〔3〕
私が一二美と知り合った切っ掛けは『サン・ベーカリー』だ。
『サン・ベーカリー』は私の自宅マンションから近いこともあり、母が頻繁に店を利用していた。
高校に入学して日の浅い、ある日曜日の午後。
たまたま母に頼まれ、私は朝食用の食パンとバターロールを買うため店を訪れた。
バターと、カスタード。チョコレートとバニラ。シナモンとアップルパイ用に煮たリンゴの甘酸っぱい香り。こんがり綺麗に焼き上がったパンが、西の窓から入る陽光でいっそう艶やかに美味しそうに見える時間。
美人で有名な看板娘、陽向さんを困り顔にさせている、ふわふわ髪の美少女。
それが、春風一二美だった。
六枚切り食パン一袋と五個入りバターロール二袋をトレーに乗せカウンターに並ぶと、私より幼く見える美少女は会計でもめているようだった。
「足りない分は次のご来店時でいいですよ?」
陽向さんの言葉に少女は譲らず、トレー上の菓子パンの中からどれを棚に戻すか悩んでいる。
早くしろ……ではなく私はつい、可愛いなと思った。
小学校高学年か中学生一年くらいの女の子が、おやつに迷っているのだ。ここは、お姉さんである私が助けてやるべきだろう。
「いくら足りないの? 私が出してあげる」
私の言葉に振り向いた少女の顔が、驚きから嬉しそうな笑顔になる。助け船に喜んだのかと思ったら、思いがけない言葉に私の方が驚かされた。
「あっ、綾波さん! 恥ずかしいとこ見られちゃいましたぁ。二組の春風です。二十円、貸してもらっていいですか? 明日学校で返しますぅ!」
後日、貸したお金を返しに来た一二美と仲良くなって一年が経つけど、あの時はまさか隣のクラスの同級生とは思わなかったな。
しかも彼氏の相談されるほど、陽向さんと親しくなっているなんて……。
泣いている陽向さんを目撃した翌日の日曜日。
「昨日のことで、相談がある」と呼び出され、部活のない午後に一二美の家を訪れた私は頼まれていた『ソレイユルヴァン』のバゲットとクロワッサンをリビングのテーブルに並べた。
「ところで、フーミンが考えたイイコトってどんなこと?」
一二美の家は戸建てで、オープンキッチン付きのリビングは広いしテーブルも大きい。
「んっふふふ……つまりぃ、フランスパンを使ったハムカツサンドで仲直り作戦なのだよ!」
「は? 意味わかんないんだけど?」
戸惑う私を尻目に、レモン色の可愛いエプロンをつけた一二美はバゲットを手にキッチンに立った。
ザクリと気持ち良い音を立て、パンナイフがバゲットを切り分けていく。
「スー子がヒントくれたんだぁ。フランスパンとお惣菜パンの良いところを合体させたら、二人を仲直りさせられるかもって」
一二美はバゲットの切り込みにハムカツを押し込んだものを皿に乗せ、私の前に置いた。
お世辞にも、美味しそうには見えない。
「ねぇ、試しに食べてみてよぅ!」
食事制限はしてるけど、パンや揚げ物を全く食べないわけじゃなかった。興味が無いだけだ。
一二美が頼むならと仕方なく、一口かじる。
「うーん……コッペパンや食パンは柔らかいから、ハムカツの衣の歯ごたえを美味しく感じるかもだけど、フランスパンの固さだと食べにくいし顎が疲れそうだなぁ」
「そっかぁ……そう簡単にはいかないかぁ。じゃぁ、クロワッサンに小倉餡とか、どう思う? 『サン・ベーカリー』のアンパンみたいに、生クリームも入れて……」
「ゴメン、試食は誰か他の人に頼んでくれる? 私、糖質制限してるから!」
思わず強い口調になってしまい、慌てて私は言い訳を探す。
「……っ、えっと、近い時期に記録会があって……そろそろ調整しなきゃいけないんだ。だから、あまり協力できないと思う。ゴメン……」
「あ、ううん、わたしの方こそスー子のこと考えずにテンション上げちゃってゴメンね……」
しょんぼりと肩を落とした一二美に、また胸が痛む。
「帰る……ね。ロードワークの時間なんだ」
「うん、頑張ってね」
なんとなく気まずくなった空気から逃げるように私は、一二美の家を後にした。
おかしいな……私、どうしちゃったんだろう?
日課のロードワーク中、グルグルと色々な考えが頭に浮かぶ。
一二美は大事な私の友達で、大好きなパンを幸せそうに食べている時の笑顔が最高に可愛くて、その笑顔が大好きで……。
陽向さんの前でも、あの笑顔でパンを食べるんだろうな。
そう考えたとき、また胸に何かが刺さった。
痛みの原因が思い当たって立ち止まる。
「はははっ、なんだ私……陽向さんに嫉妬してるのか」
陽向さんが相手なら、一二美も恋バナするのかな? パンの話題で盛り上がったりしそうだな。
寂しいような、苛つくような、悲しいような、嫌な気分。
だけど一番嫌なのは、陽向さんに嫉妬してる自分だ。
私は一二美の笑顔が好き。一二美が幸せそうに笑うなら、相手が誰だって……。
「私ってば、馬鹿みたい。他に友達いないから変な独占欲出ちゃうんだよ。私には大好きな陸上が……」
大好き?
大好きってなんだろう? いまの私、本当に走るのが好きなのかな?
創作パンの試食から逃げ出した後も、一二美は相変わらずお昼になると隣のクラスからやってきた。だけど会話は弾まず、沈黙が増えていった。
一週間もしないうちに一二美から笑顔が消え、居たたまれなくなった私は昼休みの自主練を理由に部室で昼食を取るようになった。
汗と土埃の匂いが充満した部室で食べるお弁当は、ますます食に対する興味を失わせる。いつしかそのお弁当も、半分くらいしか食べる事が出来なくなった。
そして迎えた記録会の日。
日差しを遮る物の無い秋晴れのグラウンドで準備運動をする私の体調は絶好調……とは言いがたく、なんだか体がフワフワ浮いているような気分だった。
「綾波さん、顔色悪いわね。大丈夫?」
短距離用トラックに向かう私に、田部井コーチが声を掛けてきた。
「大丈夫です。最近伸び悩みだったタイム、今日は更新して見せますよ」
笑顔で応えたけれど、なんだか胸がムカムカして喉が張り付くような感覚に声が擦れた。
ヤバいな、足下がしっかり……しない……。
「綾波さん? えっ、綾波さんっ!」
何度も私を呼ぶコーチの声が、どんどん小さくなる……。
真っ赤になった目の前に黒い幕が下りたと思った途端、何もわからなくなった。