お父さんになってくれるの?
「いや、何でもないよ」
とは言うものの、助けてくれたときの雰囲気とは別人の様に意気消沈してしまっていて、たくみは自分のせいだろうかと心配になって更に問う。
「何でもないって感じしない」
だが藤兵衛は、
「子供に聞かせるような話じゃないのさ」
たくみを子供扱いして相手にしようとしない。そんな藤兵衛の背中で口を梅干の様にすぼめて聞いたたくみだったが。ぱっと思いついたように息を吸い込んだ。
「じゃあすぐ大人になる。 はいっ、大人になった」
突拍子もない話に目からうろこの藤兵衛は、たくみのほうへちらりと首を向ける。しかし輪郭を確かめただけで表情まで視界に入れることはしなかった。
「それはまた突然だねぇ」
笑って誤魔化してみるけれど、たくみは引き下がろうとしない。
「大人になったから教えて」
真剣に話すたくみに対し、藤兵衛はしばし間を置いてみたが。感情の機敏を察してどうしたのかと問うその幼心は、心配ゆえだろうという考えに至り。藤兵衛は根負けして口を開いた。
「んん、そうかぃ」
今まさに自分の口から零れた声音に、内心で大いに驚いた。凪の様に穏やかで温かな心から湧き上がってくる優しい声は、忘れるくらい昔に恋仲になった女にだって聞かせたことはない。むしろこんな口調で話が出来る自分を初めて知った。
―負けるのは好きじゃないが、この負けは妙に心持がいい
この子に出会わなければ新しい自分の発見はなかったと、改めてこの出会いに喜びを覚える藤兵衛は柔和な物腰で胸の内をぽつぽつと話し始めた。
寄り合いの帰り道、子供が欲しいと胸中で願ったこと、明け方に子供が一人茅場に倒れていて怪我をしていたこと、きっと帰るところがないからだろうと思って連れて帰り寝顔を見ていたら仏様に感謝したい気持ちで一杯になったこと。
「子供を授けてくださってありがとうございますと感謝の気持ちで一杯だった。 だが父親気取りなのは私の一方的な押し付けだったと現実に引き戻された、ただそれだけだよ」
出会いには心から感謝している、それゆえに期待しすぎた自分を自嘲して鼻で笑う藤兵衛の背中に耳をくっつけて聞いていたたくみは、いつの間にか瞑っていた目を開けようとしない。けれど、口角を優しく上げて。
「たくみのお父さんになってくれるの?」
軽やかで悪意の無いこの呟きに藤兵衛は心の臓がえぐられるような衝撃を受けた。精彩ある言葉にすぐに返事が出来ないでいる藤兵衛の沈黙を埋めるように、たくみは落ち着いて言葉を続けていく。





