【外伝】The First Song in the Moon 第五話
※
あかあかと輝く光。
それは大きな大きな球体の光。
世界のすべてが光で満たされたような真っ白な空間。見渡す限り果てもない白。大地もなく雲もなく、ただ漠然とした天地の概念だけがある。肉体は空を見上げている。そこに巨大な光がある。世のすべてをしろしめす超常的な光。それでいてひどく近しく思える薫風のような光。
そして地には無数の棺。整然と敷き詰められた棺の列。四角四面の硬質な直方体が横たわり、蒸気を放つような熱を感じる。
――生きている。
それは何に関して感じたことか、光球か、棺にか。
猛烈な熱気にあてられるように意識が保てなくなる。
そして。
すべての棺の蓋が開き。
白い、紙のような、手が――。
「っ!」
がば、と身を起こす。
身体中にじっとりと汗をかいている。何かに追いかけられていたかのような速い鼓動。心臓の音が耳に届くほどに大きい。
「ゆ、夢……?」
それを認識したとき、毛布のような安堵と冷たい自責が同時に来た。複雑な感情のうねり、悪夢による動悸がまだ収まらない中で自分を戒める。
「何やってるにゃ、ホントに……。幻覚だけじゃなくて、悪夢まで……」
だが、何か異質な夢だった。
あの白い大きな光の玉。あれは決して悪いイメージではなかった。
ではあの棺は何だろう。何かが這い出してくるような不吉な感覚。異なる二つのイメージが重なっている夢だった。
「あれは……葬式? 葬式なんて月ではほとんど見たことないのに……」
猫たちの社会において、葬送は火葬である。
無限の魂があるといっても、肉体が朽ちれば棺に入ることになり、簡単な葬儀も行われる。旧時代の真円や四王教会が混ざった雑駁たる形式だが、魂の輪廻と再生を祈る儀式だ。
だがそこに「死」という概念は希薄だった。猫たちにとっては肉体の滅びと生命の所在は完全に切り離されている。火葬についても肉体が二つあると魂が迷うからとか、肉体は灰となって大地に帰るからとか、そのような理屈で行われる。墓が存在するのも野良猫のみであり、それも木造と決められているため、数年で土に返る。
ある猫の宗教家はこのように言ったという。
我らはスイカのように流転に生きる。
石の墓を立ててはいけない。我らは石のように永遠には生きられないのだから。
あるいはそれは、石という永遠の象徴に変ずるのを恐れるかのようだった。だから猫たちは、あまり死を悼むことはない。死という固定されたものに変じることを認めないかのように。
それは人間との比較の上での話であり、人間が感傷的過ぎるのだ、という言い方もできるだろう。猫たちは特定の友人を持つことは少なく、群れから誰かが消えても探しもしない。その場に誰が来て、誰が去っても大して気に止めない。
だがやはり、棺は不吉である。
(そう、不吉。あれは何かしらの悪い未来を予感するような夢……)
死にまつわる話をつらつらと思い出しながら、ファミーは先程の夢の意味を考える。
己に起きている異常、それが心因性のものとはどうしても思えない、この異変はなぜ急に現れてきたのか?
この体の異変に原因が、あるいは意味があるのだろうか。
「……?」
そして気付く、ここはシュガーの部屋、そして寝台には自分しかいない。
自分は数分は悶々としていた、それほどに周りを気にかける余裕がなかったということだが、誰の気配も感じなかった。
振り返る、誰もいない。
シーツの乱れがそっと直されており、一人で寝ていたのかと錯覚するほどだが、まだわずかに体温が残っている。
そこに紙片が。
「にゃ、手紙……?」
月に便箋はなく、ノートの一枚を切り離した手紙だったが、薬包のように丁寧に折り畳んでいるあたりがシュガー伍長らしい。
――ごめんなさい。今日はレストランで新しい曲のリハがあるので、先に行きます。
――ぐっすり眠っていたので起こせませんでした。分かっているとは思いますが宿舎の入り口はオートロックです、忘れ物のないように出てくださいね。
――それと……夜に話していたこと、私には難しいことはよく分からないけれど。
――きっと、みんな色々な悩みを抱えていると思います。私も自分の身の振り方のこと、歌のこと、この月が向かう先のこと、不安はたくさんあります。
――でも、ファミー伍長なら、きっと――
その先を読んで、ファミーは胸が痛む思いだった。
思えば自分は気遣われてばかりだ。ドラム軍司令にも、ティル技長にも、ライバルであるはずのシュガー伍長にまで気遣われている。情けない話と言ってしまえばそれまでだった。
シュガーは新しい仕事を始めたばかり、その上で兵長を争う試合をさせられるなど、本来なら彼女のほうがずっと混乱してしかるべきなのに。
「んにゃっ、というか、いま何時……」
時計を見て。
しばらく硬直。
アナログ表示だったためにいちど時計をひっくり返してみたり、裏側を確認してみたりして、また戻す。
「もう昼前にゃあああああ!!」
顔面蒼白どころではない。今日も伍長としての役目が色々とあるのだ。慌てて下着にシャツという姿で部屋を飛び出し、己の部屋に飛び込んで床に脱ぎ散らしていた服を身につけると、また廊下に飛び出しながら携帯端末を起動させる。
「もしもし、こちらファミー伍長ですにゃ、事務室を」
「んなー、ファミー伍長なー」
ドラム軍司令の声だった。端末を顔から離して見直すが、やはり事務の番号である。
「ドラム司令? なぜ事務のデスクに」
「ヒマだからお茶をごちそうになってたのなー」
「そうですか……す、すいません、ファミー伍長、所用により遅刻を」
「そういえば姿が見えなかったのなー」
のんきなものである。ファミーが猫にしては真面目すぎるのか。
「まあいいから早く出てくるのなー」
「はい、それであの、軍司令……」
電話口から「んなー?」という声がして。
ファミーはふと、言葉を見失う。
(何を――)
自分は今、何を報告しようとしていた?
とっさに口から出ようとしたのは、今朝の夢の話だ。
(そんな馬鹿な、ティル技長と会ったこととか、他にいくらでもするべき報告はあるのに)
しかし、
舌が止まらない。
ゼンマイで動く人形になったような感覚。自分の意志と口が乖離している。言葉の霊というものが己の体を借りて予言を放とうとするかのような。
「実は今朝、とても不吉な夢を」
答えは返らない。
さすがに唐突すぎて呆れてしまったのか、あるいは寝過ごしたことを察せられて、まだ寝ぼけていると思われたかも知れない。
しかし誰かに背中を押されるように言葉が止められない。
「何か嫌な予感がするんです。見たこともないようなイメージの夢で、ここ最近、私の体に起こっている事とも無関係とは思えないんですにゃ」
「いちど徹底的に調べてほしいですにゃ、私の体も、この月に何か不安がないのかも」
「軍人として突飛な発言だと分かってますにゃ。ですが不安が拭えないのですにゃ。いちどティル技長にも相談を――」
濁流のように流れ出てくる言葉に、自分はここまで追い詰められていたのか、と自分でも驚く。
しかし、言葉が返らない。
やはり呆れられてしまったのか。と、何かに祈るように目を閉じ、携帯端末を強く握る。
しかし、何かおかしい。ただの沈黙の気配にしても静か過ぎる。
廊下全体を赤い光が埋め尽くしたのはその瞬間だった。
「――!」
けたたましく鳴り響くベルの音。脳髄まで響くサイレン。サイレンによる警戒音と物理的なベルの二段構えの警報、これは月における最大級の非常事態、空気漏れの警報だ。
風が。
廊下の奥から怪物の群れが押し寄せるように、ファミーの小柄な体を一気に押し上げて吹き飛ばそうとする流れが。
「ぐっ!」
手近なスチール製の手すりにしがみつく。万一の重力異常や空気漏れのための手すりだが、備え付けた人物に感謝を捧げたい気持ちだった。
――警告。Ta-3エリアにて空気漏れが発生しました。
――20秒後にエアロックによる隔離を行います。
無機質な機械音声が異常を告げる。
ファミーは駆け出す。風が弱まるのを待っている余裕はなかった。
月の施設はそれぞれが連絡通路で繋がっており、施設同士はゲートにより分断されている。
エアロックによる隔離とは、空気漏れの起きた施設とのゲートを完全に閉鎖するということ。
そのとき真空状態に取り残された猫は当然のように死ぬ。しかし20秒という時間はかなりの温情の現れなのだ。空気漏れの脅威度を考えれば、2秒と言われても妥当とすら思える。
「でもどうしてにゃ? 宇宙塵にぶつかった? そんなこと一度も……」
希薄な宇宙、しかも小惑星帯から来訪があるわけでもない恒星系の外の世界において、宇宙塵に遭遇する確率はかなり低い。
月の警戒はさらに万全である。進行方向に何基か先行する衛星を出してレーダー網を張っており、直径1センチまでの宇宙塵を前もって察知することができる。そして月の施設は高密度物質を交えた多層構造になっており、たとえ相対速度が光速に近い宇宙塵であっても貫通は許さない。仮に貫通したとしても特殊なジェルの噴射によりすぐに修復されるはずである。
つまり、修復が不可能なほど大規模な破壊が起きた、ということだろうか。
衝撃。
「にゃっ!?」
閃光と熱波。体が小石のように吹っ飛ぶ。
――空気漏れが発生しました。
――火災が発生しました。
――電気系統の。
複数の緊急アナウンスが折り重なって聞こえる。それ以外の当然あるべき全体アナウンスが来ない。指揮系統が破壊されているとでも言うのか。
「どうしてにゃ。廊下に爆発物なんか無いはずにゃ。それにさっきの爆風、まるで施設の外から――」
廊下にある大きな窓。
月の文化水準の高さを示すかのように、真空世界と居住区画を仕切る巨大な窓に、白い影が。
一体ではない。渡り鳥のように群れをなして、闇だけが支配する月の空に、影がひらめく。
その白い影から、火球が。
「あれは――」
目を閉じて両耳を塞ぐ。体の芯を揺さぶるような爆圧。施設のどこかが吹き飛んで、独立系統であるはずの緊急音声すらも断絶する。
「ぐっ……!」
――ドラゴン
それだけを意識して、余計なことは思考から排斥して走り出す。この区画が狙われている。どちらにせよ空気漏れも続いているのだ、エアロックの向こうに行けなければ死ぬだけだ。そのエアロックも封鎖されていなければ、だが。
「にゃー、足がはさまったにゃー」
誰かの叫び、内耳が耳鳴りで充満していて半分も聞こえない。
見ればそこは厨房であり、白のコックコート姿の猫が倒れてきた什器の下敷きになっている。
「うぐっ……」
そちらに駆け寄る。もはや呼吸も覚束ないほど気圧は下がり、耳鳴りと頭痛で意識にもノイズがかかっている。
「しっかりするにゃ、このぐらい男なら持ち上げるにゃ」
大型の調理器のようなものを持ち上げてその猫を助け出すと、肩を貸してやる。
「にゃー、ファミー伍長、ありがとうですにゃー」
「気にしなくていいにゃ、それより早く逃げるにゃ」
「にゃー、でももうエアロックが閉まってますにゃー」
確かに。とっくに20秒など過ぎている。
ファミーは絶望に押しつぶされそうになる心を振り払い、腹筋に力を入れて声を放つ。
「大丈夫にゃ、ここが厨房で助かったにゃ、大型の冷凍庫に素早く入ればしばらくは生きてられるにゃ」
「にゃー、さっきの衝撃でドアが開いちゃいましたにゃー」
確かに、厨房に据え付けられた冷凍庫はしっかりとドアが空いている。
というよりも、生鮮食品という概念すら希薄な月の社会である。その冷凍庫は製氷や、氷菓の保存のためのもので、せいぜい畳一畳ほどの広さしかない。
「……う、じゃあ地下に逃げるにゃ。ダストシュートとか、下水に入れる道はないにゃ?」
「ゴミはロボットが回収して廊下伝いに持っていきますにゃー。下水へのパイプも猫が入れる大きさじゃないし、そもそも月の施設は建物ごとに水系統も独立してますにゃー」
「ぐ……何でもいいにゃ、真空状態をやり過ごせる密閉区画とか、とじ込もれる部屋はないにゃ? ドアを溶接できる道具とかでもいいにゃ」
「うにゃー、ありませんにゃー、もう終わりですにゃー」
風もついに止んできた。もはや気圧は0.2気圧ほど。呼吸ができずに死ぬのか、あるいは体液が沸騰するか、目や耳から噴血するのか、どちらにせよ尋常ではない死に方になるだろう。
ファミーは歯噛みして、しかし、最後にこの猫を見捨てて走らずに良かった、とだけぼんやりと意識する。
そうだ、自分は最後まで軍人らしく行動して死ねるのだ、と。
「……万事休す、にゃ」
「にゃー、ファミー伍長、すいませんにゃ、自分なんかのために」
「いいのにゃ……どうせゲートまで走って間に合う距離じゃなかったにゃ」
「お役に立ちたかったですにゃ……何も用意がなくてすみませんにゃ。あとはせいぜい、非常用の宇宙服が二着あるぐらいで……」
「…………」
緊急時とはいえ、さすがに殴った。




