第27話 俺は、何も
——何も、できなかった。
有悟の連絡で駆け付けた“局”の職員たちが黒服たちと“異能力暴走剤”を回収していく様を見ている時も、病院で治療を受けている時も……。
牙人の頭の中では、ずっとその言葉がぐるぐると回っていた。
ドラゴンと対峙してから四日が経った。あの時襲われた謎の倦怠感も消えて、しっかりとした足取りで歩いていける。それでも、その自責の念はいまだじくじくと牙人を苛んでいた。
驕っていた。そんなつもりはなかった。けれど、そうかもしれない。巻き込まれて、実際に異能力者と戦って、自分ならば……“ウルファング”ならなんとかなるだろう、と。
しかし現実として、文字通りに膝をつかされた。「守らなければいけない」という密かな誓いも、目の前で栞の体とともに軽く吹き飛ばされてしまったのだ。
「いや、そもそも、『守らなければ』とか何様なんだよ……」
口の端から、ほとんど形だけの砂漠のような笑みが吐き出された。
道を踏み外し、悪に堕ちた身で、守ってやらなければなどどの口で言ったものか。それこそ、ヒーローごっこではないか。
「今更そんなことしたところで……」
——ヒーローになんて、なれるはずもないのに。
はじめは、正体を隠すための口から出まかせ。いつの間にか、本気にしてしまっていたのは牙人自身だったのだろうか。
ため息をついて、牙人は生気のない顔で目の前の建物を見上げた。
この辺りの地域で一番大きな病院。栞は、ここにいるらしい。
ベッドの背もたれに体を預けて窓の外を見つめていた栞が、引き戸の音にぴくりと身を震わせる。振り向いた顔は、牙人を見とめると微笑を浮かべた。
「なんだ、狼谷か」
「なんだとはなんだ。俺じゃ不満か?」
「そういうわけじゃないけど……」
ふふ、と困ったように笑う栞に、牙人は何かをこらえるように目を細めた。
「……調子はどうだ?」
「まだ、痛みが結構残ってるよ。自分で思っているよりも、動けないものだな」
自身の体に視線を落として、栞が深い息を吐いた。水色の患者服に身を包んだ栞の体にはあちこちに包帯が巻かれ、腕はギプスで固定されていた。
——栞は、腕の骨折や全身の打撲に切り傷など、もろもろで三週間の入院を余儀なくされた。完治はまだ先のことになるそうで、怪我の度合いで言えば交通事故に近いとのことだ。
「その花は?」
「ああ、これか? 昨日千春が持ってきてくれたんだ」
栞のベッド脇には、彩り鮮やかな花の入ったバスケットが置かれていた。
バスケットに手を添えた千春が、目じりを下げて微笑んだ。
「セロトニンのマスターがくれたらしい。今度、お礼に行かないとだ」
「へえ」
牙人は、空っぽな自身の両腕を体の後ろに回した。言われてみれば、見舞いの品など用意していなかった。
無力感に苛まれるばかりで、そんなことすら忘れてしまっていたのだ。
「よかったな」
中身のない牙人の言葉に、栞は「うん」とはにかんでみせた。
ふと、栞が真剣なまなざしを牙人へ向けた。
「その……」
「ん?」
「一人で突っ走ってしまって、本当にすまなかった」
栞は体の向きを変え、しおらしく頭を下げた。思わず面食らって、「ほあ」と変な声が出た。顔を上げてから、栞は再びまっすぐに牙人を見た。
「狼谷には、私があの時なんで取り乱したのか、詳しいことは話していないんだったな」
「あー……両親を殺された、んだよな?」
遠慮がちに訊いた牙人から少しだけ視線を外して、栞が静かにうなずいた。
「せっかくだから……というのもなんだが、狼谷にも話そう。別に隠すようなことでもないしな」
そう前置きをしてから、栞は深呼吸をして口を開いた。
「私の両親も、“局”に勤めていたんだ。父は能力者で、母はその補佐をしていた」
栞は、どこか遠い目をして、ひとつひとつ思い出すように言葉を紡いだ。
「そして、周郷——周郷博隆は、もともと父の同期で、一緒に仕事をしていた人だった。私も、幼い頃に何度か会ったことがあってな」
「それって……」
もとは“局”の人間で、今は“宵闇”。つまり、それが示すところは一つであろう。
「周郷は、“局”を裏切ったんだ。あいつは私の両親との仕事の最中に、二人を殺して消息を絶った」
まるで他人事のように、栞はかすれた声で、あまりにも淡々とその出来事を語った。
不気味なくらいに落ち着いている。しかしよく見ると、栞はギプスをしていない方の手を強く握り締めていた。
「ずっと、探していたんだ。会って、どうして父さんと母さんを殺したのか訊こうと思っていた……というのは建前だったのかもしれないな」
自嘲気味に笑って、どこか吹っ切れたように続ける。
「本当は……ずっとやつが憎かった。殺してやりたくて、仕方がなかった」
「……そうか」
「今も、変わらないよ。私はいつか、周郷をこの手で……」
吐き出されたどろどろとした憎悪と殺意が、病室の中をよどみとなって漂った。
どす黒い感情に染まった栞の瞳は、墨を垂らしたかのように真っ黒に濁っていた。目に前にいる牙人を見ているはずなのに、別の何かを見ているかのようだった。
牙人はそれになぜだか苛立ちを感じて、口の中で小さく呻いた。
栞の態度が、言葉が、無性に気に入らない。理由のわからない感情に体を突き動かされ、気づけば口を開いていた。
「——復讐なんて、するもんじゃないよ」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。
「家族の仇を討って、それで何か変わるのか?」
「それは……っ」
何かを言おうとした栞の口は、声にならない吐息だけを残して、行き場を失ったように閉じられた。引き結んだ口が、小刻みに震える。
その様子にさらに憤りを募らせて、牙人は堰を切ったように言葉をつないだ。
「あれさえなければ、ちゃんと守れたはずだったんだよ。俺は、もう二度と……」
違う、そんなことを言いたいのではない。わかってはいたが、あふれ出る言葉の奔流は止まらなかった。栞が、小さくなってうつむく。
「お前のせいで……っ」
それを言った瞬間、もう後に引くことはできなかった。
「俺は、何もできなかった……!」
「何それ……」
栞が息を呑むのが聞こえた。
そうだ。栞が考えなしに飛び出さなければ、牙人はもっとうまくやれたはずだ。やれたに違いない。あれさえなければ、栞を守るくらいはできたかもしれないのに。それなら、まだ自分を許せたのに……。
「私だって……」
ぽた、とシーツに染みが生まれた。体の熱が、すぅっと引いていく。
牙人は今、何を言っただろうか。発言を撤回する間もなく、栞はばっと顔を上げた。
「私だってわかっている! 仇討ちをして、それが何になるかなんて……何にもならないに決まっているだろう! そんなことはわかっている……わかっているさ……」
栞が、慟哭するように、喉の奥から激情を絞り出した。瞳いっぱいにためたガラス玉のような雫が、つつと頬を下っていく。
嗚咽まじりに、それでも明確な意思の塊が、牙人に真正面からぶつけられた。
「だけど、それなら……」
震える喉から息を押し出して、栞は片方の拳を力なくベッドの上に打ち下ろした。
「大切な人を殺された、この痛みは、憎しみは、どうしたらいいんだ? そんなにいけないことなのか?」
すがるように、栞が牙人を見上げる。迷いと怒りと悲しみがごちゃ混ぜになったような表情で、頬を流れる涙の川を隠すように拭った。
「教えてくれ……。私は、どうしたらよかった……?」
「……」
立場は、すっかり逆転していた。何かを言おうとして、だけど何も言えなくて、牙人は沈黙を選んだ。
正論は、何も意味をなさない。そのことを思い知らされて。いや、あるいはすでに知っていたはずのことだったのに。
「何もわからないくせに、無責任なことを言うな!」
牙人の喉がこわばって、またふつふつと苛立ちが湧いてきた。
栞の方こそ、何もわかっていない。なぜなら……。
「俺は……っ」
ぶちまけようとしたところで、牙人ははたと口をつぐんだ。
これを話せば、牙人の正体まで語らざるをえない。「悪の組織の怪人」という、過去を。
それを話せば、信用を失うだろうか。わからない。しかし、それがどうしようもなく怖いと思った。
「……」
「……もう、帰ってくれ」
何も言わない牙人に、窓の方を向いて肩を震わせながら、栞が渇いた声で言った。
「……ごめん」
やっと一言だけ絞り出して、牙人は逃げるように病室を去った。
——窓の外では、ぽつぽつ、ぽつぽつと、雨が降り始めていた。




