うちの両親は仲が良い
うちの両親は仲が良い。
いつだって両親は楽しそうに何か話しているし、娘も交えて並んでテレビを眺める事もある。高校二年生の娘を溺愛してくれている両親は、同級生の親よりも比較的若い。
母は今年で四十歳。父は四十二歳。
そこそこ良い歳というやつなのに、両親はいつまで経っても仲の良いカップルに見えた。
「おはよう梓。さっきお母さんとすれ違ったよ」
「おはよ。お母さんまた立ち漕ぎ?」
「そうそう。おはよー!って挨拶しながら爆走してた」
学校の教室で、いつも通り仲良しのクラスメイトと挨拶をする。
電車通学の友人は、学校の最寄り駅のすぐ傍で母とすれ違う事が多いらしい。何度か家に呼んで遊んでいたせいか、母は彼女の事を「仲良しの茜ちゃん」として認識しているようで、顔も名前も覚えているせいか、すれ違う度におはよう、気を付けて行くのよなんて軽く会話までしているらしい。
恥ずかしいからやめてくれと思っていたのは初めの頃だけ。一緒に家で勉強をしていれば、ちょっと休憩したら?と飲み物やおやつを持って来てすぐに部屋から出て行ってくれる。距離感が丁度良いのか、それとも母が面白いのか、茜は梓の母を気に入っている。
「ていうか聞いてよー。うちの親夜中マジ喧嘩しててさ」
「今度はどうしたの…」
茜の両親はよく喧嘩をするらしい。娘に聞かれているのだから気にしろ気を使えと散々愚痴を聞かされているのだが、その理由自体は本当にくだらない事ばかりだった。
「今回なんかほんっとにくだらない。残業して帰って来たお父さんが、晩御飯の食器洗わないで風呂行ったらしくてさあ」
「あー。洗えって怒ったのね」
「そう。ちょっとだけなんだから洗えよって思うけど、母さんも母さんで最初から大噴火すんなっつー」
言い方ってあるよね。そう苦笑いをする梓に、茜は「本当それ」と呆れたような溜息を吐く。
「こんなしょっちゅう喧嘩するくらいなら別れれば良いじゃんとか思うけど、なんだかんだ離婚しないんだよね」
「喧嘩の内容的にも、離婚する程では無いんじゃない?」
「でも父さん仕事するだけで、家の中の事何もしないんだよ?私だったら絶対無理」
結婚なんてまだまだ先の話。女子高生なのだから、恋愛はそれなりに楽しむ程度で、重きを置くのは勉強だ。長い人生の中で短い青春というやつ。その期間で一番身近なところにいる「夫婦」というのは、自分の両親たちだろう。
いつか両親のような夫婦になれる人と出会いたいなと想像してみたり、絶対あんな風にはなりたくないと思うなり、感じ方はそれぞれだろう。
実際に茜の両親の喧嘩を見た事は無いし、話を聞いているだけではあるが、出来ればそんなにしょっちゅう喧嘩をするような夫婦にはなりたくないなとぼんやり思う。
「梓の親って喧嘩する?」
「見た事は無い…かな。たまに真夜中まで何か話してるのは聞こえるけど、何話してるのかまでは分かんないや」
梓の知っている両親は、いつだって仲良く話していて、結婚してから二十年近い筈なのに未だに同じベッドで眠っている。
時々やけにめかし込んでいるなと思えば、帰りは遅くなるから何かデリバリーしてねとお小遣いを娘に渡して、行ってきますと二人で仲良く手を繋いでデートに行ったりする。
「ほんっと仲良いんだ」
「バカップルだよ」
行ってきますのキスは当たり前。父が帰ってくると、母は何をしていても嬉しそうな顔をしながらいそいそと玄関まで出迎えに行く。幼い頃は梓も一緒になって見送りや出迎えをしたものだが、子供が行きたがるから付き合うというわけではなくて、母がやりたくてやっているのだと知ったのは、梓が小学校に上がって見送りも出迎えもしなくなった頃だった。
「仲良いって言うか…母さんが父さんの事大好きなんだよね。父さんはそんなになんだけど」
「えーめっちゃ良いじゃん。私もそんな風に思える人と結婚したーい。うちの両親なんで結婚したんだろ?」
羨ましい!と天井を仰いだ茜に、梓はどう返事をしたら良いのか分からない。
梓にとって、母が父の事が大好きである事は当たり前で普通の事であって、羨ましいと思うような事ではないからだ。
「そうだ!今日梓んち遊び行っても良い?」
「良いけど…何か勉強でもすんの?」
「ううん、お母さんと話したい」
「意味わかんないんだけど…」
「良いじゃん。大先輩から恋バナ聞きたいんだよねー」
これは面倒くさい事になるぞ。
どうにかして放課後までに理由を付けて今日は駄目だと断ろうと考えたタイミングで、朝のHRを告げるチャイムが高らかに響く。
あれだけ仲の良い両親の馴れ初め。
絶対に長くなるであろう居心地の悪そうな女子会を回避する前に、苦手な数学の授業をどう乗り切るかの方が重大な問題だった。
◆◆◆
今日は残業でもしてきてくれますように!
そう願っても、パートタイマ―である母は残業何て滅多にしない。繁忙期でもない今の時期、母はきっちり定時に上がって、スーパーで買い物をして帰ってくる。梓が茜と共に帰宅すると、おかえりと玄関に顔を覗かせて微笑んでいた。
「あら茜ちゃん、いらっしゃーい」
「おばさんこんにちは!お邪魔しまーす」
「はいどうぞー。お勉強?何か飲む?」
家事でもしていたのか、母はエプロン姿のまま茜に問いかける。ジュースなんかあったかしら?と冷蔵庫の中身を思い出そうとしているらしいのだが、茜はさっさと靴を脱ぐと母に向かって両手を合わせた。
「おばさん、リビングで女子会させて!」
「女子会?」
何を言っているんだと目を瞬かせた母は、茜の後ろで頭を抱えている娘に視線を向ける。どう事情を説明したら良いのか分からないが、可愛がっている茜の頼みならばと、母は快く茜をリビングに通した。
「おばちゃんが華の女子高生と女子会かあ…混ざれるかしら?」
「人生の先輩の経験談を聞きたくて」
「ええ?学歴も職歴も無いから、あまり大層なアドバイスは出来ないと思うけど…」
取り敢えず何か摘まめるものを用意するからと言って、母はキッチンへと消えて行く。その隙に娘二人は手を洗ったり鞄や制服のジャケットを置いて待機するのだが、本当に聞くつもりなのかと梓は茜をじとりと睨んだ。
その視線を全く気にすることなく、茜はダイニングテーブルの一席を陣取ってにやにやと口元を緩ませていた。
「大したもの無かったわー。それで、何か悩み事?」
「悩みって言うか…ちょっと聞いてみたいなってだけなんですけど」
そう前置きをして、茜はふんふんと鼻息荒く向かい側に座った母に向かって身を乗り出す。
僅かに母は引いたようだが、何かな?と小首を傾げた。茜の隣に座った梓は、心底自室に引き籠りたい。
「おばさんとおじさんの馴れ初めってどんなだったんですか!」
「え…っと?」
「梓から両親仲良い話ばっかり聞いててー。うちの両親いつも喧嘩してるから、仲良し夫婦の馴れ初めってどんなだったのかな?と思って」
いたたまれない。
母からの驚いたような視線が突き刺さって痛い。気まずさを飲み込むように、梓は出された麦茶をぐびりと飲んだ。
「馴れ初めねぇ…私が圭一さんに一目惚れしてストーカーしたのよ」
「ぶっ」
母の言葉に吹き出した梓は、そのままゲホゲホと噎せ込む。その背中を茜が摩ってくれるのだが、両親の出会いがそんなだったなんて知らなかった。
「その当時、結構しんどい所で働いててね。実家から通っていたんだけれど、近所のコンビニで夕飯を買って帰るのが日課だったの。そこに居たのが圭一さん」
「えー!少女漫画みたい!どうやって仲良くなったんですか?」
「圭一さん目当てでほぼ毎日通っていたから、そのうちなんとなーく話す様になってね。連絡先交換してもらって、時々連絡取り合ってたの」
恥ずかしそうに笑う母は、遠い昔の記憶を懐かしむ。
漸く落ち着いた梓は、初めて聞く両親の馴れ初めを聞く気まずさと、ほんの少しの好奇心の間で感情が迷子になっていた。
「じゃあそのままお付き合いーとか?」
素敵!と目を輝かせる茜に、母は小さく首を振った。
「その時はお付き合いとかにはならなかったの。圭一さんそのお店辞めちゃってね。接点はそのコンビニだけだったから、連絡も取らなくなって、お互いお付き合いする人もいたから…」
「逆にどうやって結婚までいったんです…?」
友人よ、現実は少女漫画とは違うんだ。
そう言いたいが、既に茜は母の話に夢中だ。聞いていて何が面白いんだと文句を言ったらこの話は終わるのだろうか。
「転職して、仕事前に煙草が欲しくて圭一さんのいたコンビニに寄ったのよ。そしたらたまたま隣に停まった車が圭一さんでね。その時は急いでたから会話も殆どしなかったんだけど、また連絡するようになって、デートしてお付き合いして…っていうあんまり面白くもない話よ」
はい御終い。
そう言うと、母は照れ臭そうな顔をしながら自分の前に置いていた麦茶を飲んだ。
「言うほどストーカーじゃなくない?」
「圭一さん目当てで買うもの無いのに毎日コンビニ行って、会計してほしくて店内何周も回る女はストーカーよ」
「きっつ」
「花田のおじちゃん覚えてる?あの人も同じ所で働いてて、私が来るとバックヤードに居る圭一さん呼ぶのに呼び出しボタン連打してたんだって」
けらけらと笑う母に、梓はドン引きした目を向ける。花田のおじちゃんには何度か会っている。父の友人だと聞いていたが、まさか母の奇行の被害を受けていただなんて。今度会う時どんな顔をすれば良いのだろう。
筋骨隆々、スキンヘッドのいかつい男性が縋るような気持ちでレジの呼び出しボタンを連打するところは少しだけ見てみたいが、今度会った時は「母がすみませんでした」と詫びよう。
娘の冷めきったそんな視線が嫌なのか、母は決して梓の方に視線を向けようとしなかった。
「ストーカーすれば、ずっと仲良し夫婦でいられるんですかね」
「いやそれは無いでしょう。ていうか、私たちは普通に喧嘩するよ?」
「あ、するんだ?」
「するわよー!梓が小さい頃なんかもう離婚する!ってアンタ連れてみーちゃんのとこに家出までしたんだから」
みーちゃんとは母の妹、梓から見た母方の叔母である。仲の良い姉妹だなあと思っているし、梓も叔母の事が大好きだ。
「離婚しなかった理由って聞いても良いですか…?」
「惚れた弱みかしらねぇ…お婆ちゃんになった時、隣に居てほしいのは圭一さんだなって思ったら帰ろうかなって思ったの」
何度も大きな喧嘩もしたし、幻滅もしたし本当に離婚しようと思った事もある。
そうしなかったのは、どうしても夫と生きたいと思ってしまったからなのだと、母は恥ずかしそうに言った。
「茜ちゃんの聞きたい事に答えられてたら良いんだけど」
「何か…何かめっちゃ良い話聞いた気分」
「そう?」
「因みに結婚してから一番嬉しかった事って何ですか?」
「出産の時立ち会ってくれた事かなあ…」
初めての出産、痛みはどんどん強くなるし、いつ終わるのかも分からない恐怖。生まれるまでずっと傍に居て、手を握ってくれていたのが嬉しかったと、母は言った。
この話は梓も聞いた事がある。ドラマで出産シーンが流れた時、懐かしそうに話してくれたのだ。
「二人もいつか出産する時が来たら立ち合いしてもらいなさい。とっても心強かったから」
そう言った母の顔は穏やかだ。
十七年も前の出来事なのに、生まれた瞬間の事は昨日の事のように思い出せるらしい。娘の前で言うのは恥ずかしいが、生まれたての小さくて重たい宝物はいつまで経っても宝物のままなのだと続けると、茜はもっと聞きたいと、他にも何かエピソードは無いのかと身を乗り出した。
いつまでこの時間が続くのだろう。
気恥ずかしい思いをしながら、梓は母の思い出話を聞き続けた。
◆◆◆
うちの両親は仲が良い。
帰宅した父が一人で晩御飯を食べている向かい側に座った母は、ニコニコしながら茜が来た話をしていた。
懐かしい話を沢山した。
嬉しかった事を沢山思い出して楽しかっただの、あれこれ話し続ける母に、父は時々笑いながら話を聞き続けた。
「ねー。お母さんって本当お父さん大好きだよね」
「当たり前でしょー?お父さんはね、私を幸せにしてくれた人なんだから」
そう笑った母の向こうで、父は「娘に何言ってるんだ」と眉を潜めた。
「もしお父さんが死んじゃったらお母さん死にそう」
「遺骨食べるって決めてるから!」
「発がん性物質なんだからやめなさい」
「ゆるやかな自殺よーん。嫌なら私より長生きしてね」
「多分無理」
ぽんぽん出てくる少々気持ちの悪い言葉に、父は少々冷たい返事をする。
いつか自分も、これだけ大好きだと思える人に出会えるのだろうか。ストーカー紛いの事をしてでも近付きたい。幸せにしてくれたからと、結婚してどれだけ時間が経ってもいつまでも好きだと言ってのけられるような人に。
「そこまで行くと気持ち悪いかも」
「何とでも言いなさいな。かっこよくて優しくて素敵な夫がいて、可愛い愛しい娘がいて、私は幸せなんだから」
「怖いわあ」
「ね」
夫と娘二人から気持ち悪い認定をされた母は煩く喚くが、梓は知っている。
結婚記念日や母の誕生日には、父は欠かさず花束を抱えて帰ってくる事を。母が落ち込んでいる時や、疲れている時にはちょっとしたお土産を持って帰り、遅くまで母の愚痴に付き合ったり励ましたりする事を。
「お父さんはお母さんの事好き?」
「…まあ」
「好きって言いなさいよそこは!」
母の突っ込みを聞きながら、梓はスマホに視線を落とす。
まだぎゃあぎゃあと喚いている母の声をBGMにしながら、梓はやり取りをしていた茜に向けてたぷたぷとメッセージを打ち込んだ。
「やっぱうちの両親気持ち悪いくらい仲良いわ」
いつまでこの下らないやり取りを続けるつもりなのだろう。聞きなれた両親の話声を聞きながら梓は大きな欠伸をした。
文章が書けなくなっているのでリハビリです。
半分事実、半分フィクションです。