16章
「うーん、やっぱり山岸さんが持っていたウイルスの発動条件は日時のみみたいですね」
如月コンサルティングのシステム部屋は夜になっても賑やかだった。春菜を囲んで四、五人のエンジニアがパソコンの画面を見ながら、ジェット社のウイルスについてワイワイと議論している。
若手の社員がデスプレイに表示されたソースコードをスクロールしながらウイルスのソースコードを見ながら見解を述べると春菜が首をかしげながら応える。
「でも見つかったのは緯度経度と最後尾車両が発動条件のバージョンですよ」
「うーん・・・」
春菜は腕組みをしながら大げさに眉間にしわを寄せながら考え込む。
「状況を整理しましょう。まず、7月20日の18時ごろ、山岸さんはネットで拾ったウイルスを最後尾を走る予定の十号車にセットした」
「その際、発症日時は翌日の午前2時に設定したんでしたね」
「ええ、そう言ってました。その時間ならば確実に高速道路を走っているはずだから町なかで重大事故を起こす確率が低いだろうと思ったそうです」春菜が確信を持った表情で応える。
「その後トラック十台は予定どおり営業所を出発、新東名に乗って順調に走行、そして午前2時30分にウイルスが発症」
「山岸さんが設定したと言っていた時間と30分の差がありますね」
「山岸さんがウイルスをセットした後、発動までの数時間の間にバージョンアップを行い、しかもご丁寧にバージョンアップした、ということになりますね」
「っていうか、そもそも位置情報の起動条件ってウイルスの発症条件としてはめちゃめちゃ汎用性低くないですか? 特定の地域とかを攻撃する用とか?」
「まあ、いずれにしても山岸さんの他にウイルスを差し替えた犯人が別にいるということだな」
「だな」スーパージェットの社員全員がうなずく。
「あ、もうこんな時間、ごめんなさい、遅くなってしまって」
「いーえ、春菜ちゃんのお願いならいつでも大歓迎ですよ」
「真田さんにいじめられたらいつでもシステム部においでねー」
真田は盛り上がった笑い声を背に不機嫌そうに言った。
「河合、飯食べに行くぞ」
春菜のアパートは京急の青物横丁駅から大井町方面に五分ほど歩いたところにある。
さすがに今日はいろいろあって疲れた、春菜は少しぼおっとしながら、アパートに向かって歩いていく。時刻は午前0時を少し過ぎていたが、真夏の夜はひどく蒸し暑い。
第一京浜を渡って少し歩くと人通りは絶え、薄暗く細い道が入り組んだ住宅街になる。
突然、スマートフォンがメールの着信を告げる。差出人は未登録のアカウントだった。最近のメールフィルタリング機能はかなり高機能になっていて、以前のような迷惑メールはほとんど弾いてくれる。いかがわしいメールで受信リストが埋まることもなくなった。
しかしたまに何かの拍子にAIのアルゴリズムをすり抜けて着信することもある。そういったメールはたいてい派手派手しく馴れ馴れしく、いかにも怪しそうな文面で書かれている。
春菜は実はそういった怪しいメールを読むのが大好きだった。春菜は無造作にスマートフォンのロックを解除し、メールを開封した。
―――その瞬間
いつもの仰々しい文面を想像していた春菜は、背筋がぞっと寒くなって凍りついた。メールはただ一行、
『手を引かなければ殺す』
とだけ書かれていた。
『!!!』
急激に心臓が高鳴る。
春菜は走り出した。
徒歩五分ほどの帰宅路が異様に長く感じられた。パンプスが脱げそうになったがかろうじて持ちこたえる。
最後の曲がり角を曲がると、ようやく春菜が入居している『白くま荘』が見えてきた。息を切らしてアパートの階段を駆け上がる。
玄関にたどりつくとかばんの中身を全部床にぶちまけ鍵を拾った。手が震えて鍵がなかなかささらない。なんとかドアを開けて部屋の中に入った。ベランダのカーテンが半分開いていた。窓からアパート前の通りを確認したが人通りは無かった。ベランダの窓の鍵は閉まっていた。
カーテンをぴったりと閉め、リビングのソファーに座ってスマートフォンのスリープ画面を見つめた。手ががくがくと震えている。先ほどのメールを読み返す勇気は湧かなかった。ただまっ黒な画面を見つめることしかできなかった。
その時、なんとなく部屋の中が涼しいことに気付いた。見上げるとエアコンが冷房モードで動いている。春菜は再び背筋が寒くなった。
春菜の部屋のエアコンはセンサーが室内の人間の体温と動きを感知して、自動的にオン/オフが切り替わる省エネタイプである。これはそそっかしい春菜向きの機能で、朝出かけるときにわざわざオフにしなくても部屋の中の動きがなくなれば自動的に電源が切れる。
逆に動きや温度の変化が感知された場合は誰かが帰宅したと判断して自動的に電源が入る。春菜が帰ってきてまだ一分も経っていないのに、室内はすでに適温だった。
まさか、さっきまで誰かがこの部屋にいたのだろうか。春菜は素早く立ち上がるとまっすぐに玄関に直行し部屋を飛び出した。玄関の外にはさっきぶちまけたかばんの中身が散乱していたが見向きもせずに通り過ぎる。春菜は駅に向かって走りながら泣いた。見かける人影がみんな恐ろしげに見えた。だめだ、怖い・・・誰か、助けて。春菜は走りながら、勇気を振り絞ってスマートフォンのロックを解除して電話をかけた。
真田はタクシーの後部座席に座っていた。少し酔っていた。日本橋で春菜と食事をして別れた後、そのまま帰る気になれずにバーでウイスキーのロックを飲んだ。普段はビール派なのだが、スーパージェット社のウイルス騒ぎが一段落してほっとした気分だったからかもしれない。
「お客さん、そろそろ青物横丁駅です」
運転手が真田に告げる。
「あ、じゃあ駅のあたりで止めて下さい」
真田がタクシーから降りると、駅に上がる階段に雨に濡れた捨て猫のようにぼろぼろになった春菜が座っていた。泣いていたのか、目が真っ赤になっている。真田はため息を一つついて頭のモードをチェンジした。
「河合・・・」
「あ、真田さん」
春菜が泣き顔を上げる。真田を見て安心したのか、再び泣き出しそうになる。
「だいじょうぶか?」
春菜は小さく頷き、消えそうな小声で答えた。
「すみません、呼び出してしまって・・・」
「とりあえずあそこのマックに入ろう。それともモスにするか?」
「モス・・にします・・」
日ごろの明るい春菜は見る影もなく、ひどく憔悴している。よっぽど怖い思いをしたのか、最初に春菜から電話があったとき、彼女はパニックを起こしていて何を言っているのか理解できなかった。とりあえず尋常ではない状況ということは分かったので、日本橋からタクシーを飛ばして来たのだった。
青物横丁のモスバーガーは深夜ということもあり、座席は閑散としていた。真田はコーヒー、春菜はダブルモスチーズバーガーとオレンジジュースを注文した。さっき二人で夕食を食べたはずだが・・・と真田は思ったが気のせいであったか。彼女は猛然とハンバーガーをほおばっている。一分ほどで完食した。口元にパンの屑が付いている。
「どうだ、少しは落ち着いたか」
「はい、ありがとうございます」
「ま、いちおう可愛い部下だからな、これも上司の勤めだ気にするな。それで、話せるか?」
「はい・・・」
春菜は少しずついつもの思考を取り戻しているように見えた。事実をひとつずつ確かめるように、時系列に整理して話して行った。
「そうか、怖い思いをしたな。でも良く頑張った。じゃあまずはその問題のメールを見せてもらおうか」
春菜がスマホを真田に渡す。しかしスリープ解除のパスコード画面になっている。
「解除してくれ」
真田が促すが、春菜は目をつぶって首を横に振る。真田はやれやれという顔で尋ねる。
「パスは?」
「2618です」
真田がメールを開くと、本文は確かにただ一行、
『手を引かなければ殺す』
と書かれており、前後に改行もない。
「差出人アドレスに心当たりは?」
春菜が首を横に振る。
「誰かに恨まれたり、身近に不審な人物を見かけたことは?」
また首を振る。
「やっぱりジェット社さんの事件の関係だろうか・・・」
春菜が三たび首を横に振る。今度はNoの意味ではなく、分からないという意味だろう。
「よし、じゃあいちおう部屋も見せてくれるか?何か不審な形跡が無いか確認したほうがいい」
春菜は今度は小さく縦に首を振った。
エアコンは停止していたが、さっきまで作動していたのだろう、『白くま荘』の二階の角部屋は外よりも若干涼しかった。
春菜の部屋は案外奇麗に整頓されていた。典型的な1LDKの間取りで、玄関を入ってすぐにリビングとキッチン、左手にユニットバス、奥に六畳のフローリングがある。薄いピンク色のラグの上に、巨大なカエルのクッションが腹を上に向けて転がっている。部屋の隅に洗濯ものが干してある。清潔な香りがした。
「このエアコンがさっきは動いていたんだな」
「はい」
エアコンは今は停止していた。真田は念のためエアコン本体の側面や裏側をチェックする。そのうち部屋の中の動きを感知したのか、自動的に電源が入り、冷たい風が吹き出してきた。
「センサーの故障の可能性もあるな。今は正常っぽいけど、動作が不安定になって留守中に作動してしまったということもある」
こんな言葉で春菜の気持ちが安らぐとは思えなかったが、黙っているよりはよっぽどいいと思った。
「他に不審な点は?お前のことだから、さっきは動揺してろくにチェックできてないんだろ」
「はい、調べてみます」
「じゃ、俺はベランダを見てみる」
春菜はキッチンに移動し、真田はカーテンを開けてベランダの窓の鍵を開いた。一瞬、向かいの道路に人影が見えたような気がしたが、すぐに暗闇に紛れて見えなくなってしまった。真田は注意深く、ベランダの床を確認する。うっすらと埃がたまっており、足跡などの痕跡は見つからなかった。エアコンの室外機が鈍い音を立てている。
「なにか見つかったか?」
真田はキッチンの春菜に声をかける。
「はい!冷蔵庫の中の・・・」
「なんだっ?冷蔵庫がどうした!!」
真田は急いで室内に戻り、春菜の背後から冷蔵庫を覗き込む。
「ヨーグルトの賞味期限が切れています」
真田がパシッと春菜の頭をはたく。
「いてっ」
「侵入された形跡とかがないかって聞いてるんだよ」
「すみません、なんだかお腹減って来ちゃって」
「おまえなぁ、さっきハンバーガー食べたばかりだろ」
いつもの掛け合いに戻っている。春菜はだいぶ落ち着いた様子だった。
「特に変わったことはないみたいです」
真田も緊張が解けて体の力が抜けた。
「うーん、やっぱりエアコンの故障の可能性が高いけれど、メールは気になるな。単なる迷惑メールの域を超えている気がする。明日、念のため会社に報告して指示を仰ごう」
「・・・」
「それと、大学の同期が警視庁に勤めているから、個人的に意見を聞いてみるよ」
「・・・」
「なんだ?どうした?」
「あの、真田さん・・・今夜、この部屋では寝られそうもありません」
「はぁぁぁ?」
選択肢としては、うちに連れて行って泊めるのが一番妥当だが、真田は自分の部屋の現在の状況を脳裏で確認した。先週大人買いしたコミック全三十巻が読みかけのまま積み上げられている。洗濯物も取り込んだまま畳まずにほったらかしだ。そう言えば今朝は燃えるゴミを出し忘れたな、最近忙しくて掃除機をかけていない。結論は『ムリ』だ。
しかし、春菜に届いたメールの文面が頭をよぎる。小型犬のように真田に哀願する春菜の大きな目が、最終的に結論を変更させた。
「まったく、しょうがないなぁ。貸しだからな」