第31話 現実を受け止めきれないのはわかるけど
◇
——ある日を境に、隣の部屋からおかしな気配がするようになった。
おかしな気配、といっても、初めて感じるものではない。しかし、ここに来てからはひさしぶりの感覚だった。
はじめは、何かの間違いかとも思ったが、それは日に日に薄れていくことはあっても、確かに存在感をアピールしていた。
よもや、今まで隠していたというわけではあるまい。それくらいなら、気づけないはずがないのだから。
これは間違いなく、こちら側の存在と邂逅した証だろう。
何かが動いているのだとすれば、彼にも知らせなければならない。
「……早急に、調査をするべき」
小さく呟いて、少女は閉じていた目をゆっくりと開いた。
銀色の瞳が、静かな光を帯びた。
◇
「ありがとうございましたー」
牙人は、深々と頭を下げて客の背中を見送った。
八月二十八日、夜。
函南のファミレスは、それなりの賑わいを見せていた。
レジ打ちを終えた牙人は、頭を上げてからぐぐっと伸びをした。
「はあ……」
自然と、ため息が漏れる。
あれから、栞とは連絡を取っていない。メッセージアプリでも何度か「ごめん」とか「今度また会いに行っていいか」とか打ってはみたものの、結局送信ボタンは押せなかった。
それに、思い返されるのは、一昨日の渉との会話だ。
——こんな僕の力を必要だと言ってくれた、この隊のみんなが、ピンチだったのに。僕は、何もできなくて。
悔しかったのは、自分に憤りを、無力感を感じているのは、何も牙人だけではない。当たり前のことのはずなのに、渉の言葉で初めてそれをわかった。
「結局、自分のことばっかだな、俺……」
あの時と、何も変わっていやしない。
そう考えると、やはり落ち込んだ気分が押し出され、口からあふれてしまうのだった。
牙人がバイトを上がったのは、二十一時十五分頃。客の入りがよくて、予定通りには上がれなかった。
ゆっくりと着替えて外に出た牙人は、見知った顔を見かけて立ち止まる。
「よっ」
「お疲れさまです、宗像さん」
片手を挙げて短めの挨拶をしてきたのは、明日香だ。
今日はあまり話していなかったが、同じ時間帯にシフトを入れていたはずだ。
「誰か待ってるんですか?」
「うん」
自分が出てきた扉を振り返りながら尋ねた牙人に、こくりとうなずく明日香。
「そうですか。じゃ、また」
なんとなく、あまり人と話す気分ではない。
横を通り過ぎようとした牙人の足は、すぐに止まることになった。
「……なんですか?」
自身の腕をつかむネイル入りの手を見て、牙人が眉をひそめた。
「いいからいいから」
「いや、よくないんですけど」
「まあまあそう言わず」
明日香の不自然な様子に、牙人はますます困惑を強める。
「ちょっと付き合ってほしいんだけど」
「はあ」
こういうのが愛の告白のことではないことは、この前の経験で学んだ。
「宗像さんが人を待つのに付き合わせないでくださいよ」
「んー、もう待ち人は来てるんだけど」
「は?」
ちょいちょい、と牙人の鼻先に人差し指を向ける明日香。
「え、俺?」
「うん」
牙人を待っていた、ということであれば話は変わってくる。どうやら、他人事ではいられなくなってしまったようだ。
これは、もしかすると告白の線だろうか。
疲弊した頭にぼんやり浮かんだ馬鹿な考えを、牙人はぶんぶんと首を振って消し去った。嫌な予感を告げる本能に気のせいだと言い聞かせて、牙人はため息をついた。
「……ご用件は何でしょうか」
「——ぷはぁ~っ!」
口から離したジョッキを手に持ったまま、明日香は唇の周りについた泡をぺろりと舐め取った。
「今日も酒がうまい!」
たはー、と笑いながらジョッキを置くと、明日香がいそいそと枝豆を剥き始める。
牙人も、よく冷えたレモンサワーをちびちびと口に含んだ。
結局、明日香に引っ張られるままに入店した、居酒屋のテーブル。
くたびれた中年のサラリーマンや、誰かの愚痴で盛り上がる若い女性の集団、高らかに乾杯をする大学生と思しきグループなどなど。夜の居酒屋にはいろいろな人々が集まっていた。汗だくの店員が、忙しなく行ったり来たりしている。
「後輩くんもどんどん飲んでいいよ! 今日はあたしのおごりね」
「そりゃどうも」
上機嫌にジョッキを煽った明日香が、ごくごくと喉を鳴らしてビールを流し込んでいく。
なんだかやけに太っ腹だ。特に誕生日とかでもないのだが。しかし、もらっておけるものはもらっておくことにするのがいいだろう。
「……それで、なんで俺を誘ったんですか?」
「またまた~、とぼけないでよ」
「……」
すっかりできあがった明日香が、頬杖をつきながら意味深な視線を向けてくる。
「もー、後輩くんがいつになく死にそうな顔してるから、こうして優しい先輩が飲みに誘ってあげたんじゃんよぉ」
「それは……ありがとうございます」
少しばつが悪くなって、牙人は目を逸らした。
なんとなく、そんな気はしていた。だから、断りづらかったということもある。
それにしても、やはり、自分で思っているよりも顔に出やすいのだろうか。手で頬をむにむにと揉んでみるが、よくわからない。よくわからないので、諦めることにした。
「ま、失恋なんて飲んで忘れようや!」
「そっすね。……ん?」
「ん?」
苦笑しながらうなずいてレモンサワーに口をつけた牙人は、はたとその動きを止めた。
んく、と飲み込んでから、首を傾げる。
「今、なんて?」
「まあ、現実を受け止めきれないのはわかるけどさあ」
「ではなく!」
思わず大声を出した牙人に、明日香が「わっとと」と言いながらジョッキを落としそうになる。恨めしそうに見てくるが、そんな場合ではない。
何か、おかしな誤解をされている気がする。
「その、失恋というのは何ですか」
「あたしの予想だと栞ちゃんの方かなー。ガード硬そうだし、手ごわそうだったもんね」
「は」
話が見えない。混乱する牙人を不思議そうに見つめながら、明日香がきょとんと首を傾げた。
「だから、前に占いのときに来てた、栞ちゃんと千春ちゃんだっけ。どっちか知らないけど、フラれちゃったんでしょ?」
「いやいやいや」
急にすごいことを言い出した明日香を、食い気味で否定する。
「前にも言ったけど、あいつらとはそういう関係じゃないですよ」
「え~、ほんとに?」
「ほんとです」
「まじ?」
「まじです」
「……」
「……」
しばらく無言の見つめ合いが続いた後、明日香は崩れ落ちるようにテーブルに突っ伏した。
「なんだよ~、酒の肴になるかもと思って連れてきたのに……」
「本音漏れてますよー」
ジト目で牙人が言うが、明日香はどこ吹く風である。
不満げに口をとがらせながら、「これだから最近の若者は……」とか言いながら、明日香がジョッキに残った最後の一滴まで飲み干した。
つまらなそうにジョッキの底を見つめていた目を牙人に向けて、明日香が「じゃあさ」と再び話しかけてくる。
「しょうがないから、つまみになりそうな面白い話してよ」
「鬼のフリ来たなあ!」
「これじゃあ連れてきた甲斐がないよー」
「んな勝手な……」
突然そんなことを言われてテンパったのか、あるいは牙人も結構酒が回っていたのか。もしくは、その両方だったのかもしれない。牙人は、少し考えてから、ふと口を開いた。
「最近の話で言うと、その寺崎と喧嘩……というか、怒らせてしまったというか……」
「……詳しく」
明日香が、興味深そうに目を光らせた。それを見て、話し始めたことを若干後悔する。しかし、ここで「やっぱりなし」といえるような感じでもない。これは、獲物を見つけた肉食動物の目だ。
「店員さん、おかわり!」
「よろこんで!」
やはり、本物の居酒屋店員は声の張りが違う。
そうして迅速に運ばれてきたビールに舌なめずりをして、明日香はずいっと身を乗り出した。
「——さて、お姉さんに話してごらん?」
楽しそうに目を細めた明日香を前に、牙人は引きつった笑みを浮かべた。




