vsご立腹の妹君
「で、どーだい? この話を受けてもらえないかな?」
と長テーブルを挟んで向かい側に座る男が、軽い調子で言った。
金髪碧眼の見目麗しい男は、トロキア皇国第四皇子、シャルル・バルニエ・トロキアという。
ナイフとフォークを持つ両手には、大きな宝石をつけたいくつもの指輪をはめていた。身に着けているゆったりした服も、多種多様な装飾に彩られ、少なくとも俺が一生手にできない代物だった。
彼は俺たちが振舞ったランチを食べながら、とてつもなく重要なことを言ってのけたのだ。
俺はチラリと、自分の脇を見た。
隣に座る妹君、エステル・ウィンディーネを。
シンプルなベージュのドレスを身に付けた彼女は、北海の宝石と称される美貌の持ち主だった。薄いベールに隠された黒髪もビロードのように滑らかであり、楚々とした立ち振る舞いと合わせて、見る者全てを魅了する、はずだった。
今の、憤怒の表情でなければ。
彼女は唇をわななかせ、眉間にしわを寄せて軽薄な男を見つめていた。テーブルの下に隠した両手も、怒りのあまりプルプルと震えているのが分かった。
(さあもっと笑顔を、笑顔を作るんだ)
俺はそう忠告してやりたくてたまらなかった。
目の前の男がどれほど嫌いでも、できる限り笑顔で接するのがコミュニケーションの基本なんだ。
「君にとっても悪くない話だろう? 君をこの僕の妃にしてあげるというのだから」
シャルルが当然のように口にしたその言葉が、エステルの怒りの原因だった。
奴はわずかな従者と共にいきなり王国にやってきて、会ったその場で妻にすると言い出したんだ。
一目ぼれだとか、彼女は妃にふさわしいだとか、褒め言葉をあれこれ並べ立て、今日にもトロキア本国へ連れ帰ろうとしていた。
エステルの気持ちなどお構いなしに。
「僕の妃になれば、もう爪に火を点すような生活はしなくて済む。こんなあばら家ともおさらばできるんだよ」
シャルルは招き入れられた応接の間を見回しながら、吐き捨てるように言った。
確かにここは、大国の皇子を迎えるにしては質素というか、装飾も少なく、古くて狭くて飾り気がないのは間違いなかった。
ウィンディーネ王国は人口数万の小国だ。
国家財政も破綻の一歩手前の状態で、王宮の再建や目が飛び出るほど高い調度品を買うような余裕はなかった。
だから王族である俺たちも、できる限り慎ましやかな生活を送っていた。
でも……
そう提案された少女は、さらに眉間のしわを深くしていた。
(おおぅ、我が妹よ。そんなに睨みつけたら、王家の至宝と褒められた容姿が台無しじゃないか)
俺は彼女が暴発しないか気が気じゃなかった。
王宮内はエステルの親友とも言うべきメイド達が、精魂込めて手入れしているのだ。それを面と向かってバカにされたのだから、彼女がいつ発火してもおかしくはなかった。
「大変ありがたいお話だとは思いますが……」
と目を伏せがちに、俺は口を挟んだ。
そうしないと、今にも少女の震える口から、聞くに耐えない罵声が飛び出しそうだったんだ。
「お前に言ってるんじゃない!」
たちまち不機嫌になったシャルルは、手にした食器をテーブルに叩き付けて俺の言葉を遮った。
(食べ物を粗末にするな!)
弾みでグラスがひっくり返るのを見て、危うく俺まで奴を怒鳴りつけそうになった。
お前が無駄にしている食事を育てて作り上げるのに、みんながどれだけ苦労をしていると思っているんだ! と心の中で殴り飛ばしておいた。
「……我が妹エステルは、先王様の喪に服しております。不躾ながら喪が明けるまではそのようなお申し出をお受けするわけにはいかず……」
「君たちの父王が死んだのって半年も前だろう? そんなものをいつまで続けるつもりなんだよ?」
他国の王に対する敬意の欠片も見せない物言いに、エステルの柳眉が吊り上がった。
マズい。
一刻も早くこいつに帰ってもらわないと、本当にトロキア皇国との戦争をする羽目になりそうだった。
「そうですね。来年の年明けまでは……」
「ふっ、ざけるな!! そんなに待てるか!!」
立腹したシャルルは腕を振り回し、テーブルに並べられた皿のいくつかを弾き飛ばした。
部屋を包み込む轟音と共に何枚もの皿が床に落ちて中身をぶちまけ、背後に控えていたメイドが怯えてビクリと震えたのが分かった。
「そうは申されましても、エステルは敬虔な信者でありますゆえ……それとも、シャルル様は我らが主に対する信仰を、ないがしろにされるおつもりですか?」
務めて冷静に振舞う俺に指摘されて、シャルルはよく動く口をようやく閉じた。
この世界を創造した神々は、実在する。
その証拠に、シャルルやエステル、俺も含めて、神様の祝福により様々な能力を授けられた者達もいる。
王族は、天上神から世界を統治する権限を借りているだけなのだ。
シャルルはそれからも、あれやこれやとエステルの承諾を得ようと話していたが。
王権神授の話が効いたのか、心ならずも引き下がってくれた。
「兄様!」
俺がメイドたちと一緒になって、シャルルが散らかした応接の間の片づけをしていると、鼓膜をつんざくような怒声が飛び込んできた。
「偉いな、エステル。手伝ってくれるのか」
そう言った俺に手渡された皿を、妹は素直に受け取りキッチンまで片づけて。
「って、そーじゃなくて!」
「おーい。そんなドレスで走ったら……」
全速力で駆け戻ってくるエステルに、俺の忠告が届くよりも早く。
服の裾を踏んづけた少女が、痛そうな音を立てて派手にすっ転んだ。
「くぅっ。なんなの、あれは! なぜ知らせもない、あんな奴の訪問を受け入れたの!?」
打ち付けた鼻の痛みのせいなのか怒りのせいなのか、涙目で立ち上がったエステルは拳を握りしめ、ためにため込んだものを爆発させていた。
「そーは言っても、あいつもトロキアの皇子だしなぁ」
俺は頭をかきながら弁解した。
シャルルがどれだけ無礼だと言っても、その訪問は拒絶できなかった。
権力をもてあそぶのが大好きな男が、どんな反撃をしてくるのか分かったものじゃなかったからだ。
大国の皇子の力があれば、ウィンディーネくらいの小国を潰すのはそう難しくはないだろう。
「あ、あ、あんなっ、あんな奴のき、妃にって、いきなりっ!」
怒りすぎて上手く喋れないのか、エステルは引き攣った声を上げた。頭に血が上り切って、すぐにでも倒れてしまいそうだった。
「分かってる」
俺は妹を落ち着かせるために、彼女の肩に手を添えて優しく言った。
なぜかメイドたちがそそくさと応接の間を後にするのを横目に見ながら、俺は倒れそうな彼女の背中を支え、その目を見つめて、興奮が冷めるのをじっと待った。
そうしていると、エステルの怒気も熱気も少しずつ収まってきて、紅潮した頬も白くきめ細やかな肌の色へと戻っていった。
「喪に服すなんてのは言い訳でもあるからな。どんな手を使っても、奴との婚姻は阻止してみせる」
俺たち二人だけが残された部屋で、まるで抱擁しているような姿勢のまま、俺は妹に自分の考えを告げた。
頬を染め、目を逸らしたエステルは、本当にきれいだと思った。
北方の姫君の麗しい容姿は、大陸中に響き渡っていた。
彼女が成人した直後から複数の縁談が舞い込み、今日はついにウィンディーネから遠く離れたトロキアの皇子までもが求婚をしたほどだった。
「私は、兄様がいれば十分、なのに……」
恥ずかし気な彼女のつぶやきが、全ての縁談を断った理由だった。
エステルが抱いている感情は、一つ違い兄に向けられる親愛の情だと、思いたかった。
俺も、彼女が好きかと聞かれたら迷わずそうだと言えるし、彼女の幸せを心から願っている。
でもそれは、幼いころから一緒に過ごした妹に対するものだった。
平民の母を持つ俺と、王妃陛下の娘たるエステル。
母親が違うとはいえ、血のつながりはあるんだ。
彼女の言葉にどう答えればいいのか分からないまま、ただ時間だけが過ぎていった。
「あ、あの……兄様っ」
何の返事もできず、黙り込んだ俺を覗き込むようにして、エステルが声を上げた。
必死な感じの口調に押され、俺がまた返事できずにいると。
「私は、この国が好き。兄様や母様がいて、エリスやカーラがいて、それにみんながいる王国が大好き」
それは、彼女のありったけの想いを込めた、告白だった。
「たとえ三日に一回しかパンが食べられなくてもっ」
「うぐっ」
「たとえ月に一回しか湯浴みができなくてもっ」
「ぐはっ」
「私は、兄様のそばにいるだけで幸せ……って、どうしたの。兄様?」
色々突き刺さった胸を抑えて膝をついた俺を、エステルは不思議そうに見下ろしていた。
「い、いや。好きな奴に甲斐性なしって言われるのが……これほどキツイとは……」
「あっ、まさかっ」
俺の独白が聞こえなかったエステルは、俺を気遣うように背中をさすってくれた。
「慣れないご馳走をいっぱい食べたから、お腹がびっくりしちゃったの!?」
「んなわけあるか!」
かろうじて立ち直った俺は、その小さな手を払いのけて立ち上がった。
そうだ。
こんな風に言ってくれるエステルを、これ以上不幸にはできない。
金のためにシャルルへ身請けするような真似を、可愛い妹にさせてはいけない。
と俺は思い、同時に決意した。
ウィンディーネをより良い国にするための方法を考えなければならない、と。
で、差し当たっての問題は、王国が抱える莫大な借金だった。
一年前に初めて王家の収支を見た時には、あまりの酷さに目の前が真っ暗になったのを覚えている。
父王陛下が半年前に流行り病で崩御され、国葬を執り行った後は、国庫は完全に空っぽの状態だった。実際問題、王宮に勤める役人やメイド、国を防衛する兵士たちの給金すらまともに払えないんだ。
年老いた王妃陛下に頼んで別邸を売却したり、倹約を心がけて支出を抑えたりしても、収支が好転することはなかった。
来月訪れる利払い期日のことを考えると、俺はいつも胃がキリキリと痛んでいた。
「殿下! サイラス殿下!」
頭を悩ませる俺の名を叫んで応接の間の扉を開けたのは、鎧と剣で武装した男だった。
俺よりも十五も年上で、黒髪を丸刈りにしているこの男は、王都近くの砦に詰めているはずの兵団長、エドウィンだった。
鎧をガチャガチャと鳴らして俺の前に来たエドウィンは、礼に則って両手を合わせて膝をつこうとした。
「敬礼は不要だよ、エドウィン。君の用件をすぐに話せ」
俺はその動きを制止し、彼に命じた。
「さ、先ほど、国境付近を警備していた小隊が……」
直立の姿勢を取ったエドウィンはよっぽど急いできたのか、息を切らして肩を上下させていた。
「多数の、魔物を発見しました! その数、1000を超えさらに増大中! 王都ウィンディアに向け進軍中とのことです!」
ようやく息を落ち着けた彼が告げた事実は、この国を震撼させるものだった。