第四十九話
この6年間、取り組むべきことは多かった。
まずは水の浄化である。緑土には雨がまったく降らなくなっており、地面に染み込んだ水は下層の翡翠に抜けているらしい。
よって水分といえば地表に出た排水パイプからの水だけが頼りだった。
この水は聞くところによると、翡翠の浄水施設から出た排水らしい。生活排水なども混ざっているためにスイカの外皮が含まれている。それをさらに飲み水に加工するわけだから、まあ病気にならない程度に処理できれば御の字というべきか。
緑土での燃料といえばわずかに確保できている固形燃料とガソリンぐらいしかなく、蒸留水を作るにはまるで足りない。濾過装置を作るには活性炭もセラミックフィルターもない。行き着いた先は基本に立ち返っての沈殿と微生物処理である。
野良ドラゴンから手に入れた金属素材、廃墟から集めた資材などで大きめのプールを作り、まず第一槽で汚泥を沈め、第二槽では手製のエアーポンプにて空気を送る。つまりばっ気槽による微生物処理である。
そこへ次亜塩素酸を投入して消毒する。単なる下水処理システムの真似事だが、これで水を緑土で煮沸する時間はかなり短縮できた。ちなみに煮沸には燃料のほかに、磨いた金属板を用いた集光装置なども使われる。
目指していたのはスイカの栽培である。土が完全に汚染されていて、種からスイカを作ることができなくなっていた。おそらくは土壌が酸性に傾きすぎている。ゴミを燃やした灰を土壌にすき込み、少しずつ浄化していくしかない。
スイカの種は翡翠の商人からも買えるが、50ウォルメで10粒という法外な値をつけてくる。取引はその日も紛糾していた。
「んにゃー、めちゃくちゃ高いのにゃー、スイカひと玉で2000ウォルメは高すぎにゃー」
「インフレが進んでるのにゃ、嫌なら買わなくてもいいにゃ」
商人は装甲車から一歩も出ずにそう言い、トムは憤慨して跳びはねる。
緑土の猫たちと取引に来る商人自体がかなり少数派である。よく言えば変わり者、悪く言えば異端、あるいは翡翠ですら弾かれた鼻つまみ者のような存在らしい。
買い取りの相場は金属ごみが五キロで10ウォルメ、使用可能なエンジンが一つ150ウォルメ、野良ドラゴンをほぼ完全な状態で仕留めたなら一万ウォルメ、しかしそんな例はこの六年で一度もない。おもな現金収入は建物を解体した廃材である。そのため定期的に本拠地を移さねばならず、なかなかじっくり土壌改良に取り組むことができない。
そんな法外な相場でも、年に10個ぐらいのペースで商人からスイカを買わねばならない。種を取るのもそうだが、猫たちの貴重なレベルアップの機会なのだ。
「芯果までとは言わなくても、糖赤や良水まで遠征してスイカを買ってこれないのかな」
そう提案したこともあるが、キャンプに集まった猫たちは一様に首を振った。
「だめにゃ、スイカは完全な配給制で、生体認証に紐付けされたIDがないと手に入らんにゃ」
「商人のスイカはたぶん軍の横流し品にゃ」
「白花の裏マーケットなら買えるって聞いたにゃ」
「うにゃー、でも偽物が多いにゃ、原油から作った合成スイカはレベルアップできないって聞いてるにゃ」
「しかもくそまずいにゃ、石鹸水に浸けたケーキみたいな味するにゃ」
「にゃー! その例え分かるけどめっちゃ気持ち悪いにゃー!」
聞けば聞くほど、地下世界の猫たちの現状に暗澹たる思いがする。しかも猫たちは緑土に出てきた時期も、出てきた理由も境遇もバラバラであり、見てきたものが違うために意見がまとまらない。
しかし共通見解として、地下世界の下層に向かうのは大変なことだ、という認識だけは一致していた。
それぞれの階層へ降りる道は限られており、出ていくのはほぼ自由だが、降りていくには大変な手続きや手間暇、そして袖の下などが必要だという。その門がもっとも狭く強固なのは、芯果と糖赤の間にある門なのだとか。
ただし翡翠と緑土の境目だけはまた別で、市民は出ることも入ることもほぼ不可能。商人は何らかの裏技で通っているらしい。
「芯果の猫人は五万人、スイカの生まれてくる量は一日あたり五万個と言われてるにゃ」
トムが言う。その日はキャンプのみんなで火を囲み、商人から買った酒を飲み交わしていた。酔うにはまるで足りないが、何人かの猫が体を震わせてレベルアップを果たす。
四角い金属缶の中で固形燃料の火がちろちろと燃え、周囲の猫たちを赤ら顔にして照らし出す。
トムが芯果の話をするのは珍しいことだった。彼はかつて芯果にいたらしいが、そこに愛想をつかして出てきたとは聞いている。しかしどんな生活をしていたのか、何に不満があったのかは話さなかったし、僕も聞くことはなかった。
僕はトムの方を見て言う。
「じゃあ、糖赤より外側の猫たちは何を食べるの?」
「もちろんスイカの皮だにゃ。一個のスイカは猫の一日ぶんの食料になるけれど、厳密に言えば皮や蔓や葉までをすべて消化できれば1.7人の猫を養えるにゃ。そして現状、緑土までの全ての猫たちの合計が10万人弱と言われてるにゃ」
「それは……」
言うまでもなく、世界の食糧事情は崖っぷちというわけだ。排水パイプから外皮である緑土以外のもの、つまり葉や蔓が流れてこないのは、下層の猫たちが全て食べてしまうからだろう。命をつなぐ最低限の量では、猫たちの繁殖衝動も起きにくくなるはずだ。
家畜化されている狼や牛、それに原油から合成された食糧などもあるらしいが、この世界に果たして家畜を養う余裕があるのか。それは生存を担保する食糧というより、特権階級の贅沢品ではないだろうか。
もはや野生の鳥やネズミも見なくなったし、そういえば虫も消えている。土壌を改善してくれる地虫たちはどこへ行ってしまったのだろう。
6年かかって、ようやく理解したことがある。
この星はやはり人造物なのだ、ということだ。
地球のように自然には元に戻らない。多種多様な生態系は存在しない。何よりも大地より遥かに大きな海がない。塩の大地はかつて海のあった時期があることを物語るが、それも恐らくは最果ての王たちが用意した人工的なもの、一度失われてしまえば二度とは戻らないのだ。
かつてのカラバ王国には豊かな湖があり、雨があり川があった。しかし、再びあのレベルの循環を取り戻せるだろうか。おそらくは無理だろう。地下世界の築かれた今となっては、水は一つ下層の翡翠に落ちていくだけだ。
「なぜ芯果の猫たちは土壌を改良しようとしないの? 地上に出てきてスイカを栽培すれば、食糧を増やせるはずなのに」
僕の呟くような問いに、キャンプの猫たちは顔を見合わせる。
「にゅー……たぶん、みんな疲れちゃったんですにゅう」
クーメルが言う。今の彼女はレベル41、もうすぐ猫人となるためか、その体に性分化が起ころうとしている。しなやかな体の中に女性らしい柔らかさが潜み、伝令猫の血を引くために背は高く、腿が太く張りつめている。
「最果ての四王との戦いと、優秀な猫たちが月と一緒に去ってしまったことで、残った猫たちは脱け殻のようになってしまったにゅう。芯果に閉じ籠って、ずっと音楽と光だけを浴びて生きてるにゅう」
「うにゃー、あんな連中どうでもいいにゃ、いつかは緑土にもスイカが実って、ドラゴンも倒して、みんな地上に出てくるにゃー」
トムは前向きだった。彼は毎日の仕事の他に剣の訓練もして、土壌改良と水の浄化の試行錯誤を繰り返している。
そして彼は好奇心旺盛だった。僕はトムに請われるままに科学の話を、歴史の話を、そして地球に伝わる童話と小説の話をした。
「にゃー、ダイス、またあの話が聞きたいにゃー」
キャンプの一人が言う。彼は白花の裏社会で汚れた仕事をしていたらしいが、この緑土はどんな猫でも受け入れるし、その過去を問うこともない。
「どの話が聞きたいの? 「外套」かな、それとも「異邦人」?」
「にゃー、本の上にレモン置いてくる話がいいにゃー」
「にゃー、あれは泣けるにゃー」
「違うにゃ、あれは笑う話だにゃ、レモン食べたいにゃー」
まあ猫たちがどう感じても自由だけど。
そして僕は思い出しつつ話をする。数えきれぬほどの時間と距離を隔てた、東洋のとある小説家の作品を暗唱。言葉は夜の底でそっとほぐれて、猫たちの頭の耳を撫でるように流れる。
船の中で何度も聞いた話とはいえ、細部の修飾までは覚えていない。あらすじをなぞるだけにはならぬように、抑揚や身ぶりを交えつつ話した。
「うーん、何度聞いてもいいにゃー」
「ノスタルジックなリテラシーがアイロニーだにゃー」
「君たち意味わかって言ってる?」
そして夜も深まり。
わずかな酒香に宴の気配を残し、夜気がそっとキャンプに降りる。
猫たちが次第に船をこぎ、あるいはそっと立ち上がってコンテナの中に戻ろうとするとき。
「うにゃっ……」
ふと、寝転んでいたトムが起き上がる。その小さな体が緊張感を放つ。
僕は話していた童話を中断してトムを見た。すでに固形燃料の火は蝋燭ほどに弱まり、わずかに金属缶の内側を照らす程度である。
宴会に居並ぶ猫もほとんどは寝入っており、寝息が空気に溶けてゆく。
「どうしたの、トム」
「何か聞こえるにゃ、地面から」
まさか徘徊しているドラゴンだろうか、僕は地面に耳をつけて意識を集中する。
確かに遠く響く音がある。海鳴りのような、地震のような……。
「うん、聞こえる。かなり近い……おそらく1キロも離れてない」
「行ってみるにゃ」
トムは懐から小型のライトを取り出し、肩に装着する。僕も立ち上がってトムの後を追う。
相変わらず夜に歩くのは難しい。猫たちほど夜目が効かないのは確かだが、そもそも夜空に星が少ないのだ。ここは天の川銀河よりもずっと小さな銀河であり、月を失った今ではその寂漠は胸を打つものがあった。暗がりの空にはまばらな星。だがこれがこの銀河の空だ。猫たちを照らす星のすべてなのだ。
そして、暗い砂地の果てにそれはあった。
最初に受けた印象は、田舎の安アパートのようなシルエット、である。
夜闇の中にどんと鎮座する箱形の物体。高さは12メートルほど、左右は70メートル程度だろうか。横に長い印象がある。
「これは……」
近づくにつれて、その細部に人工的なものを感じる。角は直角であり丸窓があり、どことなく鋭角な方が前だろう。そして尾部にては砂と接するあたりに、魚の尾ひれのような造形がある。
これは幻だろうか。
かのアララト山から、ここまで流れ着いたのだろうか。
僕はその側面に手を触れる。スイカの木ではない樹木の手触り、もはや忘れかけていた、ざらざらとした質感。
存在は知っている。世界一有名な書物に出てくる乗り物だが、現物を見た人間が存在するのかよく知らない。だが僕の知識で、これを言い表す言葉は一つしかない。
それは、方舟であった。




