エピローグ
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――
――
――
――音
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――音が、聞こえる。
「う……」
口腔が乾いている。ふと横を見ればグラスに注がれた炭酸水、僕はそれを口にする。
船内に呼び出し音が流れていることに気づくが、反応する気力がないので無視する。やがて音は止まり、AIの音声が降り注ぐ。
『お目覚めですか、排尿を済ませましたら栄養剤をどうぞ』
僕はのっそりと寝台を降り、半分眠ったままで言われるがままを行い、AIの用意していた錠剤をソーダ水で流し込む。
寝台の上のシオウを確認する、まだ眠っている。しかし船内の気温はだいぶ高い。
「AI、なぜ起こした? トラブルなら勝手に対処してくれればいいんだ」
『通信が入っております』
通信?
僕は寝起きの不安定な感覚から少しずつ回復する。そうだ、僕たちは地球へ帰る旅の途中。限界まで光速に近づいたとしても、おそらく主観時間で数百年はかかる旅だったはず。
舷側窓からの星明かりをぼうっと眺め、先ほどの通信、という言葉をようやく思い出す。
「救難艇のSOSでも拾ったのか? こちらは光速で飛んでるってのに……まあいいか、回してくれ」
『やあ、ようやくお目覚めかね』
空中に「Voice only」の四角い窓が浮かび上がる。
落ち着いた女性の声だ。僕はようやくまともになってきた頭で応じる。
「誰だ?」
『なんだ、つれないな。数少ない人間の話し相手だったつもりなのだがな。もう少し印象に残ってるかと思ってたよ』
その発言で彼女が何者なのか、という情報が脳から引き出され、
それを理解した瞬間、膝が一気に伸びて立ち上がる。
「まさか! 骸の王!」
『そうだよ。いいから早く降りてきてくれ、私は早く眠りたいんだ』
「降りてくるって、何のこと」
そして僕は気付く、舷側窓の外の星明かりに。
「なっ……馬鹿な、なぜ星が見える! 光速の99%などとっくに超えてるはず! スターボウ化するはずだ!」
『なんだ気づいてもいなかったのか、案外に鈍いな』
「AI! 航行開始から何日経っている!」
『19日間です』
「客観的時間経過……カラバの暦では何年経った!」
『22年と70日です』
22年? 22年だと!?
そんな馬鹿な、短すぎる。
「ここはどこなんだ!」
『太陽系第三惑星、地球近傍点、周回軌道上です』
その言葉で気付く、そういえば舷側窓の星明かりが動いていないのになぜ僕は立てる。船がきりもみ回転して遠心力を産み出しているわけではない。おそらく周回軌道上の一点に浮くことで地球の重力を得ているのか。
僕は通信音声の窓に向けて叫ぶ。
「骸の王! あんたは地球にいるのか!」
『私だけではないよ、電子情報に近い形で眠りについているが、岩の王、雨の王、森の王もいる。とにかく人手が足りないんだ、地球人類が残っていれば良かったんだが、みな移住してしまったらしいな。私など人としての肉体を掘り起こされたんだぞ、キョンシーにでもなった気分だよ、また受肉して猫の世話をする羽目になるとは』
「猫の世話? なぜ今さらあんたが……」
他に聞くべきことは山ほどあったが、僕は少しぼんやりした声でそんな質問を投げる。
『無理矢理だよ。まったく猫というのは手に負えないな、彼らが本気で餌をねだってきたら、誰が逆らえるというのだろう』
「待ってくれ、いきなり色々言われて、頭が混乱して」
『おっと、猫たちも通信を開きたいと言ってるな』
そして船内いっぱいに、まさに埋め尽くす勢いで通信窓が開き始める。
『にゃー! おかえりなさいにゃー!』
『お待ちしてましたにゃー』
『みんな待ってるにゃーっ』
『お話聞かせてにゃー!』
『ジャグリング見たいにゃあああ』
『スイカくれにゃー!』
『よく分かんないけどおかえりにゃ』
そんな音声が数百も同時に来れば、それはもう音圧である。
「ど、どういうことなんだ、なぜ猫たちが地球に」
猫たちのコールの洪水の中で、やや音を強調させた骸の王が声を放つ。
『猫たちは完全なる弦転跳躍を完成させた。もはや宇宙において距離の壁、という言葉は意味を持たないのだよ。彼らならばそのうち次元の壁や因果率の壁すら破るかも知れんな。遺伝子の基本設計をやったのは我々だが、よもやここまで進化を遂げるとはね』
「なぜ船が減速しているんだ、主観時間で一年はかかる減速のはず」
『つまらない質問だ。空間を支配するならば彼我の相対速度など何の意味も持たない。君を捕捉し、地球周回軌道にそっと置くなど造作もないらしいぞ』
声だけではあるが、骸の王がお手上げの格好をしたのが手に取るように分かった。
『さあ、それより早く降りてきたまえ、遺伝子処理の準備はできている』
「遺伝子処理……」
『そのために私も連れてこられたのだ。無理矢理だったよまったく、彼らは私の遺伝子から人類のゲノムを理解し、編集する技術を得た。まあ猫たちを拾ったことが不運と思いたまえ、とりあえず百年ほど寿命を伸ばして面倒を見てくれ』
遺伝子処理、シオウが、生き延びられる。
その言葉が、なかなか実感を伴って浸透していかない。今度こそ死出の旅だと決意して出てきたのだから無理もないが、もう一つ気になることが。
「ちょっと待ってくれ、そもそもなぜそんなことをする必要がある? なぜわざわざ地球に来て、僕の妻に遺伝子処理を」
『猫たちはそれが最適だと判断したからだ。彼らにとっては誰かにかしずき、誰かを飼い主として崇めることが最上の喜び。飼い主の強さこそが彼らの強さなのだ。真に自由に生きるということは、飼い主を持つことすら彼らの自由意思の手のひらの上ということなのだよ。飼い主がいなければティッシュ箱の中身をぶちまけようと、籐家具を爪でズタズタにしようと何の意味もない。飼い主がいてこそ彼らは愛され、もてはやされ、すべてを許され、至上の存在たりうる。人間だって似たようなものだろう。神に愛されんがために努力を重ね、そして神の禁忌に触れるときに最もモチベーションが高まる。心当たりはないかね』
「あんた、真面目に説明する気ないだろ」
『当たり前だ、こんな通信で一から十まで説明してどうする。いいから早く降りてきたまえ、猫たちの社会を見るのが一番早い、きっと驚くだろうから心の準備をしておくといい、いくら準備しても無駄だが』
「ダイ、ス」
脇の寝台から声がする。
シオウの眼が開いていた。
ゆっくりと、かなりの時間をかけて身を起こし、僕が横からその体を抱き止める。
「シオウ」
「ダイス、猫がいるわ」
猫?
まさか宇宙に上がってきたのかな、と思って窓の方を見る。船が少し回転したのか、そこに地球が見え、て。
「なっ……」
絶句する。
開いた口が塞がらないとはこの事か。まだ猫たちのコールは続き、通信窓が開いては消えてを繰り返していた。その万雷の拍手のごとき猫の声の只中で、僕は思わず笑い声をあげる。
「は、ははっ! なんてことだ、造山猫たちだな! すさまじい! まるで意味がわからないぞ! なんであんなことになってるんだ、最高だ猫たちは! そういえば開拓時代からそうだった! 彼らは何をやるか予想がつかない、彼らに囲まれていれば退屈なんか感じてる暇もないんだ!」
それは、おそらく高さ1500キロメートル以上。
僕と妻は立ち上がり、寄り添って窓からの地球を眺める。
それはなんという光景だっただろう。理解の及ばないことが心地いい、猫たちが人間の想像を超えたことが素晴らしいと思える。
窓の中には、星と月と、そして地球。
「ダイス、笑っているの?」
これが笑わずにいられるか。
その地球には、ユーラシア大陸に一つ、カナダあたりに一つ。
黒くて立派な、三角の猫耳が生えていたのだから。
(完)
これにて完結となります、長きにわたりお付き合いいただきありがとうございました。
ずっと書きたかった作品なので、こうしてひとまずの完結を迎えることができて喜ばしく思っています。
さて物語は一応の完結となりましたが、今後外伝などを書くかも知れません。それと同時に次回作も始めたいと思っています、なるべく時間をおかずに始められるといいのですが。
ではでは、改めて最後までお読みいただきありがとうございました。またいずれお会いできれば幸いです。




