第28話 訪問者
「痛っつつ……」
寝ざめは、お世辞にもいいとはいえなかった。
牙人は、かすかに痛む頭に手を当てながら、上体を起こした。体を支えるために床についた手が、何か硬いものに触れて、からん、と音が鳴る。
目覚めた場所は布団の上ではなく、床だった。半開きの目で視線を周囲にさまよわせると、いくつもの空き缶が転がって、酷い有様だ。
灯りはつけっぱなし。体が汗でべとついて、非常に不快だ。
「あー……」
だんだんと、頭がはっきりとしてくる。
栞の病室を訪ねた昨日の帰り道。雨宿りのために駆け込んだコンビニで、大量に酒を買った。帰宅後、すぐに缶ビールを喉に流し込んだのは覚えている。それから、何本の缶を開けたかは思い出せなかった。
酒には強い方だと自負している牙人だが、昨晩はさすがに飲みすぎた。頭痛がするわけだ。
それでも、吐き気やめまいはあまりない。普通に歩いたりする分には問題ないだろう。
立ち上がった牙人は、ふらふらと流しへ。コップを鷲掴むと、蛇口をひねって半分くらいまで水を入れた。飲み干して一息つくと、少しだけ、頭痛がましになった気がした。
とりあえず、衣服一式を脱いでかごへ。洗濯機を回すのは、あとでいいだろう。
適当に選んだ白いTシャツを頭からかぶり、袖を通す。それだけで、いくらか不快感は消えた。
散らかった床からスマホを発掘し、待ち受け画面を呼び出す。八月二十六日、午前九時。
幸いにも、今日はシフトがない。特にやることもなく、完全な休日だ。
「こういう時は、二度寝に限るな」
あくびをしてから、崩れるようにベッドに倒れ込む。
目を閉じて、意識を暗闇へと堕として……。
——教えてくれ……。私は、どうしたらよかった……?
——何もわからないくせに、無責任なことを言うな!
「……」
雨だれが、ビニール傘の表面を伝って、落ちていく。
豆をばらまくように降る大粒の雫が、ぱらぱらと音を立てた。踏み出した右足が、ぱしゃりと水たまりを踏みつける。
外出を、軽く後悔する。しかし、家でじっとしていると、昨日栞に言われたことがBGMのように脳内で流れ始めるのだ。気が滅入ることこの上ない。
こういう時は、気分転換に限る。そう思って外に出たはいいものの、この天気の中を歩き回っても、気分が晴れる気はしない。
気温は、いくらかましな方だ。その分湿度が高くて、じめっとしている。菌類が声を上げて喜びそうなほどである。
下を向きながら無心で足を動かして、何分経っただろうか。見覚えのある風景が視界の端に映って、牙人はゆっくりと顔を上げた。
傘を傾けて見上げれば、二階建ての建物が鎮座している。
「事務所……」
呟いて、牙人はしばらく呆けたように立ち尽くしていた。
無意識に足先が向くくらいには、この場所が牙人にとって当たり前のものになりつつあるのかもしれない。
「ま、ここまで来たからには、顔くらいは出しておくか……」
独り言ちて、牙人はゆっくりと階段を上がり始めた。
小さな雨よけのついたところまで行くと、くるくると傘をたたむ。ふと、左の肩が濡れていることに気づいた。傘からはみ出ていることに気がつかないまま歩いてきたらしい。
扉のすぐそばにある錆びついた傘立てに、ビニール傘を差し込む。牙人の傘の他に、二本の先客があった。一つは淡い赤、もう一つは牙人と同じような透明のビニール傘だ。
ドアを開けて、短い廊下を進む。途中、会議室からは気配がしなかった。いつも通り、奥の事務室にいるようだ。
「あー! 人狼くんだ!」
傘の主は、はたして千春と渉だった。
ぶんぶんと手を振る千春と対照的に、渉は「どうも」と小さく会釈をした。
「お前らはいつも事務所にいるのな」
「ふはは! エースたるもの、いつでも出動できるようにしておくものなのだよ!」
相変わらずの高すぎるテンションで、千春がびしっとポーズを決める。
一応、それなりの理由はあるらしい。
先日の戦闘で見たように、千春はとてつもなく強い。正直、牙人も勝てないと思う。
そんな人材が常にスタンバイしているというのは、エースとしての責任からのものということか。
「涼しいし、すぐ下は喫茶店だし~」
「おい」
あっけらかんと言った千春に、ツッコミを入れる。
少し尊敬した気持ちを返してほしい。
「ねー、わたるん」
「便利、ですよね」
「そゆことー!」
眉を八の字にして笑う渉に満足したように、千春が万歳の姿勢を取る。クマの威嚇だろうか。
「隊長と浅沼さんは?」
「表の方の仕事だってー。なんか地区の集まり? みたいな」
「あー」
異能力組織も、地域のつながりにはしっかり参加しているらしい。表向きの「万事屋」として、そういうのも大切なのだろう。妙にシュールだ。
「……で」
声のトーンは変えず、しかしまとう雰囲気を少し変えて、千春が何を考えているかわからない流し目を向けてくる。牙人が、ごくりと喉を鳴らす。
「栞と喧嘩したんだってー?」
「……喧嘩っていうのか? あれは」
溜息とともに漏れた声が、かすれた。
千春が知っていることには、あまり驚かなかった。当然といえば当然だ。栞と千春は、ただの同僚以上に仲がいい。たとえば、見舞いに来た後輩と言い合いになった、なんてことを相談するくらいには。
牙人の問いかけに、千春は「さあー?」と体ごと傾いた。
「後半は、一方的にボコされてノックアウト状態だぞ」
「どんまいだよ!」
いつもの調子で言ってから、千春はなんでもないことかのようにからからと笑ってみせた。
「……狼谷さん、酷い顔してますよ」
こちらは牙人を心配するように、渉が眉を下げながら言った。
思わず、顔に手をやった。そんなに表情に出ていただろうか。
「そーそー、いつも死んだ目してるけど、今日はゾンビかと思ったよ!」
「……昨日、少し飲みすぎたからな」
自分で言っておいて、それだけじゃないことはわかっていた。
出会って一月も経っていないというのに、栞と仲たがいしたことで、こんなにも落ち込んでいる。これは、どうしたことだろうか。
いつの間にか、栞の……この事務所の存在は、牙人の中で大きくなっていたのだ。
「栞も、言いすぎたって落ち込んでたよ?」
「いや……悪いのは、俺だから」
「まあ、それはそうだねー」
「……」
あっさり肯定されると、それはそれで複雑だ。が、否定できないことは、牙人自身もよくわかっている。
「ちゃんと謝りなよー?」
「……うす」
牙人は、下を向きながら小さくうなずいた。
——ぴんぽーん。
突然チャイムの音がして、三人は顔を見合わせた。
「依頼人かなー? はいはーい!」
飛び出すようにドアを開けにいった千春の背中を見送る。
謝る、と言っても、どう謝ればいいというのだろうか。
だいたい、何を謝るのか。復讐を否定したこと。八つ当たりで責め立てたこと。何も言えなかったこと。
頭には、いくらでも浮かんでくる。
だけど、そのどれもが、表面だけの薄っぺらいものになってしまう気がしてならなかった。
「わからん……」
牙人は、天井を見上げてしかめ面で呟いた。
その時、事務室の扉が、音を立てて勢いよく開け放たれた。
隣の渉の喉が、ひゅ、と鳴る。
「や、遊びに来たよ」
片手を挙げて、人の好さそうな笑みを浮かべるのは、すらっとした高身長の男。着崩したワイシャツに、金メッシュの入ったふわふわの黒髪がよく映える。
年齢は、二十代後半くらいだろうか。
「えっと……誰?」
「む」
思わず素で尋ねてしまった牙人に、男は怪訝そうな顔を向けた。
「僕のことを知らないってことは、君は新人かな」
「はあ」
「せっかくだから自己紹介をしておこうか」
男は、咳払いをしてから牙人に目を合わせて微笑んだ。
「僕は、五十嵐傑。“国家特殊現象対策管理局”の第一隊長だよ」
「……!」
思ったより、すごそうな肩書きである。隊長ということは、有悟と同じ階級……いや、「第一隊長」というのは、あるいはそれ以上の……。
有悟よりだいぶ若く見える。ということは、それ相応の実力があるということだろうか。
——というか。
「え? 五十嵐って……」
聞き覚えのある名字に、横を見る。
渉は、睨むような、そして怯えるような目をしていた。
「兄さん……」




