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無人の時代  作者: 荒里あゆむ
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03章

 スーパージェット社の応接室は少し冷房がききすぎていた。如月コンサルティングの真田悠斗と河合春菜は寒そうに肩をすくめながら並んでソファーに座っている。

 テーブルをはさんで向かいに座っているスーパージェット社のシステム部の石川大助課長は恐ろしく上機嫌だった。今のところ、メール誤送信の件で厳しくお叱りを受けるだろうという真田の予想は外れていた。


 石川課長は、今回のジェット社の無人運転システムの開発を取り仕切った実質的な現場監督だ。頭髪は少し薄く、真っ黒に日焼けしている顔に気の弱そうな目、名前とは裏腹に身長は少し小柄な部類に入るだろう。面倒見の良さそうな笑顔が妙に憎めない印象を与えている。服装は量販店のスーツとノーネクタイのワイシャツ、両方とも少し皺が寄っている。


 真田はその昔、ソフトウェア開発の会社の新人時代に先輩から言われた言葉を思い出した。

「高いスーツは買うな」

 一般にソフトウェアの開発はデスクワークと考えられがちだ。


 しかし、コンピュータの設置や配線のために埃だらけのパソコンの裏に入ったり机の下に潜ったり、場合によってはカーペットをめくって床下のフリーアクセスをひっくり返さなければならないこともある。ひどい現場ではサーバー室に椅子が無く、床に座って作業しなければならないこともある。だから高いスーツを買ってもすぐに汚れて無駄になるという理屈だ。


 しかししばらく仕事をして分かったのだが、そんな場面はそうそうあるものではない。まして最近はLANはもちろんマウス、ディスプレイ、キーボード、プリンタなどの周辺機器は全てワイヤレス方式に置き換わっているので、配線で苦労することはほとんどない。


 おまけに付箋紙型の携帯型外部メモリが発明されたおかげで、従来の直接パソコンに差し込むタイプのUSBメモリまで市場から姿を消し、今ではUSBポートが着いていないパソコンが普通になってしまっている。(その昔、フロッピーディスクドライブが姿を消したのと同様に、である)


 もはやシステムエンジニアの3Kのうち『きたない』はほぼ消えている。しかし新人の頃に刷り込まれた習慣とは不思議なもので、今でもスーツにお金をかけることが罪悪のように反射的に感じられてしまう。


「いやー、おかげさまで無事にこの日を迎えられましたよ。今日から晴れて無人運転システムのサービススタートです。これも如月コンサルさんのおかげです。ありがとうございます!」

 石川課長のテンションがあまりにも高いので真田と春菜は少し引き気味に愛想笑いを浮かべる。


「トラックとの通信インタフェースに関してドイツとのやり取りで少し苦労しましたけど、あとは自社の既存システムをベースにできたので大きな技術的問題はありませんでした。いやー、でも私は英語がまったくダメなので、現地の技術者の話が全然わからなくて、いやもちろんドイツ語も全くダメですけどね。ははははは」


 この話を石川から聞くのは直近の三ヶ月で通算するともう十回目くらいだろうか。春菜もさすがにそのあたりは心得ていて、「そうですよねー」とか「なるほどー」とか神妙な顔つきで適当な相槌を打っている。

 石川は一見するとあまりうだつの上がらない中間管理職という印象を受けるが、システム開発の現場では彼のような人当たりの良いキャラクターが重要な役割を担うことが多い。


 例えば各部門のステークスホルダーと公私において良好な関係を築いたり、チーム内の若手の精神面や体調に気を配ったりすることは、一流大学出のエリート管理職が不得意とするところである。今回の無人運転システムがこれほど短期間でリリースできたのは、彼が表に現れない内部的なマネジメントの部分で果たした役割が大きかったと真田は評価していた。なので石川の無駄話もそれほど苦痛には感じていなかったし、むしろ心の中で『ご苦労さま』とねぎらうような心持ちがあった。


 ただし、春菜はまだそこまでの心境には至ってはいなかったようだ。彼女が生あくびをかみ殺すのを真田は見逃さなかった。

 システム課長の話がループ気味になってきた時、救いの神が降臨した。いや、女神と言うべきだろう。会議室のドアがノックされ、企画部の小沢典子部長が入って来た。


 すらりとした長身にピンストライプのライトグレーのスーツを着こなし、ベリーショートの髪型に縁無し眼鏡、すっと通った鼻筋、知的で目元の爽やかなモデル顏の美人。今回の無人運転システムの企画責任者である彼女が颯爽と登場した瞬間、それまで味の寝ぼけた煮物のようだった会議室の空気が一瞬できりりと引き締まった。


「ごめんなさい、セミナー会場の準備に手間取ってしまって。遅くなりました」

 典子は礼儀正しく頭を下げた。左手の薬指には銀色に光る結婚指輪がはまっている。数年前にフリーのプロジェクトマネージャーの男性と結婚したとのことだった。


典子のあまりに流麗な身のこなしに、如月コンサルティングの二人は思わず立ち上がって頭を下げる。

「いえ、こちらこそお忙しいところお邪魔しまして申し訳ありません。先日はうちの河合が大変な粗相を致しまして、たいへん申し訳ありませんでした。こちら、つまらないものですが・・・」


 真田が上目遣いに猫娘饅頭を差し出すと、典子の端正な顔がぱっとほころんだ。

「メールの誤送信の件ですね。あー、ねこむす饅頭!これ前から食べてみたかったんですけど、いつもすごい行列してるんですよね。企画部の女子たちはきっと大喜びすると思います」

 予想とは大幅に異なるリアクションに真田は戸惑いながら愛想笑いを浮かべた。


 典子が所属する企画部は、以前は社長直轄の二人ほどの小さい部署であった。

 当時、ジェット社は後発のライバル企業に顧客を奪われ業績は低迷していた。典子は企業名のブランド化のために新聞や雑誌に広告を出したり、業務の無駄を調査して経費節減を検討したり、AIによる輸送ルートの最適化やホームページのリニューアル、コンビニエンスストアとの提携を検討したりと様々な企画を検討した。


 しかし、そもそもの会社の知名度の低さもあり、どの企画も効果は上げられず売上の低下に歯止めをかけることはできなかった。

 八方ふさがりだった典子は忙しさと心労から体調を崩してしまった。それを見た社長が心配して、彼女に一週間の休養を命じた。彼女は気分転換に沖縄旅行に行った。沖縄ではまるまる一週間、美ら海水族館に毎日通ってただぼーと魚を見て過ごしたという。


 二十四時間仕事漬けの日々であったが、沖縄にいる間は一秒も仕事のことは考えなかったそうだ。むしろそれが彼女の発想に良い作用を及ぼしたのであろう。

 無心で水槽の魚を眺めていた時に、今のスーパージェット運輸の企業マスコットのアイディアを思いついたそうだ。愛らしいメスの鮫が歯を剥き出しにして威嚇をしているイラストである。

 このマスコットが大ヒットした。


 最初はTwitterやFacebookで局所的に話題になっているだけであったが、それがあるとき、イラスト好きのインフルエンサーに拡散されて『かわいい』と一気に評判になり、テレビで取り上げられた。企画部に取材の申し込みが来るようになり、ぬいぐるみやらTシャツやらマグカップやらに商用利用したいという企業の問い合わせが殺到し、企画部は大騒ぎになってしまったという。


 マスコットの名称は社長の一声で『ジェットちゃん』という恐ろしくヒネリの無い名称に決まった。所有するすべてのトラックにこのキャラが描かれた。子どもが街中でジェット社のトラックを見かけると「ジェットちゃんだー!」と大喜びされた。


 ジェットちゃんの大ヒットは本業とは全く関係のない事業ではあったが、おかげでジェット社の知名度が上がり、企業との取引も増加し間接的に本業の売り上げも向上することになった。この功績を契機に企画部は十人体制になり、つい二年ほど前、彼女は四十歳で企画部部長に昇格した。


 春菜にはどうも人に気に入られる愛嬌があるらしい。典子も春菜をまるで自分の娘か妹のように接することがある。メールの誤送信の件もたいして気にしている様子は無い。


「でもあのメールだけど、ちゃんと同期のみなさん会えたのかなって、うちのメンバーが心配してましたよ。だってメールには集合時間、書いてなかったでしょ」

 春菜は真っ赤になって俯いた。


「では会場に移動しましょうか。私もちょっとお化粧を確認しないと」

「あ、小沢部長、今日のメインのプレゼンターでしたね!」春菜がキラキラと目を輝かせる。

典子がにっこりと微笑む。理知的でありながら女性的な愛嬌を含んだ魅力的な笑みだった。真田は心臓がドクンと脈打つと同時に顔が赤くなるのを感じた。

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