第五十話
説明の多い回なので二話同時更新します
「方舟……木造船。そんな馬鹿な。これはスイカの樹じゃない、いったい……」
かの書物によれば、世界を滅ぼした洪水における方舟は高さ60メートル、幅60メートルの文字通り立方体の箱だったという、これは外見は通常の船に近いサイズだが、その船体にマストも衝角もない。しかし隙間なく木材が貼られ、ゆるやかに反った側面のラインで船であることは分かる。
「うにゃ、でっかいにゃ。窓があるけど中が見えないにゃ」
窓にはどうも暗幕が降ろされているらしい。トムがライトを近づけても、漆黒の質感が返るだけだ。
「待てよ、これは……」
そこで思い出すことがある。一貫した記憶を持っていない今のトムは知らないことだが、かつて僕はこの船に入ったことがあるのではないか?
そう、それは160年以上前、まだ猫たちのテリトリーはごく小さかった頃。
「一度戻ろう、明日、ちゃんと装備を整えてみんなで来よう」
「にゃっ」
あの時、この船は砂に沈み、どこかに去ってしまった。時間を置けばまたどこかへ消えるだろうか。
それはあるまい、という確信がある。
地球とほぼ同じ広さのこの星で、この船は僕の前に二度も現れた。それが偶然ではないことぐらいは分かっている。
僕は段々としたたかになっている気がする。この星で起こることを俯瞰的に眺められるぐらいには。
※
「うにゅー、でっかいですにゅうー」
「すごいにゃー、木材のカタマリにゃ―、お宝にゃー」
翌日、僕以外に五人ほどのメンバーを選び船に戻ってくる。手際よく縄梯子をかけ、船そのものもワイヤーで岩に固定する。いざとなれば側面を切って助けに入れるように電ノコも用意した。
天板部分に出ると、そこに四角い穴が見つかる。
「よし、やはり入り口はそのままだ、入ってみよう」
内部に降りると廊下に砂が積もっており、僕たちは砂地の上にさくりと着地する。おそらくこの出入り口は遠隔操作で蓋ができるのだろう。
内部まで僕についてきたのはトムとクーメルである。トムは肩にライトを置いて剣を佩き、クーメルは小さめのクロスボウを構えている。かつての蜘蛛のような異形がいないとは限らない。
「やっぱりあの場所だな……そういえば「航海日誌」なんて本も落ちてたし、ここは船だったんだな。本来の意味での船かどうか知らないけど」
「うにゅー、ここってもしかして、ドラム王たちが碑文を見つけた場所ですにゅ?」
「そうだね、建国神話にある木造りの暗所。黄泉路の穴。碑文の洞窟とかいろいろに呼ばれてる場所だよ」
あのときの明かりはスイカをくり抜いて、中で獣脂ロウソクを燃やした簡易的なランプだった。今は発光ダイオードによるフラッシュライトだ。廊下が思いのほか短く、窓の作りも存外にチープなことが浮かび上がってしまう。例えば窓などは真鍮の窓枠に見せかけた強化プラスチックだ。メタリック塗装のスプレーが剥がれて地肌の白いプラスチックが見えてしまっている。
「……確か、廊下の奥に船長室らしき場所があったんだ」
それは確かにあった。蜘蛛がいないかどうか警戒して周囲を照らしつつ入る。破壊された木箱と、その中に残されたアンティーク風の書籍。ビニールに封じられたままだからインテリア用だろう。テーブルは床に固定されているが椅子は倒されたまま、蜘蛛の姿は消えているが、床にわずかに黒い染みが残っている。
「奥の部屋にはガラスの板があったはず……そのぐらいかな。本は持って帰ろう。他に鍵のかかった部屋があったから、鍵を壊して中を調べないと」
「奥に誰かいるにゃ」
トムがあまりにも素っ気なくそう言うので、僕がびしりと緊張を走らせたのは五秒後だった。
この部屋の奥。たしか、ガラスの貼られたテーブルがあり、そこに簡略化されたこの星の地図と、謎めいた詩のような文章が刻まれていた部屋。
「うにゅう、気配がしますにゅう、誰ですにゅう?」
「入ってきてくれ」
その声は、やはり何事でもないように気楽に響く。
「……」
動揺するのも面倒な気分だった。
昨日、この船を見つけたときから予想していたことの一つだ。
この船が現れたことが偶然でないとすれば、ではなぜここに現れたのか。
それはつまり、僕に会いに来たのではないか。
そしてこの星において、僕に会いに来るような者はもはや、一人ぐらいしか思いつかない。
僕はなるべく動揺を見せぬよう、取り澄まして次の部屋への扉を開ける。
人物と呼べるものは誰もいない。しかし確かにそこにいた。巨大なテーブルの奥に椅子があり、そこにひどく大きな外套がかけられている。熊のような大男が着ていたのかと思わせる毛皮の外套。
……それだけだ。比喩ではない。椅子と大きな外套。そこから人の気配がする。我々はみな外套から生まれた、とはドストエフスキーの言葉だったか。
「やあ、会いたかったよ、お客さん」
声が響く。声は匂いのように方向性がなく、頭に直接響くかのようだった。部屋の四隅にあった角灯にぱっと明かりが灯り、部屋の中を照らし出す。
「なぜ今になって?」
僕は問う。外套は身じろぎ一つせず言葉を返す。
「本当は160年前に一度会おうとしたんだ。だが同行していた猫が乱暴者だったろう? 護衛の獣を殺してしまったし、何となく間も悪かったので退散したのだよ」
「……それだけか? 今更になってもう一度会いに来たのには、理由があるんじゃないのか」
「猫たちの言う最果ての四王のうち、三人が死んでしまった。自死だよ。まあそういう時期だったんだろう。この星のシステムもズタズタになってしまったことだし、君たちと一度話がしてみたくてね」
「うにゅっ……この声、なんだか重々しいですにゅう。肌が粟立つような、立っていられなくなるような……」
クーメルは一歩、後じさる。それは猫たちの持つ本能だろうか。遺伝子の奥底に刻まれた至上命令が、この声に、その存在に畏怖を抱かせるのだろうか。
だが僕には何も感じない。こいつはもはや人としての形象を失い。有機物と無機物の中間のようになっている存在だ。椅子にかけられた外套というのは己を示す精一杯のポーズなのだろう。
そう、こいつは最果ての四王の一人。この星を作った神様気取りのロシア人。
「――骸の王」
「そうだよ。この星の生命輪環システムを担当している」
王はふうと息をつく気配を示す。肩から力を抜いて足を組んだ、そんな気がした。
「話の前に、まずいくつかの質問に答えよう。何か聞きたいことは?」
話の前に、ということは、何か用件あってのことなのかと思考がよぎるが、とりあえずは問いたかったことを優先させる。
「この星で何をやっていたんだ」
「ごく一般的なことだよ。多くの地球人と同じく星海の隅々にまで出ていき、生命を創造し、その栄枯盛衰を眺める。宇宙のあちこちに同じような星があるらしい。独裁者になる者もいれば、生み出した生物にあっさり殺された者もいたとか」
「だが、ここは地球から観測限界を越えた遠距離にあるはず、地球から旅立って偶然同じ星に流れ着くはずがない」
「私たちの船のほうが性能が良かったんだろう。弦転跳躍に巻き込まれたのさ」
骸の王の言葉は端的だった。技術者らしく説明がなおざりな気配がはしばしにある。僕は椅子の一つに腰掛け、彼との距離を示すように机の上に拳を置く。
トムとクーメルは部屋の隅に下がっている。警戒は解いていないようだが、口を挟まず押し黙っていた。
「もう少し詳しく」
「弦転跳躍とは、言わば二点間に築かれる高次元の下り坂だ。その設営距離と速度は重水炉の規模に依存する。そして光速度を越える移動とはいえ絶対的な時間は経過している。後から似たような方向に弦転跳躍がなされた場合、設営された坂道ごと巻き込まれる可能性は指摘されていた。めったに無い事故だが。まあ、私たちの世代では安全策が講じられていたよ」
「つまり、僕たちの船はあんたたちの作った下り坂に飲み込まれた……」
「かつて行われた跳躍を記録しておき、十分な距離を離せば防げる事故だ。巻き込まれる可能性があるとすれば、無届けで行われた跳躍があった場合だろう。それでも天文学的な確率だが、まあ不運だったな。放り出された地点と相対速度は同じはずだが、私たちの船はそこから加速と減速を行えたからね。君たちは重水炉の電力を絞り出されて、慣性航行のままでここまで来る羽目になったというわけだ」
あの数え切れぬほどに永い漂流が、この星での何世代にも渡る旅路が事故の結果だというのは受け入れがたいものがあったが、では彼らの境遇が僕たちよりマシだというのだろうか。彼らも結局は漂流していただけではないか、そのようにも思う。
「最果ての四王たちの素性が聞きたい」
「君たちと似たようなものさ。我々は二組の夫婦だった。雨の王と森の王が夫婦、そして岩の王が私の夫だった。岩の王が地形造成を担当し、森の王が植生を、雨の王は天候を、そして私が生命輪環システムを担当していた」
担当していた、という言葉に僕はひそかに眉をしかめる。
やはり神様気取りではないか。という気分だった。ひとつの星の造成を、たった四人で行おうというのか。しかし僕たちがそれを言える資格もない。結局は人類すべて奢っていたのだ。弦転跳躍というハシゴを手に入れ、どこにでも登ってやろうという悪童の時代だったのだ。
「生命輪環システム……なぜ僕までそれに巻き込んだ」
「そのシステムは個体をIDで管理している。人間は自動的に登録されるよ、当たり前だろう。もっとも保育機で育てられることを前提としていたので、構築されるのは生後4週目相当の赤子の状態だがね。もう少し成長した状態で生まれてもいいんだが、生命倫理との兼ね合いというやつだ」
外套は身を揺するように見えた。苦笑したのだろうか。と僕は思う。
「時間が空いたのは、君の死亡届が出ていなかったからだ。君は死亡から復活まで90年かかったわけではなく、この星に登録されてから100年で再生されたのだよ。そういう設定になっている。私は君の死と再生には関与してない。クロック数を落として眠っていたからね」
「その事はもういい……。あのレベルアップのシステムは何なんだ。なぜあんな奇妙なシステムを」
「よくできてるだろう。新しい味覚をトリガーとして自己進化を起こすシステムだ。猫たちの活動範囲の広がりと、文化的成熟度がレベルに反映されるようにしてある。本来、最初はちょっとした虫や小動物などを食べてレベルアップするはずだったが、雨の王が活動を止めていたために地上が荒れ果てていてね。
虫がいなかったろう? 虫やミミズも一応は再出現しているのだよ。ただし生存に適した環境でなければすぐに死んでしまい、繁殖できないんだ。ある程度環境が戻ってくるまでは見つけられなかっただろうね」
骸の王はどこか得意気だった。黒髪を鷹揚にかきあげる科学者、そんなイメージが浮かぶ。
「岩の王はなぜ猫たちと敵対した」
「む……」
僕の問いに、骸の王ははじめて言いよどむような沈黙を見せた。部屋の四隅にある角灯にて、じりじりと灯芯の爆ぜるような音がしていた――。




