01章
01
巨大な入道雲を従えて、しばらくぶりの太陽が姿を現した。
梅雨明けの東京、昼前の銀座四丁目の交差点にはたっぷりと湿気を含んだ陽炎が漂っている。平日の日中にもかかわらず人通りは多い。
歩道には女性のハイヒールの音が響き、移動中の若手サラリーマンのワイシャツは汗で張り付き、デパートに向かう中年女性の顔には笑いがあふれ、観光に来ている外国人は蒸し暑さに辟易し、夏休みに入った大学生のカップルは開放感を満喫している。どこかでクマゼミが遠慮がちにジジジッと鳴いた。
真田悠斗は汗だくになりながら、待ち合わせ場所の三越前のライオン像にたどり着いた。
著名なイギリス人彫刻家によって型取られたこの像はもう百年もの間、東京の文化の中心である銀座の街並みを眠そうな目で眺めている。
像の台座には、高級そうなジャケットを着た銀縁眼鏡の老人が背をもたれてライオン像と並んで、行きかう人波を眺めている。
真田は和光の時計台を見上げた。
午前11:00、待ち合わせ時間ジャストだった。河合は・・・まだ来ていないようだ。
あたりを見回すと、待ち人に出会えた人々がお互いにあいさつを交わし、笑顔で連れ添って歩き出す。まだ相手に会えない人たちは、みな申し合わせたような不機嫌顔で腕時計を覗き込む。驚いたことに、人々の半数はウェアラブル型のメガネ端末をかけている。
この先進的なデバイスはここ数年で驚異的な勢いで日本に普及し、旧来のスマートフォン市場を食い尽くしつつある。当初はメガネ一体型の製品が主流であったが、その後市販のメガネに取り付けられる取り外し可能なタイプの新型が発売されたことが普及に拍車をかけた。
また全個体電池の技術向上に伴い課題であったバッテリー問題も解消され、今では子供からお年寄りまで街で普通に見かけるようになった。技術の革新は長い年月をかけてまるで蝉が地中でじっと時を待つようにじわじわと確実に進み、ある日突然地表に現れ、大音量で鳴き声を上げて我々の生活を劇的に変化させる。
「あらー、ハナちゃん、ひさしぶり~!元気してたー?」
「うん、げんきよー、今日は晴れてよかったわねー」
待ち合わせの中年女性二人組が嬌声を上げながら連れ立って歩き出す。二人ともピンク色のメガネ型端末をかけている。一人が腕時計を操作しながらもう一人に見せている。
「今朝、朝ごはん抜いてきちゃったわ、見て、まだ十キロカロリーしか食べて無いの」
「わー、すごい。私、おなか減ったからしっかり食べてきちゃったわ」
女性の腕時計の文字盤の表面に赤と青の棒グラフが立体的に浮かび上がっている。赤の棒が短く青が長い。恐らく赤が摂取カロリー、青が消費カロリーなのだろう。最近の腕時計には各種のセンサーが内蔵されており、カロリー、脈拍、血圧、体温、血糖値など、基礎的な身体データをリアルタイムで記録する機能を持っている。
中には装着者のその時のストレス度や感情を計測できる製品もあるらしい。記録されたデータはスマートフォンなどの携帯型デバイスとリンクし、健康管理に役立てることができる。さらにこの機能を応用して、さまざまな健康企画がビジネスに応用されている。
『買い物ダイエット』は銀座のフルーツパーラーが企画したサービスで、買い物をしている間に消費したカロリーを計算し、来店したお客に消費したカロリーに応じたサイズのパフェを提案して食べてもらうという企画である。
買い物でどれだけのカロリーが消費されるかは、女性の買い物に付き合ったことのある男性ならだいたい想像がつくであろう。二、三時間休まずに歩き続けということもざらにある。つまり相当な量のカロリーが消費されるのである。大好きな買い物をしながらダイエットができ、しかもご褒美にパフェまで食べられるのである。
パフェを食べてしまったら全然ダイエットにならないじゃないかとも思うのだがこれが今、女性に大人気なんだそうだ。おばさん二人組は女子中学生のようにはしゃぎながら松坂屋方面に去って行った。
気がつくと十分が経過していた。
真田の待ち合わせの相手は河合春菜、今年春に入社したばかりの新入社員である。上司を待たせるなんてまったく、真田は小腹が立った。
いつの間にか待ち合わせをしていた人たちは誰もいなくなり、残っているのは真田とライオン像の台座に持たれているお爺さんだけになっていた。真田がイライラしながらお爺さんを見ると目が合った。お爺さんは真田の心内を見透かすように、不気味に微笑んだ。
ふと地下鉄の階段のほうを見ると、猛然と一段ぬかしで駆け上がってくる背の高い若い女性が目に入った。春菜だった。
夜逃げでもしてきたような巨大なリュックを背負っている。
春菜は階段を登りきると悪質タクシーのように急停止し、真田に背を向けてきょろきょろとあたりを見回している。地上のどの場所に上がったのか把握できていない様子だった。しかしじきに現在地を確認できたのか、こちらを振り返ってまた猛然と走り出す。真田は珍しい動物でも見るように目を細くして彼女を見つめている。
春菜が真田に気づいた。そして陸上選手のラストスパートのように喘ぎながら近づき、すぐ目の前で急停車した。
「真田さん・・・すみません・・・遅くなってしまいました・・・」
ジーパンの膝に手を置いてぜーぜーと肩で息をしている。汗びっしょりである。羽織ったグレーのジャケットの下の白いTシャツが汗で肌に張り付いている。
---Tシャツ??
---ジーパン??
「システム部との打ち合わせが長引いてしまって」
河合春菜---今年度の新入社員だ。正確には第二新卒というのだろう。情報系の学部を卒業後、一年ほどプログラマの仕事をしたあと今年の四月に入社してきた。すこし痩せ気味だがすらりと背が高く、短くカットした髪によく動く大きな目が人目を引く。その目が申し訳なさそうな上目遣いで真田を見つめている。
「まあ打ち合わせなら仕方ないけど、その服装はいったい何?意味が分からない。まさかこれから彼氏と買い物デートにでも行くつもりなんじゃないよな。今日のこれからの予定を言ってみろ」
「は、はい!これから弊社のお得意様のスーパーダッシュ運輸さんの本社にお邪魔し、無人運転システムに関する打ち合わせを行い、そのあとダッシュ社さんの無人運転システムの顧客向け新サービス発表会を見学、えっと、そのあと無人運転トラックのデモンストレーションに同行して大阪に移動、えっとそれから・・・」
「だよな・・・」
「・・・えっと、そのあと・・・」
「これから客先なのに、その格好じゃまずいってことはわかるよな。それにスーパーダッシュじゃなくてスーパージェット運輸さんだ」
「も、申し訳ありません!昨日疲れてスーツのまま寝てしまって、そしたら朝起きたら・・・」
「朝起きたら?」
「スーツがたいへんなことになっていて・・・」
「おねしょか」
「ち、違います!おねしょは最近はほとんどしてません」
真田はあきれ顔で先に歩き出す。春菜もあわててそのあとに続く。
「もういい。ちなみに本社に寄った時に服装について何も言われなかったのか?」
「はい!言われませんでした!」
本社の連中の腑抜けた笑顔が目に浮かぶ。まったく、少し実績を作ったからといって新人を特別扱いするのは教育上良くない。
「しかたない、じゃあ俺もネクタイを外す。これで少しはバランスが取れるだろう。クールビズって言い訳すればギリギリなんとかなるだろう」
「ありがとうございます!真田さん!優しいんですね!」
「おだてても何も出んぞ。それに元気なのはいいが、いちいち会話にエクスクラメーションマークをつけないでくれ、疲れる」
「了解ですっ!」
そろそろ約束の時間ギリギリである。二人は急ぎ足で一丁目方面に歩き出した。
「事前に打ち合わせできなかったから、歩きながら今日の訪問のポイントを確認するぞ」
「はい!」
真田たちの会社は『如月コンサルティング』、社名のとおり企業に対して経営に関するコンサルテーションを行う会社だ。社長の顔が広いおかげで仕事はいくらでもある。
この日訪問するスーパージェット社は社長の大学時代の同期が起こした会社で、如月コンサルとは取引を始めてもう十年になるらしい。とはいえ真田が担当になったのはつい半年前、前任者の山崎が退職した時に引き継いでからまだそれほど日は経っていない。