第34話 悪夢と安らぎ
ヘルトの風習で身に着けているベールで目元は隠されており、扇で口元も覆われていた。話しかけてきたマルティーナの表情はうかがい知れないが、明るい声色のはずなのに、彼女が口を開く度に、その声に冷ややかな何かを感じる。
「ソフィア様がレオナルド様のご婚約者だと耳にしまして、お祝いを述べさせていただこうと思いましたのよ。それに、ソフィア様とも女同士で少しお話しをと思いまして、ソフィア様いかがかしら」
「マルティーナ様、それはご丁寧に、お気遣いに感謝いたします。生憎ですが我々は、そろそろ」
「レオ様、構いませんわ」
レオナルドとソフィアの警戒するような空気に、遅まきながらビアンカは馬車での会話を思い出した。『コロンナ家』は、確かレオナルドの元婚約者候補だったのではないか。互いに微笑みを浮かべているのに、緊張感が漂ってくる。マルティーナの誘いを断ろうとしたレオナルドだが、それを聞いて僅かに歪んだマルティーナの口元を見て、ソフィアは彼女の誘いを受ける。
「ソフィア」
心配そうなレオナルドとディエゴから少しだけ離れマルティーナとソフィアは対峙する。彼女の側には一人、ヘルトの女性が付き従っていた。ビアンカは、ソフィアの側についていくことにした。
「レオナルド様がご婚約だなんて噂耳にしたもので、真偽を確かめようと思ったのですが、本当ですの?」
「そうですわね、親しくさせていただいてますわ」
「貴方のような素敵な方だから、レオナルド様もお心を決めたのでしょうね。ソフィア様、今宵はミラコーラとヘルトにとって良き日です。お二人の仲にも心からの祝福を捧げますわ。それにミラコーラの知り合いは少ないんですの。ソフィア様、親しくしていただけると嬉しいですわ」
ソフィアは目の前に差し出された手をとり、二人は握手を交わす。
「そちらの方は?」
「ふふっ、彼女はわたくしの大切な友人ですわ」
「あら、そうなのね、よろしくお願いしますね」
ビアンカは張りついたような微笑みを浮かべた彼女の手は、少し冷たく触れたところから温度が奪われるような気がした。近くで覗いたベールの奥、薄っすらと見える彼女の目も刺すような冷ややかさを感じる。
「是非とも、ソフィア様には、どのような手管でレオナルド様に取り入ったのか教えていただきたいものだわ。聖女だと騙って、彼を欺いていらっしゃるのかしら」
そして、友好を求めて手を差し出した直後だというのに、マルティーナの口から出てきたのは全くもって反対の言葉だ。口角をあげて優し気な声色で話すマルティーナだが、その言葉をビアンカは訝しんで、思わず一瞬眉を寄せてしまう。ベールで隠しているが、その目に宿っている悪意が透けて見える。
そんな事を言うために、ソフィアに声を掛けてきたのだろうか。思わず不快な気持ちが口から零れそうになるビアンカに対して、ソフィアはいつものように柔らかく返す。
「聖女だなんて、何か間違ったお噂を耳にされてしまったようですね。この国では聖女は特別な存在でございます。畏れ多くてそのような事、戯れにでも口にできませんわ」
「そう……、家名を背負う者として、選択の自由がないのでしょうけれど。互いに本当に見合った相手と結ばれるのが何よりだと思いますわ」
レオナルドと結ばれるのは自分の方が相応しいのだと言いたいのだろうが、ビアンカは、短慮で率直に不快感を口にするのは堪えた。そして、ソフィアのようにはいかないが口の端を上げて、無邪気を装う。
「マルティーナ様の仰る通りですわね。レオナルド様は、ソフィア様と一緒にいらっしゃるとき、本当に楽しそうに笑ってらっしゃるんですもの。本当にお似合いだとマルティーナ様もお思いなのですわね」
「あら、わたくしの言葉がそう聞こえたんでしたら、悪いのはお耳かしら、それとも……」
言い募ろうとするマルティーナを止める声が後ろから聞こえてきた。
「お嬢様、こちらにいらっしゃったのですか」
「……お話しできて楽しかったですわ。是非、ゆっくりお話ししたいのですけれど、残念ながら機会はないでしょうね。失礼しますわ」
彼女は、呼びに来た男性に従って、来た時と同じく唐突に去っていった。胸のムカつきが取れずにいるビアンカは、マルティーナが去っていった方を見ながら眉を顰める。
彼女が去るとディエゴとレオナルドが近くにやってくる。
「大丈夫だったか?」
「ええ、少しビアンカには冷や冷やしましたけど。わたくし、あれくらい何ともありませんわ。お相手をあんなふうに挑発なさるだなんて」
「ちょ、挑発?!」
「うっ……」
感情的になってしまって、つい我慢が効かなかったと二人の視線を感じて反省する。しょんぼりとするビアンカに、ソフィアは笑う。
「ふふっ、でも、嬉しかったですわ。わたくしの為に怒ってくださって、ありがとうございます。ビアンカ」
「ソフィアも無茶は」
「ふふっ、大丈夫ですわ。社交の場でまで守られてばかり、というわけには参りませんもの。わたくしレオ様の婚約者ですから」
無茶はしないでくれ、と言いたげなレオナルドにソフィアはそう答えた。レオナルドと並び立つために、彼女は揺るがない覚悟を持っているソフィアをビアンカは格好いいと思った。
連れだって広間に戻ろうとする二人に続いて、ビアンカも戻ろうとしたが、視界の片隅に何かが入った。
何処かで鳴る鐘の音に合わせて、バルコニーから見渡せる広場の噴水が高く吹き上がった。光を受けて輝く水の煌めきが視界の端に留まったようだ。広間に続く扉とは反対に足を進め、手すりにそっと手を触れて、見入ってしまう。
「わぁ……」
マルティーナと話して、少し頭に血が上っていたはずのビアンカだが、優しい光に照らされ舞う水に心が洗われた。
ディエゴは、ソフィアが室内に戻ってしまうと知らせるべきかと悩んだが、ビアンカの目を輝かせる様に、声を掛けそびれてしまった。振り返ったソフィアとレオナルドも何も言わずに二人を残して広間に戻っていった。
「ねっ、ソフィ……ア?」
「くくっ、戻ってしまわれましたよ」
背後に問いかけたビアンカだったが、振り返ったそこにソフィアの姿はなく、噛み殺し切れない笑いに肩を震わせるディエゴがいた。
「お、教えてくだされば良かったのに、そんなに笑わにないでください」
「すみません。いえ、私も見て居たかったので、つい」
久しぶりの夜会で少し肩に力が入っていたビアンカは、久しぶりにディエゴの顔をきちんと見た気がした。照れ隠しに拗ねたように文句をいうビアンカに気分を害することなく、ディエゴが詫びる。
「別に怒ってませんわ。ありがとうございます。ディエゴ様」
ビアンカは、もう一度だけ噴水に視線を送る。夜の庭園は光の届かない木立の影に深い闇ができている。暗闇がビアンカの心に隙間風を吹かせる。
ディエゴは、庭園に目を向けているビアンカの横顔を静かに見つめていた。
「参られますか?」
そろそろ中へと差し出した手に触れたビアンカは、少し俯き加減で彼の名を呼ぶ。
「ディエゴ様は……」
「……」
「い、いえっ、ごめんなさい。戻りましょう」
聞きたいことや話したいことは、幾つもあった気がするのに、自分の中で何も答えがでていないビアンカは、名を呼んだところで続ける言葉が途切れてしまって、笑って中に戻ろうとする。
「ディエゴ様?」
「ビアンカ様、ご不安はあると思います」
「……」
「私も同じです。きっと、レオもソフィア様もそうです」
不安と言われて、脳裏にはオルランドの話を聞いてから見た夢のことが浮かんでくる。
―――夢の中、ビアンカは、父親に連れて行かれた美術館の壁画の前に立っている。黒い影をじっと見ているとその黒はジワりと広がり壁画の枠を超えて広がっていく。
不安を掻き立てる絵の中に散らされた黒い色が視界いっぱいを染めていく。
ビアンカは、目を開けているのに、その視界を覆うのは、ただ、ただ黒い闇。
一切の明かりがない、時間がたっても黒一色の空間にビアカは立ち尽くす。
(誰か……)
声も響かない、音にならない世界
ビアンカは、独りぼっちの闇の中で、心が凍えそうになる。
もがいて、叫んで、ようやく月明りが照らす寝室の天井を視界に入れた時、ビアンカはびっしょりと汗をかいていた。
「一緒に、また皆で考えましょう。オルランドも言っていたではないですか。仲間がいます」
「なかま……」
「それに、貴方が必要としてくださるなら、これからも私は貴方をお守りしたい」
ディエゴは、旅の前にも伝えた言葉をビアンカに告げる。ビアンカは、旅に出る前、その言葉に不安を慰められ勇気をもらった。また、ディエゴの言葉が、黒一面の世界に沈み込みそうになるビアンカの心に針のような幾つもの白い光で闇を突いて、明るく照らしてくれる。
ビアンカは、差し込む明るさに安堵を覚えるが、嬉しいと思う一方で、何故だろうという想いが口から零れる。
「どうして……?」
「どうして……どうして、でしょうね」
コテッと首をかしげて問われると、予期していなかった言葉にディエゴは、少し考える。
「…………申し訳ありません。解りません」
「へっ?」
真顔で応えるディエゴに、間の抜けた声をビアンカが返すとディエゴは苦笑した。
「初めてお会いしたときから、貴方のことが忘れられませんでした。貴方が自分の役目を背負い、立ち向かおうとするとき、私も同じように貴方と一緒に歩きたいのです」
「立ち向かうだなんて……」
それは『悪しき魔』のことを言っているのだろうが、底なしの先が見えない黒い闇に情けなく自分は脅えている。ビアンカは、そのように勇ましいことを口にできるほど覚悟を決めきれてなどいない。
「違いますよ?」
青くなりかけたビアンカの顔色で考えを察したのかディエゴが否定する。
「ビアンカ様は、カーニバルの時も北の大陸でも逃げずに立ち向かってましたよね。私は自分の生まれとか立場とか、何かに縛られることなく自由に生きたくて、自由でいるために強くなろうと今まで冒険者として戦ってきました。ですが、貴方やレオ、ソフィア様たちを見ていて、私も逃げずに背負っていきたいと思ったんです」
ディエゴが、自分のことをこんな風に話すのをビアンカは初めて聞いた。そんな風に考えて生きてきたのは、どうしてだろうか。その決意の瞳に映る感情はどんな道を歩いてきたからなのか。
ビアンカは、ディエゴのことをもっと知りたいと思った。
「だから、オルランドから聞いたことは、私も明確な答えを持ち合わせているわけではありませんが、共に考えさせてください。そして、貴方が望む道に、立ちはだかる何かがあるのであれば、私は、ビアンカ様の剣となって戦いたい」
迷いのない目で、そう告げるディエゴに、ビアンカの心は暖められていく。
心を覆う黒い闇が、無数の光の粒に照らされて、すっと消えていく。
「だから、不安を独りで抱えないでください」
遠慮がちに触れていた手の上に重ねられた大きな手、ディエゴの手から伝わる温もりに、少しうつむき加減だった顔を上げる。
「有難うございます。ディエゴ様」
「レオナルドとソフィア様とも近いうちに話をしましょう。正直、私も一人では持て余してしまいます。その時には、是非パオロお勧めのお菓子もご一緒しましょう」
「ふふっ、……そうですね」
ディエゴが隣にいてくれるだけで、不安が氷解する。一瞬、離れていった手のひらの温もりに名残惜しさを感じたが、すぐに穏やかな微笑みでエスコートの腕を差し出すディエゴにそっと手を添えた。
その日の夜は、黒い世界に佇む夢は見なかった。目覚めたビアンカは、はっきりとは思えていなかったが、あたたかな光に包まれた幸福な世界の夢を見ていた気がした。
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ヘルトからの賓客として、王宮に滞在していたマルティーナは、部屋に戻ると苛立ちを隠さずに、自国から連れてきた侍女にキツく当たっていた。
「なんですの? あの娘!」
ビアンカたちが目にしていたヴェールの内には、燃えるような強い感情を迸らせる美しい少女の顔があった。渋る侍女から強引に何かを奪い、部屋に仕舞っていたものと一緒に、側に控えていた男を呼んで手渡す。
「あの方の側にいる女なんて、すぐに排除して差し上げるわ」
苛立つ主人をこれ以上、刺激しないように、ただ黙々と各自が己が役目に体を動かす。愛しい男の近くにいる女たちの顔を思い浮かべて、ギリッと歯噛みするが、主人である彼女の命を受けて、素直に部屋を出ていった男の姿を確認し、少しだけ溜飲を下げる。
目出度い夜会のはずが、その部屋の空気は寒々しい乾いた空気を漂わせている。誰も憤る主人に歯向かうことなく、この部屋のゾクッとする冷ややかな空気から逃れたくて、主人である彼女の就寝準備に取り掛かる。




