〔2〕
中学で陸上を始めてから辛いと思ったこともある食事制限も、いまはもうすっかり慣れてしまった。
むしろ、食べ物に興味がなくなったのだ。
食事は単なるエネルギー補給。味も、香りも、どうでもいい。
いっそ、車にガソリンを入れるように補給できたらいいのに。
あぁ、でも注射は嫌だな。痛いから。飲むだけですむジュースとか、タブレットなら……。
「綾波さん? ストレッチするときは動かしている部分を意識して。いま、何か他のこと考えてたでしょう?」
名前を呼ばれて我に返ると、陸上部外部顧問の田部井コーチが私の顔を覗き込んでいた。
そうだ、いまは土曜日の午前練習終わりで整理体操してたんだ。
「すみません……」
まさか食事をしなくて良い方法を考えていたとは言えず、決まり悪さを取り繕い謝った私の肩を、元陸上選手だった田部井ゆかりコーチが優しく叩く。
「ねぇ、綾波さん。あなた少し、ダイエットしすぎじゃないかしら? 短距離選手にとって体重管理は大切だけど、あなた春から身長が3センチも伸びたでしょ。身長に合ったバランスで体重も増やしてカルシウムを補わないと、女性の陸上選手が陥りやすい骨粗しょう症になるのよ?」
三十代後半で、二人の子供を持つ女性コーチは母親の顔で私に注意した。
「……大丈夫です」
「ちょっと心配だから、一週間の食事を記録して提出してちょうだい。栄養面の不足を補うメニューを考えるわ」
「はい」
「それからもう一つ気になることがあるんだけど……まぁ、その事はまた後で話すわね」
「?」
面倒くさいな……。
部室で帰り仕度をしながら大きな溜息を吐く。
自分の食事は面倒くさい。だけど一二美が美味しそうにパンを頬張る姿を見ていると、幸せに思うのはなぜだろう?
一二美が食べているものなら、美味しそうに見えるのはなぜだろう?
あんなふうに、食事をしたいと思っているのかな? 一緒に同じものを食べてみたら、私も美味しいと思えるのかな?
でも、あの食べっぷりは私には無理だな。体重管理もあるし……。
ボンヤリ考えながら駅に向かっていると、途中にある『サン・ベーカリー』手前のマンション影に見覚えのある姿を見つけた。
「あれっフーミン、何してんの? 土曜日なのに、わざわざ『サン・ベーカリー』のパン買いに来たんだ?」
一二美の家は学校最寄り駅から二つ先だ。この店のパンのためだけに運動嫌いの一二美が自転車を漕いできたなら、大した根性……というか、食欲だと感心する。
「しっ! 静かにするのよぅ!」
私に気付いた一二美は指を立て、ぷっくりとした自分の唇に押し当ててから『サンベーカリー』に目配せした。
「えぇ……?」
視線の先は駐車場に面した勝手口だ。そのドアの前で、陽向さんが若い男の人と言い争っているように見えた。
マンションの陰に身を隠し、息を殺して十五分ほど経った頃。男の人は駐車場に止めてあった車に乗り込み去って行った。通りに出て遠ざかる車を見送っていた陽向さんは、急に顔を覆ってしゃがみ込む。
「フーミン、どうしよう。陽向さん、泣いてるみたいだよ?」
私が言い終わらないうちに一二美は駐車場を駆け抜けていった。私も慌てて後を追いかける。
いや、あれはどう見ても恋人との喧嘩でしょ?
私達、女子高生に慰められるような問題じゃ無いと思うけど……。
一二美の行動力に呆気にとられながら放っておくことも出来ず、駆け付けた私もエナメルバックから未使用のタオルを引っ張り出して陽向さんに渡した。
「あの……これ、綺麗なので使ってください」
すると一二美が「よくやった」と言わんばかりの顔で私に頷く。
なんだろう、この上から目線……。
「大丈夫ぅ? 陽向ちゃん。いまの人が浅倉さんでしょ? やっぱり、説得できなかったかぁ……」
「……って、陽向ちゃん呼び?」
年上の陽向さんを「陽向ちゃん」と呼ぶ一二美に驚いて、二人を見比べる私に陽向さんが笑った。
よかった、少し落ち着いたみたいだ。
「ありがとう、一二美ちゃん。それと……涼子ちゃん?」
陽向さんに名を呼ばれ、私は頷いた。多分、一二美から聞いているんだろうな。でも、いつの間に、そんなに仲良しになったんだろう?
胸に、何かがチクリと刺さる。
「二人のおかげで、元気が出たわ。お礼に、お茶とアップルパイを御馳走したいんだけれど、どうかしら?」
「喜んで!」
間髪を入れず一二美が応えたので、成り行き上、私もお誘いを受けることにした。
私達を勝手口から招き入れた陽向さんは、お会計カウンター後ろのパーティションで仕切られたカフェテーブルに、ティーカップとアップルパイを用意してくれた。
「お店が暇なとき、このテーブルでお昼を食べたりお茶を飲んだりしてるのよ。最近は一二美ちゃんが一緒にお茶してくれるから楽しいわ。今日は父が病院の日で夕方まで帰らないから、ゆっくりしていってね」
そう言って微笑んだ陽向さんは、目元がまだ赤く腫れていたけどヤッパリとても綺麗だった。
なんだよ、さっきの男は。陽向さんを泣かせるなんて最低だな。
込み上げる怒りを抑えながら、せめて腫れが引くまでお客さんが来ないように願う。
一二美を見れば、大好きなアップルパイに手も付けず、神妙な顔でティーカップを持ったまま動かない。
きっと、私と同じ気持ちなんだ。
「あ、そろそろオーブンの火入れ時間だわ。ちょっと失礼するわね」
楽しく雑談という雰囲気になれず、居心地の悪い無言の空間から陽向さんが席を外した。私と一二美の二人きりの方が気楽だろうと、気を遣ってくれたのかも知れない。
陽向さんが席を外した途端、一二美はアップルパイにガブリと食い付いた。
「さっきの男の人ねぇ、浅倉さんという人で陽向さんの彼氏なんだぁ……」
「あ、うん、そうかなって思ったけど……なんで喧嘩してたんだろうね?」
先ほど陽向さんに掛けた一二美の言葉から、理由を知っているのだろうと考えカマを掛ける。
一二美は難しい顔で「うーん……」と二度唸ってから紅茶を一口飲み、決意が決まったらしい。私の顔を真っ直ぐ見つめた。
「浅倉さんはねぇ、専門学校出てから二年、『サン・ベーカリー』店長の下でパン職人の勉強してたんだって。短大卒の陽向さんより二歳上で、修行始めてから一年過ぎた頃に付き合いだしたんだけど、この辺の環境が変わってから客層も変わって、陽向さんのお父さんである店長と意見が合わなくなってきたのよぅ。それで独立するって言って、店を出ちゃったの。いまは新しくできた駅ナカのベーカリー『ソレイユルヴァン』支店長なんだって」
「あぁ、あの焼きたてバゲットとクロワッサンで人気の店か」
「そうなのよぅ……この数年で昔からある家が買収されて、駅近マンションになっちゃたでしょ? そしたら惣菜パンとか菓子パンが売れなくなったんだって。浅倉さんがオシャレなドイツパンやフランスパンにもチャレンジしてバリエーション増やそうって言ったら、店長が怒っちゃって……」
確かにカレーパンやコロッケパン、メンチカツサンドは学生や社会人の昼ご飯として需要があるけど、オシャレなマンション住人の朝ご飯には似合わないかもなぁ……。チョココロネやクリームパンみたいな菓子パンも、子供のオヤツには少し重い。
「陽向さんは、いまでも浅倉さんと付き合ってるからロミジュリ的な板挟みになってるんだ?」
「ろみじゅり?」
一二美が目を数度瞬き、首をかしげる。私の好きなディカプリオ様の映画だけど通じないのか……まぁいいや。。
「つまり陽向さんのお父さんと浅倉さんが仲が悪いから、陽向さんが困ってるんでしょ? お父さんに遠慮して付き合ってる事を言えないのに、浅倉さんに一緒になろうと迫られてるとか?」
「えっ? なんでそこまでわかるのよぅ!」
解ります、定番ですから。
「そっかぁ……陽向さんのお父さんと浅倉さんが、お互い理解し合えると良いのにね。私は、たくさん食べなくても長く噛んで味が楽しめるフランスパン好きだけど、サンドイッチになると苦手な匂いのチーズやハムを挟んだ物が多くて値段も高いから『ソレイユルヴァン』には行かないな。『サン・ベーカリー』は逆に、お惣菜がメインでカロリーが気になっちゃう。パンの味と、お惣菜の味が半々だと良いのに……」
私の言葉が終わると同時に、一二美が勢いよく立ち上がった。カフェテーブルのティーカップがガチャンと鳴って、一瞬焦る。
「それだよスー子、イイコト考えた! 陽向さんのために絶対、二人を仲直りさせよう!」
イイコトって、ナニ?
呆気にとられる私をよそに、一二美はニコニコ笑っていた。