第七十二話
『にゃー! ドラゴンたちがばらばらになっていきますにゃー!』
ティルの声が届く。
『にゅー! 急にみんな止まりましたにゅ、そしてガラスが割れるみたいに砕けていきますにゅー』
「クーメル、生きてたか」
『はいですにゅう、トムは情けないんですにゅう、けっきょくクーメルのほうがたくさん倒しましたにゅう』
『にゃー! むちゃ言わないでほしいにゃ、こっち重火器ないのにゃ、剣で何匹倒したと思ってるにゃー!』
トムの悔しげな叫びが聞こえて僕は苦笑する。憤慨して飛び跳ねる小柄なトムが目に浮かぶようだ。
『んなー』
「ドラム! そっちも無事だったか!」
『あまり無事じゃないのなー、部下が負傷してるから収容してほしいのなー』
『にゃー、ドラム司令が一番重傷ですにゃー』
『いやほんとそのケガでなんで生きてるにゃー、メットも割れてるし怖いにゃー』
噴射ノズル付近は真空環境だったはずだけど……まあドラムなら生き残ることもあるか。
わいのわいの、猫たちの騒がしい会話が届いてくる。
ティルが矢継ぎ早に報告をよこし、メット内に映像も送られてくる。地表面ではドラゴンの崩壊が続いていた。
それはまさに花吹雪くような光景。
白い体殻が砕け、地表面に落下していく様が無数の花弁のように見えた。月を覆い尽くすほどの白い花。施設の上に降り積もり、月の凹凸を覆い隠していくそのさまは、なぜかひどく美しく見えた。
そう、たった今、このとき。
ドラゴンは人間に与えられた役割を終え、そして猫たちは、彼らを導くすべての人間たちから解放されたのだ。
「よし、僕たちも地上に戻ろう、シオウは僕が運ぶから――」
振り返り、そしてシオウを再び見る。
眼を離していた間隙は三十秒もなかったが。
そのわずかな時間に、シオウはもはや、シオウとしての形象をとどめていなかった。
「シオウ」
我知らず漏れる声に、絶望の音が混ざる。
近づいてその身を抱き起こせば、僕の手の中でシオウを構成するものが崩れていく。砂のように薄絹のように、指の間からあらゆるものがすり抜けてこぼれていく。
ああ。
そうだ。
忘れていた夢を思い出すかのように、そのことを認識する。
分かっていたはずではないか、彼女はもはや臨死の際にあったのだと。冷凍睡眠からの賦活によってかりそめに意識が浮上したものの、それはすぐに石のような耗弱、泥に落ちるような混濁に閉ざされてしまうのだと。
「ダイ、ス……」
彼女の美しい唇、しかしそこから放たれる声に抑揚は無い。
その指が、無数の蛇に変わるかのように僕の体に絡みつく。彼女のか細い腕が枝となり、異様な強さで僕の肉を掴み、互いに溶け合って一つとなろうとするかに思える。
僕は通信のすべてをオフにした、途端に圧倒的なまでの静寂が訪れて耳に痛みを感じる。
「ファミー」
前方にいるはずの彼女を呼ぶ。彼女はただならぬ気配を察知したのか、わずかに歩を引いていた。
「うにゃ……」
「君は戻るんだ。少し前の部屋に船が用意されているはず、それに乗って地表に出ればティルたちの船に合流できるだろう」
「にゃ、でもダイスは」
僕は腕の中のシオウを強く抱き返し、拒絶を込めた言葉で言う。
「僕は行かない」
「にゃ」
通話はオープンになっている、僕の言葉が無数の猫たちに伝わり、息を呑むような気配が帰る。
「僕は彼女を連れて地球へ向かう。それが彼女の最後の願いだ。君たちはティルの脱出艇で戻れ、カラバに戻って星を復興させるんだ、もう僕たちがいなくたって問題ないはず」
「ダイス……」
それは僕の我儘だろうか。あるいは彼女の狂気だろうか。
どちらでもない、これは僕たちの選択だ。僕たちにとって帰結するべき結末なのだ。
「ファミー、君を巻き込みたくない。君があの星で生き続けていてくれるなら、それが僕たちにとっての無限だ。僕たちの足跡は君たちの星に残る。魂は永遠に続いていくと信じられる。星の海の彼方からずっと君たちを見ている。だがシオウの死だけは、肉体の滅びだけは僕たちのものだ。もう誰にも渡さない。二度と離れはしない。そして彼女の願いは必ず叶える。僕がその最後の一瞬まで添い遂げる」
「……」
「行くんだ、ファミー」
ファミーの瞳はこの世の終わりのような、とても深い悲みの色をたたえている。だがこうするしかない。彼女はあまりにも若い、僕たちの旅路に引き込むわけにはいかない。
ややあってファミーは踵を返し、広大な闇の奥へと走り出した。僕はシオウの体を抱えて歩き出す。
闇は深く、巨大な質量で僕たちにのしかかるかに思えた。そのうちシオウは体から力が抜け、僕の腕の中で液体のようにゆるやかになる。
十数分も歩いて、そして白い部屋の棺の群れ、万能工作機の間に至る。
船は用意されていた。全長20メートルあまりの立派な宇宙艇だ。モーターボートを大きくしたような流線型の形状で、内部には数人が居住できるほどのスペースがあった。他にも小型艇や高速艇など何機もある。
「大したもんだ。この船、小規模だが核融合エンジンを積んでいる。これなら自力で地球まで行ける」
一番大きな船に乗り込む。
シオウを寝台に寝かせ、各部を確認すれば実によくできた船だと分かる。そして航行機であるAIは僕の知る最高級品より優秀だ。あらゆることが音声一つで行えて、本当の猫にすら操縦できそうなほどシンプルな操作系だった。
「AI、地球の座標は分かるか」
『入力されています』
「地表まで移動後、地球に向けて1Gで加速。その後は船内温度をマイナス4度まで下げて冷凍睡眠状態に入る。生命維持環境は構築できるな」
『可能です』
そして船は地下から射出口を通り、月面へ。そこは先ほど映像で見た通り、花びらのようなもので包まれていた。爆散したドラゴンの破片がクリームのように波の花のように月面を覆っている。そして舷側窓から見える白い輝点はティルたちの乗る脱出艇だろうか。それをいくつかの輝点が追いかける。あれはドラムやトム、ファミーらを収容した船だろう。ここからカラバまで帰るのも大変な旅だろうが、その数億倍という距離を僕たちは行くのだ。
船内温度が下がっていくのを感じる。僕は最後に一度だけ宇宙服内のスイッチを入れる。
とたんに様々な音声が流れ込んでくるが、僕はティルにチャンネルを絞る。
「ティル、そちらは無事に脱出できたか」
『にゃー! ダイスさま、ファミー作戦長から聞きましたにゃ、どうか考え直して下さいにゃ、我々には導いてくれる方が』
「もう必要ない。君たちは自分の力で発展していけるはずだ。お別れだよ、ティル。トムとドラムにも、他のみんなにもよろしく言っておいてくれ。それと一つだけ伝えておきたい、カラバに戻ったら、統括システムの中にある僕とシオウの生体情報は必ず削除するんだ。絶対に僕たちの複製を作ろうとしてはいけない、魂は一つであるべきなんだ」
『お願いですにゃ、どうか』
「猫の別れはあっさりとしたものがいい。にゃあと鳴けばそれで十分だ。十分なんだよ、ティル」
僕は通信をオフにして、厚くて動きづらかった宇宙服を脱ぎ捨てる。
シャツと短ズボンというあっさりした姿になった僕は、寝台に横たえたシオウのもとへ行く。
彼女は眠っていた。もう二度と起きないかも知れない、そう感じたのは初めてではない。そして今度こそそうなるだろう。彼女は僕よりもずっと素晴らしい人間だった。猫たちをあれほどまでに進化させたのだ。彼女の誇らしい偉業を見ることができた僕も、言葉にできないほど幸福だった。
手足の先に痺れるような感覚があり、耐え難い眠りが脊髄を這い上がる。
『麻酔ガス噴霧します。まもなく睡眠環境へ移行』
麻酔ガスと低温を併用した簡易睡眠。冷凍睡眠カプセルほど完璧ではないが、無限に永らえることは目的としていないから、これで十分だろう。
そもそもの話をすれば、地球への帰還など不可能。
僕はシオウの寝台のそばに己の寝台を並べ、ひどくゆっくりとした動きでそこに寝そべる。
光速近くまで加速した後は、たしかにウラシマ効果によって短い時間で地球まで行けるかも知れない。
しかしそこからの減速には一年近い時間がかかる。それに光の速さで移動しているとは言え、弦転跳躍を用いなければ客観的には数億年という時間を飛び続けるのだ。
その間に地球はどうなる? 地殻に水が閉じ込められて赤茶けた星になるか、赤色巨星となった太陽に飲み込まれるか、そうでなくてもイエローストーンや鬼界カルデラのような超巨大火山の噴火によって生物の大絶滅が起こり、とっくに居住に適さない星となっているだろう。人類が仮に宇宙のどこかで命を繋いでいたとしても、もう地球にいるはずかない。
眠りの淵でそんなことを考えるのは無粋だったが、自分で思考を制御できるような状況でもなかった。僕はうつらうつらと船を漕ぎながら、温度の下がっていく船内で意識が深みに落ちるのを感じる。
思えば、スイカの星に滞在したのはほんの短い時間だったような気もする。
あらゆる思い出が矢のような速さで通り過ぎる。古代ではスイカの蔓と骨で組まれた住居、古王国時代の石と煉瓦の町並み、地下階層都市での美々しいながらも退廃を感じるネオンの光。
恐ろしい怪物
最果ての四王
うずくまる猫の城
スイカのフルコース
翼を広げた砂色の竜
英雄と呼ばれた猫たち
四色に塗り分けられた街
大岩をかついで山を造る猫
地平線の果てまで広がるスイカ畑
そして、僕はシオウの手を握り、
ゆっくりと、黒い覆いをかぶせられるような眠りへと――




