【外伝】The First Song in the Moon 第八話
加速が体をシートに張り付ける。エアハッチが次々と開きそして背後で閉じ、真空環境の到来によってメットの外が無音となる。
めまぐるしく開いていくエアハッチの眺めの中で、イメージの閃きがある。
――大丈夫、きっと誰かが、この星に助けに来てくれる。
――あの時もそうだったの。懐中電灯で、信号を。
「……!」
スピードの世界の中で脳が強い緊張状態となり、あらゆることが想起され、これまでに起きたことが一列に並ぶような感覚。
(そう、万能工作機、あれは夢の王と共鳴してるにゃ)
(だから多数が励起したことで夢の王の影響が増大し、私への影響が明確になったのでは)
(私の見ていたあれはあれは幻覚じゃないにゃ、あれは古い古い記憶)
(つまり、夢の王の記憶)
(夢の王の記憶が流れ込むことで、私の古い記憶までもが)
――あなたにも教えてあげる。これはモールス信号というの。
――あなたの名前を、信号に変えると。
加速は耐Gの限界で続く。
射出路から本来は地形に沿って月面を進むはずのトラム、今は出口のところで電力が途切れており、マイスナー効果が失われている。
そして速度限界に達した瞬間、宙に投げ出される。
時速2000キロ近くでレールガンのように射出された格好であり、銀のエイに取り付けられたジェットパックが細かな噴射を繰り返して姿勢を保つ。
『聞こえますにゃ、ファミー伍長』
「うにゃ、感度良好ですにゃ」
『細かな姿勢制御を加えつつ、高度20キロ付近で月の引力に捕らえられる計算ですにゃ。そこから大放物線を描いてタワーに向かう、ドラゴンに気づかれないよう祈るですにゃ』
「ティル技長、お願いがありますにゃ」
『何ですにゃ?』
「月面の外部アンテナにアクセスできますにゃ? そこを経由して、カラバに信号を送ってほしいですにゃ」
『確かに外部アンテナは非常用のバッテリー駆動に切り替わってるはずですにゃ、発振は可能……カラバに?』
「はい、こうですにゃ、111 222 111 少しだけ間を空けて 1121 12 22 22 2122」
『にゃ、無線信号ですかにゃ? でも文章になってませんにゃ、どんな方式ですにゃ?』
「これは私の記憶ですにゃ。私が夢の王から教わった信号。これで誰かが来てくれる、そんな気がするんですにゃ」
『……まさか、地球方式の無線信号。それを理解できる存在がいるとすれば……。いえ、分かりましたにゃ。いずれ外部アンテナもドラゴンに破壊される、その前に……』
ティルが何かを操作する音が聞こえる。地下からの信号が地殻内の配線を走り、破壊を免れていた大型アンテナを震わせる。
目に見えぬはずの電波の波が、電磁波のうねりが、今は感じられるような気がした。指向性を持って宇宙を走り、やがてカラバに至るであろう、それは二進法の歌。
111 222 111
1121 12 22 22 2122
111 222 111
1121 12 22 22 2122
111 222 111
1121 12 22 22 2122
111 222 111
1121 12 22 22 2122
――かなしませて ごめんなさい おとうさん
頭に響く声。その記憶は、だんだんと唐突な印象を無くしていく。やがてはファミーの自然な思い出となり、他のあらゆる記憶と一緒に脳の引き出しに仕舞われるのだろう。
「お父さん……」
その人物の記憶は、夢の王のそれほど明確ではない。夢の王の影響によって記憶が戻ったのなら、夢の王がいない場面の記憶はおぼろげである道理か。
父の顔は覚えておらず、声も定かではない。そもそも無限の魂を持つ猫たちには親という概念が希薄だ。
では、なぜ呼び掛けたのか。カラバよりは月の技術力のほうが発達していることは間違いなく、援軍としての戦力も期待できない。そもそも光速の90%以上に達している月に追い付けるのかどうか。
だが、それでも呼びかける。
打算ではなかった、呼びたかったから、声を上げたかったから呼びかけた。ファミーはそのように理解していた。
この信号は寂寞の叫びだろうか。藁にもすがるような悲哀の声か。
それとも、親愛の歌だろうか。
「……思い出したにゃ、お父さん」
月はここにあり、私はここにいる。
生まれ変わりを繰り返して、世界が大きく姿を変えて、それでもまだあなたの娘であると。
あるいはただ、それだけを伝えたかったのかも知れない。
『まもなくスラスター噴射、月の引力を利用して加速しますにゃ!』
感傷は一分にも満たない。ティルの声を合図にファミーの気持ちががらりと切り替わる。もはや幻覚や悪夢に悩む少女でもなく、未来への不安に打ち震え、親友の身を案じる乙女でもない。
いまはただ、作戦に従い突き進むのみ。
銀のエイが装着していたスラスターは大小10基以上。尾部の大型スラスターが炎を上げ、銀影が加速する。
その側面を貫く衝撃。指の太さで不可視の光条が打ち上がってエイの側面がはぜる。
「下方から攻撃されてますにゃ!」
『回避行動に入りますにゃ。ブラックアウトに注意!』
それは5センチの鉄板を撃ち抜く炭酸ガスレーザー。可視光の波長を大きく越えるために目には見えないが、サーチライトが天をなぞるごとくに銀色の影を追いかける。
各部のスラスターが噴射を繰り返し軌道がジグザグになる。ゴムバンドで固定された体が全方向からのベクトルに振り回され、脳と内臓が撹拌される。
「に、にゃっ……」
左方で爆発。炸薬を充填させた起爆性散弾。エイは底面をそちらに向けつつ爆風を利用して遠ざかる。錐揉み回転に移ると同時に全スラスターをふかして加速。雷鳴のような鈍角のカーブを繰り返しつつ飛ぶ。数十のレーザーと火炎弾がそれを追う。
『熱的迷彩射出、および電子撹乱剤散布!』
エイの後方から赤く光るミサイルが射出され、ある一点で三次元的に分裂して花火のように散る。それぞれが一千度の熱を放ってミサイルを引き寄せる。
そしてエイの底面が剥がれるような眺め。底部に抱えていた袋が解放され、軽金属の薄膜が一気に拡散してゆく。ドラゴンたちのレーダー波を散乱させると同時に、無線の音声も途切れた。
「電子撹乱中は無線も使えなくなるにゃ……タワーの上部まで手動で行かないと」
体を固定していたゴムバンドを剥ぎ取り、高速で慣性移動状態にあるエイの上に腹ばいになる。空気がないために風圧など感じず、そのため自分の速度もわからない。眼下で白煙を上げるのは月面の町並み、後方の空に地上から上がってきたドラゴンたちがチャフの雲の中を飛び回っている。
厳密に言えば空気のない月面で煙が「立ちのぼる」ことはありえないので、煙のように見えるのは高熱物質に伴う「噴気」に近いものだろうか。
ファミーは移動をエア・スラスターのみに限定し、赤外線を出さぬように飛ぶ。そして前方に見えてくる平皿型の構造物。
『――通信回復ですにゃ。うまくドラゴンたちをタワーから引き離せてますにゃ』
「このまま強行着陸しますにゃ!」
エイを進行方向に向かって反転。エア・スラスターをふかして制動をかけると同時に、宇宙服の手に仕込まれた磁気パッドを全開にする。
そして落下。
着地と同時に手が屋上に張り付き、全身から火花を上げながらタワーの屋根を滑走。腕が千切れそうな感覚が一瞬あって全身がきしみ、意識が吹き飛びそうになる寸前でどうにか止まる。
「にゃっ……にゃ、サーカスでもやらないにゃ、こんなこと……」
壁面作業用の磁気パッド、約25kGの電磁石が埋め込んであるが、もし生身で今の着地をやれば手首だけが屋上に残されていたところだ。宇宙服全体に施された補強と、耐衝撃アーマーを着込んでいたことで何とか助かった形か。
そしてレストラン内部へ。
そこはさほど荒れ果てているというわけではない。椅子や花瓶などが多少散乱しているが、営業前のレストランというだけの眺めだ。
シュガーはそこにいた。簡易的な宇宙服を身に着けて、ぐったりと横たわっている。ファミーのそれは深海作業服のような、あるいは中世の騎士のように重厚なものだが、シュガーのものはまるでダイビングスーツのように薄かった。かろうじて内部を与圧できる程度の強度、酸素循環装置は筒状の機械であり、それを口に咥えているように見える。
そしてシュガーがゆっくりと目を開け、自分を抱き上げていたファミーを見上げる。
「……うにゃ、ファミー伍長」
「間に合ったにゃ。酸素循環器のバッテリーは交換したから、もう大丈夫にゃ」
「ファミー伍長、助けに来てくれたにゃ?」
「まだ助かった訳じゃないにゃ、ちょっと待ってるにゃ」
シュガーをその場に寝かせ、窓のそばまで行って誰かと通信を交わし始める。それが妙にサバサバした様子に思えて、シュガー伍長は首をひねった。
「まずいにゃ、やっぱり気づかれてますにゃ?」
『残念ながらそうですにゃ。屋根から滑落した電磁トラムに反応された。周囲に20体ほどのドラゴンが集まってきてますにゃ』
「……」
ファミーは背負っていた背嚢を下ろす。内部にはステンレス製の水筒がいくつか、それと腕時計からぴょんぴょんと配線が飛び出している機械。
「うにゃあ……何が起こってるのにゃ? ドラゴンって……」
「大丈夫にゃシュガー、ところでレストランの冷蔵庫って大きいにゃ?」
「え? ええと……レストランでは有機食品が出るから大きいにゃ」
「そこへ入ってるにゃ、すぐに行くにゃ」
「?」
シュガーとて軍人であり、この場は質問する場面でないことはわきまえていた。指示に従って厨房へと移動する。
「ティル技長、では窓からの脱出は断念、プランBに移行しますにゃ」
『了解ですにゃ、ナビゲートしますにゃ』
シュガー伍長はというと、厨房の冷蔵庫の中に入って不安げであった。大型といっても電話ボックス二つぶんほどの広さしかなく、まだ冷気を保った食材が詰め込まれているため、かなり手狭である。
一分後、扉が開かれる、そこにいたのはファミー伍長だった。
「ああ、ファミー、いったい何が」
「ちょっと奥に詰めてにゃ」
言って、ぐいぐいと身体をねじ込んでくる、さらに内側からワイヤーで取っ手を固定した。
「ど、どうしたのにゃ、逃げるんじゃないのにゃ?」
「逃げるのは無理にゃ、階段の下には溶融タングステンがあるし、窓の外はドラゴンが集まってきてるにゃ」
「ど、ドラゴンって何のことにゃ?」
「肩を寄せて身を小さくするにゃ」
いきなり強く抱きついてきて、さらにワイヤーを使って互いの体を結紮していく。適当にワイヤーを巻き付けた後、手元の機械を操作するとワイヤーがぎゅっと狭まり、互いに肉に食い込むほど縛られてハムのような眺めになる。
「な、何するのにゃ?」
「このタワーを破壊するのにゃ」
「破壊!? いや宇宙塵にも耐えられる構造のはずにゃ、どうやって壊すのにゃ!」
「構造材は熱には弱いにゃ、テルミット反応……いやそれより凄いやつ……まあそんな感じので、そろそろ来るはずだから口開けとくにゃ、舌噛むにゃ」
「説明が欲しいにゃあああああ」
薬品が仕掛けられた場所とはタワーの上階から数メートル下。ファミーが背嚢いっぱいに仕込んでいた薬品は見事に反応を起こし、数万度の熱が真空の中で生まれ、床を溶かし、柱を溶かし、エレベーターシャフトも溶かして壁面の一部が光とともに流れ出す。
ドラゴンたちがその光に反応し、ヤモリのように壁面を這って集まろうとした時、平皿型の構造体がぐらりと傾き、そして真下に向けて滑り落ちる。
その時、それをモニターから見ていたティル技長、おもむろに指を鳴らして何かのスイッチを入れる。たちまちのうちに大地に爆炎。
「レストランから外に逃げられないのなら」
科学猫たちによって仕掛けられていた下層の爆薬、高度燃焼剤、あるいは人力の破壊によって耐久力を失っていた下層に、特大の円盤型UFOがものの見事に突き刺さり、ガラスを突き破るように複数の層を打ち抜いて、周辺からは大量の瓦礫が流れ込んでさらにタワーの基部が沈み込んで、大量のドラゴンまでを巻き込んだ大規模崩落がすべてを蟻地獄のように地下に引きずり込む。
「レストランごと地下に引っ張り込めばいい、というわけですにゃ」




