安心しているように聞こえた。
「ぶっちゃけ、あいつの存在価値って、あんまないよな。人ともあんまり……しゃべんないし。いっそ、生まれなかった方が幸せだったろうな……」
「所詮、出来るのは勉強ぐらいだろ? 明るい相澤もあんなやつと一緒に過ごさなきゃいけないなんて、大変だな……」
言葉自体はきつく聞こえるが、込められた感情はそこまでではない。みんな、周りを気にしながら、といった感じだ。それは、そうだろう。一人だけを犠牲にして、それ以外で固まれば、自分は安全なのだから。「僕を除いた集団」という仲間を得ることが出来て、自分は一人じゃないと感じることが出来る。だから、このことはそこまで辛く感じない。
むしろ辛いのは、僕を遠巻きにしようとする雰囲気の中心にいるのが、「彼」だという事だ。言わずともわかるように、彼は僕のことを嫌っている。
それに対して、僕は彼のことが好きだった。近しい存在だから、憧れているからとかではなく、単純に、僕は彼の存在を必要としていた。彼を想うことで、僕は生きていけた。こんなことを言ったら、十中八九気持ち悪がられるだろうが、それでも僕は彼が好きだった。
家に帰ってから、家庭科で自分の出生の記録についてまとめる宿題が出ていたことに気づく。僕が忘れていたということは、おそらく彼もまだやっていないのだろう。母さんから教えられた棚を漁っていると、奥から小さな手帳が出てきた。これは……母子手帳ではないみたいだ。別にそのまま棚に戻せばよかったが、なぜか無性に気になって、僕はページを開いた――――――。
読んでみて分かったが、これは母さんの日記だったらしい。しかも、まだ僕が生まれる前から、小さかったころにかけてのものだ。読んでいて少し新鮮だった。――この宿題は、たぶん残しておいた方がいいだろうな。そう思って、僕は手帳を乱雑な棚の奥に無理やり詰め込んだ。
β 23日 ??:??
そこは水底の部屋だった。周りは全て透明。それでいて外は見えない。天井から光が射して部屋が揺らいでいる。僕が吐いた既知も未知も、小さな泡となってあたりを漂う。そして、やがて消えていくのだろう。なんどもなんども。浮かんでは消える。よく考えれば、人の記憶や考えなんて、こんなものかもしれない。生まれて、浮かんで、いずれ消える。きっと僕の存在も。きっと僕のこの想いも。……彼に伝わることは、ないだろうな。
ふと思った。この部屋の、扉の外には何があるのだろう。……ああ、そういうことか。疑問が浮かんだとたんに、応えも浮かぶ。そして、疑問は消えていく。この部屋では、いつでもそうなってしまう。
α 24日 17:24
気づいた時。俺は胸の中に来御ヶ原を抱いていた。
ちょっと……待て。どういうことだ。
俺の頭がここに至るまでの記憶を引っ張り出そうとする。しかし、そんな記憶はどこを探しても見つからない。とうの来御ヶ原は、俺を見上げて不思議そうな顔をしていた。
まさか……。いや、そんなはずない。
そんなことあるわけないんだ。
でも、俺の頭に浮かんだその答えは、もっとも現実味をおびていた。
「……おい。なに……やってたんだよ」
「何って……え? も、もしかして、君は……」
来御ヶ原も異変に気づいたのか、動揺し始める。
その時俺は、来御ヶ原がいつもの星のヘアピンをしていないことに気づいた。辺りを見回すと、捨てられたように、それは教室に落ちていた。
――今まで感じていた予感が、確信になる。
「こんな教室で! 二人っきりで! こんな時間に、『あいつ』と何やってたんだよ!」
β 24日 16:55
放課後。美術部。この学校という場所の中で、僕が唯一気を抜ける場所だ。ここには、僕が彼と瓜二つだという事を受け入れて、理解してくれる人たちがいる。少なくとも、クラスでのようなことを言われずに済んだ。席に着くと、自然と安心できる。
「今日もお疲れ様。相澤君」
「ああ、来御ヶ原さん。今日は、バスケ部のマネージャーに行かなくてもいいの?」
「うん。だって今は『君』が、相澤くんなんだから」
同じクラスの来御ヶ原さんは、決して目立った存在ではない。だが、美術部のかたわら、バスケ部のマネージャーもこなしている。内気な彼女がなぜマネージャーをしているのか、理由はわからないが、そのせいか、「彼」とも仲がいいらしい。いつも髪につけているヘアピンも、彼からもらったのだという。常に彼から一歩距離を置かれている僕としては、羨ましいことだった。
でも、彼女が時々、邪魔くさそうにヘアピンをいじっている意味は、たぶん――。
ふいにチャイムが鳴って、下校時間であることを告げる。画材などを片付けるのには結構時間がかかるので、僕らは急いで片付けに取り掛かった。
「あ、あの、相澤君……」
「ん? 何?」
水入れを洗いながら、僕は背中越しに返事をした。しばらくしてから、彼女が口を開く。
「今日、このあと。帰りに教室に来てほしいの。私たちの、クラスの……」
意味はがよく解らなかったが、僕はあまり考えもせずに、二つ返事でオーケーをしてしまった。
「どうしたの、来御ヶ原さん。こんなところに呼び出したりして」
「うん……。ごめんね。相澤君。少しだけ、時間をちょうだい」
うつむく来御ヶ原さんの顔が、ほのかに赤らんでいて。その瞬間に、僕は全てを理解した。
「私、相澤君のことが好きなの。もう一人の相澤君じゃなくて、今、ここにいる、君が」
彼女の好意は嬉しい。だが、僕にはすでに想い人がいる。
しかも、それは、彼女の言うもう一人の相澤なのだ。そんなこと口が裂けても言えない。
「来御ヶ原さん。君の気持ちは嬉しいよ。君は僕の、数少ない友人の一人だし。でもたぶん、君が望んでいるようなことは……」
「うん、わかってる。付き合ってほしいなんて言わない。そんなことしたら、相澤君に不都合が起きるのはわかっているから」
それを聞いて、安心した。やはり彼女は話の分かる人だ。
「その代わりにさ……」
彼女の顔がますます赤くなる。彼女が僕を必要とする気持ちが、痛いほど伝わってくる。僕が彼を必要とするように。
「ぎゅって、してくれないかな? 今、ここで。そしたらもう何も望まない。明日からは、今まで通りにするから」
ここで断るのは、無粋というものだ。何より、彼女は僕のことも考えて言っている。彼女が満足するのなら、それでいいだろう。別にやましい気持ちがあるわけでもない。両手を広げて見せると、彼女は大きく目を見開いてこちらに歩み寄った。
緊張しているのか、少しよろめいて、その時に、あの星のヘアピンが落ちた。彼女がそれに気づいた様子はなかった。
胸の中の彼女のぬくもりを感じていた時、突然に「それ」はやってきた。
意識が四方八方に揺さぶられる。
高いところから落下したような永遠の浮遊感に襲われる。
まずい。
「彼」が出てきてしまう。
早く彼女に伝えないと。
早く彼女から離れないと。
しかし、そのどれも達成できないまま、僕の意識は落ち始める。
深い深い。それこそ、水底のようなところまで。
代わりに浮いてくるのは、「彼」の意識。
僕と彼は、ずっと一緒だった。いつの間にか、一緒にいた。
僕と彼は、相澤は、二重人格者だった。
α 24日 17:30
来御ヶ原は全てを説明し終えると、睨むように俺を見上げた。
「……そういうことだから、私が好きなのは、君じゃないの。もう一人の相澤君なの」
「そういうことって……第一、お前、美術部に入ってるなんてひと言も……。それに、あいつと、暗い方と話したことも無いって…………」
「だましていて、ごめん。……でも、本当のこと言ったら、たぶん君は怒ると思ったから」
そりゃ、怒る。今もはらわたが煮えくり返っている。でも、しおらしくする来御ヶ原に、怒鳴る気は起きなかった。
「でもさ……どうして、君はもう一人の相澤君がそんなに嫌いなの?」
「え、そりゃだって、あいつ、暗いし、無口だし、何考えてるかわかんないし……」
「……別に、そんな人他にもいっぱいいるよ」
そう言われて、気づいた。俺は、どうしてあいつのことをこんなにも嫌っているのだろう?
……いや、そんなこと、考える必要もない。
嫌いだから、嫌いなんだ。
「いや、そんなこと言ったって、俺だけがあいつを嫌ってるわけじゃないだろ。このクラスの大半が、あいつのことを、嫌ってるじゃないか」
「さあ……どうかな……」
悲しそうな顔をしながら、来御ヶ原は荷物を片付ける。することがなくなって、俺も自分の荷物を背負った。帰り際に、来御ヶ原は、俺に向きなおる。
「私さ……君みたいな相澤君は、嫌いだよ。誰かを思い切り憎むことでしか、自己確立できないなんて」
こんなにも、来御ヶ原の近くにいたのに。
「君は……相澤君のもともとの人格は、自分だったって、当然のように思ってるだろうけど、私はそうは思わない。暗い方の相澤君の方が、ずっとそれらしいし、必要とされてる」
教室を出ていって、遠くなる背中を。俺はただ見ているしかなかった。
ふっと、廊下を歩いてくる声が聞こえる。バスケ部のようだった。俺に気づいている様子はない。
「ふぅ~。やっぱ、相澤いない日は気が楽だな! 何にも気にせずにバスケ出来るし!」
「おい、やめとけって。誰かに聞かれたりしたら、それこそ相澤にでも聞かれたら、絶対ハブられるぜ」
「だいじょーぶだって! こんな時間に教室に残ってる奴なんてもういないし、相澤も、今日は暗い方だったからな!」
「暗い方も災難だよな……。勝手かもしれないけど、同情するわ……」
暗い廊下に響く足音が消える。話し声も、だんだんと遠くなっていく。
ああ、俺、嫌われてたんだと、今さらになって気づく。そして、この前、来御ヶ原があいつの話をし出した時に感じた物は、嫉妬だったんだと気づく。
ああ、そっか。俺、必要とされてないのか。
ああ……そっか。あいつの方が、必要とされてるのか。
その瞬間、溶けてくみたいに、あいつへの嫌悪感は無くなった。
もう、今日は帰って寝よう。
αβ 25日 0:00
そこは、水底の部屋だった。同時に、心中の場所だった。
会いたいと願ってやまない彼が、そこにはいた。
もちろん、望まれていないことはわかっている。それでも、今は、彼に会えたことがうれしかった。それに、どちらにせよ、ここでは彼に嘘なんてつけない。
「ずっと、会いたかった」
「ああ、俺もだ」
それを聞いたあいつは、少し驚いた顔をした。無理もない。少し前まで、あんなに嫌っていたのだから。
「でも、もう会えなくなるけどな」
彼は呟いた。彼の感情が、自分のもののようにわかる。彼の考えが、自分のもののようにわかる。
「俺は、本物の『相澤』じゃないんだ」
この部屋では、この場所では、想いも言葉も、全て透明だ。だって、ここは俺と、あいつだけの世界だから。
「お前が本物の、もともとの、『相澤』の人格なんだよ」
気づいたら、『相澤』は二人いた。
僕と彼。陰と陽。
どちらがもとからいた人格だったのか。どうしてそうなったのか。
それも思い出せないくらい前から、僕らは二人だった。
それと同じくらい昔から、『ここ』も存在していた。
ただ、全ての問いに応えるこの場所でも、俺たちがなぜ二人なのかという問いにだけは、一度も応えてくれなかった。ここだけでなく、現実でも、どこでも。
その理由は、ずっと、俺が本物だからだと思っていた。答えを俺に言えば、あいつが可哀想だから。でも、よく考えれば、それは俺の過信だ。俺が本物である証拠も、あいつが偽物である証拠も、何一つなかった。
――僕はもう知っていた。彼の存在の理由を。
――あいつはもう知っていた。俺の存在の理由を。
「……なんでなんだよっ!」
力任せに。あいつの首を絞めつける。
「昔から! 俺が本物だと思ってた! お前が本物の『相澤』のはずないって! 俺が……偽物のはずないって……」
苦しい。辛い。助けてほしい。ここではそれらすべてがあいつに伝わってしまう。それが嫌で、ただ見栄を張った。
「…………だから、さっさと終わらせろよ。あの扉からお前が出れば、全て終わるんだろ? 俺はもう、必要とされてないんだ」
顔を見たくなくて、見られたくなくて、彼は俯いた。
「もう……もう、悔いはない」
彼の虚勢が伝わった途端、水底の部屋に僕の感情の波紋が大きく広がった。
「それ、本気で言ってるの?」
気づくと、目の前にのしかかってくるあいつがいた。全体重をかけられて、そのまま床に押し倒される。ふんじばってもがくが、手足をおさえられているせいで起き上がれない。
「嘘つき」
あいつが生暖かい息とともに、低い声音で言葉を吐く。それが顔にかかって、俺の心臓は一瞬大きく震えた。
「本当は、誰かに必要とされたくて必死なくせに」
俺の心が、鋭い針を突き刺されたように、痛む。
「自分を認めてもらいたくて必死なくせに!」
この場所が、部屋が、共鳴して揺れている。
「……じゃあ、じゃあ、どうすればいいんだよ‼」
少し力を抜いたすきに、彼は僕を突き飛ばした。
項垂れるようにうつむく彼の顔は、前髪に隠れて、よく見えない。
――一人は、嫌だ――
彼の「声」が。聞こえた気がした。
自然と頬に雫が伝って。
僕も――――。
温かいものを感じたと思ったら、あいつが俺の肩に顔をうずめていた。
抱き着くあいつは、怯える俺をさとすようで。自分の怯えを俺に預けるようで。
「僕も……怖かったよ。一人は怖かった。一人が、嫌だった」
あいつの声が、かすかに震えていて、泣いていることが分かった。あいつでも、泣くことなんてあるんだな。
「一人の自分が、嫌だった……! 一人の自分が、嫌いだった……!」
あいつの言葉に、思いに同調するように、俺の眼からも涙がこぼれ始める。あふれ出る涙をおさえようと、俺もあいつの肩を抱きしめる。
「僕は、僕は君が好きだよ。でも同時に、君のことが嫌いだったんだ……。どうしようもないほどに。自分だと認めたくないほどにっ……」
あいつのことなのに。なぜか涙は止まらない。あいつが嗚咽をおさえながら、俺に向けて言葉を発する。
「……だからっ、君も、本当のこと言ってよっ! 思ってること、そのままっ、言葉、にっ……」
叫ぶあいつの声は、情けないほどの涙声で。それを聞いた俺は、ゆっくりと口を開いていた。
「お、俺、は…………」
出てきた声は、これまた情けないほどの涙声だ。でも、そんなこと気にしない。
「平凡な、自分が嫌いでっ……! だ、誰かに必要とされていたくて……っ。一人は……嫌で……」
「……うん」
涙がどんどん流れて、あいつの肩を濡らす。ふらふらの俺を支えるように、あいつが抱きしめる。
「俺はっ、俺のままで、いいって………………! 誰かに…………言ってほしかったっ‼」
そのあとはもう、泣き声にしかならなくて。胸の中に溜めこんだすべてを吐き出すように、俺たちは、泣いていた。
「俺……一人でいるのが怖かったんだな」
「泣き疲れて、落ち着いた?」
「う、うるさい! お前も泣いてただろ!」
赤くなった目で言い合っていると、自然と笑いがこみ上げてくる。
人はみんな、誰でも一人では生きていけない。
そのために、無意識のうちに、相澤は自分の中に二人の人物を生み出してしまったのだ。
俺の嫌いなあいつも。
僕の好きな彼も。
どちらも欠けてはならない、相澤自身なのだ。
「……じゃあ、もうここにいる必要は無いよね?」
あいつが待ちかねたように言った。
「俺とお前、結局どっちも、もともとの相澤じゃなかったんだな。そりゃ、この場所でもわからないわけだ……」
「ああ、それは……たぶん、違う理由だと思うけど。 それに、僕らの存在の理由は、もう一つあるんだと思う……」
俺たちの存在の理由。
もう一人の人格にもたれかかることで、自分の存在意義を見出していた、
俺とあいつ。そのために二分された、相澤の人格。
「え、どういうことだ? お前、まだ何か知ってるのか?」
「まあでも、たぶんすぐにわかるよ。外に出たらね」
この場所の隅に、ずっと存在していた、一つの扉。いつかのその時のために、残されていた扉。
「この外に、出ればいいんだよな」
「うん。そうすれば、僕らは元に戻る。僕らは一つになる」
絶対に開くことは無いと思っていたのに、少し驚きだ。結局のところ、最終的にこういうものを開くのは、自分の意志なんだな。
「あのさ……」
ただ、やはり、今まで恐怖の象徴だったものでもあるのだ。
「手、握っててもいいか。やっぱり、その……怖いんだ。また、一人になってしまいそうで」
「…………しょうがないなあ。……ふふっ」
「わ、笑うな!」
「いや、君にしてはやけに素直だったから」
笑っているあいつを見て安心するのは、たぶん俺も笑っているからだろうな。自分を守ってくれていた場所が、今は狭い牢獄のように感じる。
「じゃあ、そろそろ行こうよ」
「ああ、そうだな」
この手の温かみを忘れても。
俺の中にもう一人の俺がいたことを。
僕と同じ気持ちだった僕がいたことを。
きっと、忘れない。
29日 16:46
自分の出生記録の宿題とか本当に面倒くさい。物の詰め込まれた棚を探りながら俺はため息を吐く。
いつの日からか、あいつは表に出て来なくなった。いや、その言い方だとどこか語弊がある。そもそも、俺たち自身に裏とか表というものがなくなった気がする。勉強も普通。運動も普通。その他もろもろのステータスも普通。昔はこんな自分がただただ嫌だった記憶があるのに、今は不思議と安心できる。はじめのうちは周りの連中も俺の変化に驚いていたが、そのうちに慣れていった。人間の適応能力とは末恐ろしい。
棚にあった物たちをようやくどけ終わると、奥にきれいに並べられた手帳が見つかった。ほこりを払いながら、「相澤 心」と書かれた母子手帳を取り出すと、プラスティックカバーにはりついて何かが落ちた。
拾い上げると、母さんの日記のようだった。たぶん、俺がまだ腹の中にいた時のだろう。
ちょうどいい。これも宿題に使わせてもらおう。
日記をめくっていくと、ふとあるページで手が止まった。
『○月×日(△)
出生前診断により、お腹の中の子が双子だとわかった。あの人とも相談した結果、上の子を心、下の子を水と名付けることにした。何はともあれ、早く元気に生まれて来てほしい。』
その時、俺は唐突に、俺には母さんが流産した、双子の兄弟がいたことを、思い出したのだった。