第五話
天の一角に影が現れ、一瞬で翼と脚を備えた姿となって砂地に突き刺さる。
「うわっ!」
爆風のような衝撃。スイカの蔓と葉が風に吹き散らされる。
それは古いフィルムで見た古代の飛行機か。あるいは伝説上の異形か。
「――ドラゴン」
言葉が口をつく。
僕たちの時代、そのようなフィクションに浴することもなくなった時代においては稀少な語彙。しかし、その形容が記憶の底から湧き上がって怪物に合致する。
そいつは全身を砂色の殻に覆われている。まるで犀か栄螺か、あるいは岩の化身のような皮膚。広げた翼膜はやはり砂色、コウモリのそれに似ているが、片方だけで10メートル以上ある。翼膜は大きく展開され、先端にある鉤爪がスイカを踏み砕く。
特徴的なものは尾だ。サソリかムカデのような連節の尾は遙か後方にまで伸びている。それぞれの節は車のボンネットのようなパネル状になっており、一枚で人が完全に隠れるほど大きい。その平たいパネルがおよそ50枚以上も連結。どのような筋肉構造をしているのか、重量を感じさせぬ動きで宙を舞い、ドラゴンの体を取り囲むようにしなやかに動く。大蛇の尾か、あるいは猛獣使いの鞭のようにも見える。
「こ、これは、こんな巨大な生物が……」
ドラゴンは周囲を逃げ惑う猫たちを睥睨し、そして一度喉の下を膨らますと、叫び声を放つ。
音圧。
体の表面が剥がされるような叫び。感覚が消し飛ばされて三半規管が混乱し、僕は重力の方向を見失って膝をつく。
猫と小人たちは金縛りにあったようにその場に転がっている。ぴくぴくと手足を震えさせ、口から泡を吹いているものもいる。
尾が。
その長大な尾が振り払われ、スイカの園の外周をぐるりと取り囲むように疾走る。そして波打つように砂を叩くと、数十の黒猫と小人たちが打ち上げられる。
「なっ――」
ドラゴンが俊敏に首を伸ばし、宙に浮く小人たちに食らいつく。槍の穂先のような、目にも止まらぬ速度で伸長する頸部。猫たちがあっという間にその数を減らす。そして尾がさらに周囲をのたうち、砂を巻き上げると同時に地面に潜りかけていた猫たちを宙に放り投げてドラゴンの眼前に運ぶ。
「や、やめろ!!」
叫ぶが、しかし僕には何の装備もない。武器など船に積んでいないし、こいつの外殻を傷つけられるような工具も手元にはない。
ドラゴンは僕の言葉など意に介さず、凄まじい速さで小人たちを食らっている。
ドラゴンはほぼすべての小人を食べ終わると、残っていたスイカにも首を伸ばし、瞬間的に顎で捕らえて口腔に取り込む、ほぼ丸呑みのような速度だ。
「くっ、ファミー、僕の下に隠れろ」
「にゃっ、にゃあ……」
その場に立ち尽くしていたファミーを組み伏せ、体の下に隠す。彼らにこんな強大な敵がいたとは。そして僕は、このドラゴンからファミーを守れるのか。
ドラゴンを見る。その爬虫類に近い目が僕たちを見ている。おそらくは、僕の下にいるファミーを。
ぐるう、とドラゴンが声を上げる。翼膜が蒼天を衝いて広がり、真下に打ち付けられる瞬間。再びの爆風。身体を絡みつけていたスイカの蔓が引きちぎられ、僕とファミーが数メートルも吹き飛ばされる。
「ぐあっ――!」
数瞬の意識の喪失。はっと目を覚ましたとき、もうドラゴンの姿は影も形もなかった。
周囲には無惨にも蹂躙されたスイカ畑。わずかな数の黒猫がまだ硬直したまま転がり、スイカも葉も広範囲に散らばっている。
「なっ……なんてことだ。この星に、あんな凶悪な生物が」
あの巨大さ、攻撃力、およそ生物の常識を踏み越えてるようにすら見える。
だが驚嘆に呆然自失することは許されない、僕は現状を把握せねばならなかった。
この惨状、絶望的な絵であると同時に、ドラゴンの残した貴重な情報でもある。あれがどんな行動原理を持ち、どのような習性を持つのか。
「……猫が多く残っている。対して小人はほぼ全滅」
尾の風圧で周辺の猫たちが投げ出されたとき、そこには黒猫と小人が混ざっていたはずだ。
いま、転がっているのは黒猫ばかり。
「小人だけが狙われたのか」
確かに小人のほうがずっと大きい。ドラゴンが補食のために襲ってきたのなら、標的にするのは当然だ。
そのとき、周囲の地面がもこもこと盛り上がり、そこから黒猫が這い出してくる。
「んにゃあー……」
「……?」
隠れていた個体かと思ったが、違う。
妙に数が多い。
次から次へと。数十匹もの黒猫が這い出してくる。確かにこの場所には黒猫と小人が集まっていたが、あれだけ食われたというのに、まだこんなにいたのだろうか。
猫たちは互いに何かを確認するように鳴き交わし、気絶していた猫たちをさすって起こすと、砕かれて散乱したスイカをうろうろと歩き回って探し、そのカケラをもそもそと食べ始める。
「――これは。襲撃の前と、数が変わっていない」
おおよそだが、襲撃の前にいた黒猫と小人は合わせて40体。今は黒猫だけが40匹ほどいる。そしてスイカの破片を食べて、また何匹かが小人に成長する。
「まさか、これは」
食物連鎖、その言葉を思い出す。
食物連鎖においては、まず植物が育ち、それを草食動物が食らい、最後に肉食動物がそれを食らう。
実際にはもっとずっと複雑だが、おおよその概念としては、太陽エネルギーを上位捕食者に伝達するためのシステムと言える。
この星では、黒猫がスイカを食べて小人になり、それを上位捕食者が捕食する。
「……そして、食べられると黒猫に戻る? そんな馬鹿な。そんな、泡のように湧いてくるなんて」
「ちょっとだけ、覚えてるにゃあ……」
ファミーは黒猫たちの頭を撫でていた。葉の絨毯の上に小さくうずくまり、言葉をこぼす。
「ファミーたちは、大きな生き物に何度も何度も食べられたにゃ。そのたびに砂の中に戻って、新しい身体をもらって、また浮いてくるにゃ」
「……」
「ずっとずっと前から、そうやって、スイカを食べて、小人になって、日なたぼっこして、また食べられて……」
ファミーの手は震えていた。心の不安を察知したのか、撫でられていた猫はするりと背骨を歪めて逃げていく。
「で、でも、でもにゃ……」
ああ、そうか。
僕はその時、ようやく気づいた。ファミーの身に何が起こっているのかを。
この星では、僕たちの知る生命とは違うルールが支配している。
黒猫たちの……この形容が正しいかどうかはわからないが、「魂」のようなものがあるとする。
地中にはおそらく彼らの器となるような肉体があり、魂となった猫たちはそれに取り付き、再び地上へと浮かび上がってくる。
この砂の世界。砂漠の下にあるのは想像の及ぶよりもさらに深淵なるシステムなのだろう。
そして肝心なことは、ファミーはもはや小人ではないということ。
多くのものを食べて成長し、その身体は14、5歳にまで成長している。ずんぐりとした体型のためにやや身長は低いが、社会によってはもう大人と言えるほどの成長を得ているのだ。
ここから仮に黒猫に戻ったならどうなるか、ファミーの自己認識の中でどのような意味を持つのか。
それは、奇妙で残酷な想像だった。
「そうだったんだね、ファミー」
僕は恐怖に震えているファミーの身体を引き寄せ、その震えを抑えるように強く抱きしめる。
「君たちには、死がないんだね」
彼らは永続の存在なのだろう。捕食されて肉体を失っても、また地中に戻って受肉する。猫と小人という器を行き来する彼らは無垢であり、永遠に流転する穢れなき魂なのだ。
だが、成長したファミーは違う。
彼女はすでに多くの知識を身に着けた。もし捕食されて魂だけになれば、そして黒猫の身体に戻れば、その小さな脳には蓄えた情報のすべては入り切らない。彼女が自分自身だと認識している精神は、死ねば永遠に失われるのだ。
「こ、怖い、にゃ。ファミーが、ばらばらになって、どこかへ、き、消えて」
生命活動とは経験であり、生命とは己を己だと意識する知性である。
蓄えた知識と経験の喪失、黒猫たちに死があるとすれば、それこそが死なのだ。
「怖がらないで、ファミー」
ひしとその体を抱き寄せ。訴えかけるように言う。
「怖くないよ。僕たちも同じなんだ。誰もみな限りある命を生きる旅人、いつか滅ぶとしても、僕たちは美しく生きて、貴重な体験を積み重ねる。そしてそれは記録に残って、後世へと受け継がれる、それこそが生命の――」
それは、ファミーを慰めるために手当たり次第にかき集めた言葉に過ぎなかった。
だが、その中に示唆がある。僕への示唆が。
(受け継ぐ?)
(そうだ、彼らには人間並みの知性がある、捕食者から身を守りながら知識を蓄えれば、やがて文明を持つかも)
(もし文明が高度に育てば、やがて弦転跳躍機の燃料も、いや宇宙船だって)
(だが、船の食料はもうほとんどない、これから新しくファミーのような個体を育てることは)
それは時間にすれば数秒の混乱。
電光のように閃いたその思考は、やがて藁のようにしおれる。そのアイデアを実現するには、越えねばならぬハードルがあまりにも多すぎるのだ。
だが……。
「ダイス、あいつはきっと、また来るにゃ」
ファミーの言葉に、僕のとりとめのない思考は打ち切られる。
そうだ、あいつはまた来る。あいつはファミーを見ていたから、猫たちの中で比類なきほどに成長した個体を。
では僕に何ができるだろうか。
およそ人智を超越した怪物の前で、僕は……。