第10話 コンビニと山
先日のりこの説明によると、英司の家は高校から三十分ほど歩いたところにあるらしい。
道中の修善寺駅で、友の壁の半数以上は瓦解したが、英司はまだ三人の友人と一緒に歩いている。
おかげで、牙人と栞はいまだ声をかけることができないまま、彼らの後をつける羽目になっていた。
とにかく暑い。照り付ける日差しがアスファルトに反射して、じわじわと嬲るように首の後ろを灼く。
熱せられた空気は体中にまとわりついて、どうしようもない不快感を与えてきていた。
ついでに、彼らの中にどうやら昼飯でにんにくを食べた奴がいるらしく、強烈なにんにく臭がする。
まあ、牙人はにんにくは好きだ。餃子はにんにくたっぷり派である。
「あ、コンビニに入るみたいだな」
「ああ。……俺たちも寄ってくか?」
「ぜひとも、そうしよう」
「決まりだな」
数字の七がトレードマークのコンビニ。
元は営業時間を表す名前だったらしいが、現在の営業時間は店名とは関係がなくなっているとか、どこかで聞いた覚えがある。
英司たちが入ってから少し間をおいて、自動ドアの前に立つ。
「あー、生き返るー」
「……」
すぐにセンサーが反応して、開いたところから中の冷たい空気が流れだし、ふんわりと体を包む。
高い湿度の中で気化できずにいた汗が急速に冷やされて、牙人はぶるりと身を震わせた。
思わず声を漏らした牙人の横で、栞は静かに目を細めていた。
透明な玉のような汗が、栞の首筋をすうっと伝って鎖骨を流れていく。上気した頬で、「んっ……」と小さく息を漏らす姿は、なんだか妙に艶めかしかった。
「……」
「うん? どうしたんだ、何かを悟ったような顔をして」
「いや。……ただ、夏もいいもんだなと思っただけだよ」
「そうか……?」
訝しげにこちらを見てくる栞から逃れるように、牙とは視線を店内にさまよわせる。
「せっかくだし、何か買ってくか」
「仕事中だぞ」
「……とか言いながらも、視線はばっちり期間限定スイーツにロックオンされてる気がするなー」
「別に気になってなんていないぞ。狼谷は思い違いをしている」
栞は慌てた様子で目を逸らした。
「そもそも、尾行中にこんなとこに入ってる時点で、それは気にしなくていいと思うぞ」
「……それもそうだな」
スイーツの棚は、なんだかひときわ照明が明るくて、可愛らしいポップもあり、中でも「期間限定」の文字は目立っていた。
フレッシュな夏みかんと生クリームを、ふわふわの生地で挟んだどら焼き。やはり人気があるのか、棚に残っているのは二つだけだった。
牙人は、その二つを手に取ると、まっすぐレジに向かう。
税込二七六円なり。緑色の制服の店員に銀色の硬貨を三枚渡して、無事どら焼きを獲得。お釣りも忘れない。
「はいよ」
栞の元に戻ってきて、片方を差し出す。
すると、栞は何か言いたげな目をしてじっと見つめてきた。
「……気になっていたわけじゃないからな」
「なら余計なお世話だったか。二つとも俺がもらうぞ」
「ま、待って。……いらないとは言ってない」
引っ込めようとした左手から、獲物を見つけたカワセミのような俊敏な動きでどら焼きを奪い去っていく。
栞は大事そうに戦利品を両手で包み込むと、左手で前髪を梳きながら赤い頬を隠すようにそっぽを向いた。
そんなやり取りをしていると、それぞれがアイスを片手に、英司たちが出ていくのが見えた。
「やべ。追いかけるぞ」
「ああ」
「あ。あとで一三八円な」
「……台無しだよ」
やる気のなさそうな店員の「ありぁとうございぁしたー」という声を聞きながら、コンビニを後にする。
外に出た瞬間、再び熱気に包まれて、汗が噴き出した。
隣を見ると、栞は早くも袋を開けて、どら焼きにかぶりついていた。
「うん、おいしい」
とご満悦だ。
「寺崎って甘いもの好きなのか?」
ふと気になって尋ねると、栞はどこか不満げなまなざしを向けてくる。
「今、似合わないって思ったでしょ」
「意外だとは思ったな」
「言っておくが、私だって、普通の女子大生だからな」
「普通、ねえ……」
果たして、世は能力者を「普通」と呼称するのだろうか。
そう思ったが、言うのも野暮なので口には出さないでおく。
結局、英司が一人になったのは、それから五分ほど経ったころだった。
彼の友人たちが曲がり角に消えていったのを確認して、栞と牙人は静かに息をついた。
「ようやくだな。もう家に着きそうなんだが」
英司だけになってわかったのだが、あのにんにく臭は彼のもののようだ。
学校でにんにくを食べるとは、よほどのにんにく好きなのだろうか。
「今のうちに声をかけるぞ。……ん?」
小走りで距離を詰めようとして、栞がふと足を止める。
「どうした?」
「いや、今の道を曲がらないと、遠回りになるはずなんだけど……」
英司はその角では曲がらずに、一直線に歩みを進めていく。
家への道であるはずの方向には、一切目もくれずに……。
「この暑いのに寄り道か?」
「うん。怪しいな……」
「……」
「……」
二人は視線を交わして小さくうなずくと、尾行を再開した。
「山だね」
「山だな」
英司は迷いのない足取りで、深い緑の中に繰り出していく。
蒸し暑い空気に乗せて、土と緑の生命の香りが立ち込める。
嫌になるほど近くにある蝉の声が、潮騒のように耳の奥で鳴り響いていた。
丘と言っても差し支えないような低い山に、一本の道がうねるように続いていた。
周囲には人影もなく、今英司が歩んでいった道も、頻繁に使われた形跡が感じられないほどに見つけにくいものだった。
「どうしよう。さすがに山の中まで真後ろを歩くとばれるぞ」
「ああ、それなら」
牙人は、右の人差し指で鼻の頭を指し示した。
「俺は常人よりも鼻が利くからな。あいつからにんにくのにおいがするから、少し離れていても追えると思う」
そう言うと、なぜだか栞がすぅーっと遠ざかっていく。
「なぜ、逃げる」
「なんだか、においがどうとか気持ちの悪いことを言うから」
「それが有能な後輩にかける言葉か?」
「……それに、今私は汗臭いだろうし」
栞が小声でぼそりとそう付け足した。
「実は俺、耳もよくてな」
「なっ!? もしかして聞こえて……」
「大丈夫だ。むしろいいにおいがする」
「……」
赤面していたのが、見る間に怜悧な目に変わっていく。
心なしか、少し涼しくなった気がするのは気のせいだろうか。
「狼谷」
「はい」
「今のは本当に気持ち悪いぞ」
「すみません」
「本当にこっちで合ってるのか?」
「合ってるよ。そろそろにおいが濃くなってきたから、この辺りに……あ、いた」
にんにく臭を辿ること約五分。
山道は少し開けた場所に出て、木の陰から英司の姿をうかがうことができた。
木陰の隙間から漏れる光が、時折目に触れては眩さを残していく。
「こんなところに何しに来たんだ?」
「……何となく予想はつくけど」
「ま、そうだなー」
古今東西、ありとあらゆる異能力モノのストーリーで、新しく不思議な力に目覚めた人間が、ほとんど必ずと言っていいほどやるであろうこと……。
牙人たちの視線の先で、英司がパーの形にした両手を体の正面に掲げる。
「ふんっ!」
気合を入れるためか、そんな掛け声を上げると。
拳より少し大きめの石が、ふわり、と宙に浮かんだ。
——そう、異能力の特訓だ。