第四話
【二十三日目】
シオウの容態は良いとはいえない。まず目立つ症状は体温低下だ。
そして記憶障害と意識混濁、衰弱と四肢のしびれ、船の中から少しずつ現れていた症状が、ここへきて一気に噴き出したように思える。
原因ははっきりしている。自壊遺伝子が抑制できていない。つまり地球での遺伝子処理が不完全だったのだ。
かつては老化とか老衰とか言われていた、人間にごく自然に起きていたという自然な自壊機能。僕たちはそれを遺伝子処理によって抑えるが、そのスイッチとなる遺伝子は数百に及び、個体によっても少しずつ違う。まれに処理の不完全性が生まれ、肉体が自壊する症状が出ることになる。
この船の医療設備では遺伝子操作は不可能だ。症状が出た時点で本来なら休眠カプセルで眠るべきなのだ。
「もうあれには入りたくないの」
だが焦点を正確に結ばぬ目で、シオウははっきりとそう言った。
「シオウ、でもこのままじゃ死ぬかもしれないんだよ」
「誰もみな、最後には死ぬのよ」
シオウは端的にそう言う。それは門を閉ざすような断定的な言葉。あるいは、彼女自身が何万回も己に言い聞かせていた言葉だったのか。
「大丈夫、怖くはないの、ずっと以前から覚悟していたことだもの。眠っても、どうせ地球には戻れないんでしょう?」
「……」
「私はここで眠りたい。ここにはあなたもいるし、ファミーもいるから」
シオウは虚空に腕を伸ばす。僕はそれをそっと掴み。彼女の頬に頬を寄せる。
「わかったよ。僕がそばにいるから、せめて君の苦しみを取り除かせてくれ。最後まで安らかに過ごせるように努力するよ」
「ありがとう、あなたと一緒になれてよかった。あなたがいたから、この長い旅も耐えられた」
僕はまたゆっくりとシオウを横たえて、そっと毛布をかける。バイタルをチェックするが、表面上の数値は安定している。だが少しずつ体温が落ちて、代謝が衰えている。船のデータバンクにあった病状のデータを正確になぞり、もはや止めようもない急速な老化。いまは意識混濁だが、やがて体温が28度を切る頃に人事不省に陥り、脳幹が機能低下を起こすと呼吸器系が衰え、眠るように意識を失う。人工呼吸器で長らえたとしても、24時間以内に脳死が訪れ、やがて完全な死を迎える。
おそらくは、あと数日。
僕も彼女の死を受け入れるべきなのだろうか。僕たちの時代に自然死はほとんど存在せず、誰かの死に触れた経験もないというのに。
何かが。
手に触れる感覚。
「ダイス、地球に帰りたいわ」
シオウの手が僕の手首を掴んでいる。やはり焦点を結ばぬ目で、うわごとのように言う。
「生まれ故郷がいい。森と牧場と、ささやかな湖に囲まれた村なの。両親は厳しかったけれど兄弟はみな優しかった。野山を馬に乗って駆け回って、裏庭の楡の木に登って、サンザシをむしって食べた。内緒でウサギを飼っていて、母の焼いてくれたケーキが食卓に並んだの。冬の備えはとても忙しくて、私もケーキの飾り付けを手伝ったの」
シオウの言葉は前後の脈絡がなく、思いつくままを並べているようだった。明らかに意識が不鮮明になっている。
「死にたくないの。もう一度地球に帰りたい。ダイス、あなたを私の家に招待して、あの子に産着を着せて、クリスマスのパーティを」
頬に涙が伝った。
ああ、彼女の言葉。それは果たしてせん妄の中でのうたかたの言葉か。それともこれこそが彼女の真実なのか。
今まで一度も、この長い長い旅の間に一度たりとも帰りたいと言わなかった彼女が、こうして僕の手を掴み、故郷の話をして、帰りたいと懇願している。この姿こそが彼女の本音であり、抑えていた本当の感情ではないのか。たとえ意識混濁の中で生まれた偶発的な言葉だったとしても、僕はその言葉に涙を禁じえない。
一つだけ確かなことは、彼女の心はこの星にはなかった。
彼女は猫ではなくファミーを見ていた。大地ではなく星を見ていた。人生の99%以上を宇宙で過ごしたというのに、彼女の魂はまだ地球にあるのだ。僕と出会う以前の、黄金に輝いていた少女時代のままなのだ。
【二十五日目】
シオウの容態が良くない。
シオウがスイカが食べたいと言ったので倉庫から出す。僕も最近は毎日のように食べているが、飽きのこない優しい味だ。種を飲み込むのは慣れてないが、栄養は種と皮に集中しているので、何か料理に加工して食べようか、そんな事を考える。
果肉を一口大に切っていると、ふと違和感に気づく。
ファミーの姿が見えないのだ。ほとんど四六時中シオウのそばにいて、そうでない例外的な時間は僕のそばにいたのに。
しかし気配は感じる。船内を探すとすぐに見つかった、シオウの寝ている寝室の隣で、荷物の影にうずくまっていたのだ。
「んにゃあ……」
僕を見て、物悲しい声を上げる。
「どうしたんだ? 体調でも悪いのか?」
「んにゃっ……シオウ、シオウは、その、よくない、よく」
もう会話は完全にこなせていたはずだが、ファミーの言葉はたどたどしい。
そこで気づく。彼女にずっと言葉を教えていたのはシオウだ。彼女との会話の中に「死」という概念が無かったので、ファミーにそれを表現する語彙がないのだ。
「……ファミー、シオウはね、死ぬんだよ。いなくなるんだ。この世から」
「し、死ぬ、にゃ……?」
「そう……いなくなる、もう動かなくなる、肉体は滅び、魂だけになってどこかに去る、それが死だよ」
僕はそっとファミーの頭を撫でる。人間の頭髪のようだが、どことなくふわふわと軽い感触がある髪だ。
「にゃあ……」
ファミーは急に震えだした。膝を抱えて身体を小さくし、ぶるぶると震えている。顔は真っ青になっている。
「大丈夫。怖いことじゃないんだよ。神様のみもとに行って、いつか生まれ変わるんだよ」
僕自身、人の死に直面することに慣れてはいないし、死に立ち向かう宗教的なバックボーンがあったわけでもない。ファミーにするには早すぎる話だったかも知れないが、彼女に死を教えないことは不誠実なことにも思われた。
「ふ、ファミーは、死ぬって、知らなかったにゃ」
「そうだね。でも、いつかはみんな神様のもとへ行くんだ。寿命があるからこそ、みんなそれまで精一杯生きるんだよ」
ファミーは大きく首を振る。何かを強く否定するような、拒むような動作だった。
「知らなかったにゃ……」
「……」
思えば、この時の僕はなんと罪深いことをしていたのか。
こんな小さな子に死の概念を教えた、それだけではない。
僕はまだ何も知らなかったのだ。この星に、砂漠と黒猫たちの世界に存在する。超常なるルールの存在を。
【二十六日目】
シオウの容態は良くない。あらゆることの準備をする。
ファミーが船の外に立っていた。じっと砂漠に視線を注いでいる。
何をしているのかと声をかける直前、ファミーのほうから振り返って僕を呼ぶ。黒い猫耳がぱたぱたと手招きするように動く。
「ダイス! あっち、あっちにゃ!」
指さす方を眺めれば、緑色の領域。しかも、その中にぽつぽつと黄色い点が見える。
「あんなに近くにスイカが……しかもあれは」
花をつけている。黄色く可憐なスイカの花だ。
僕は片時もシオウのそばを離れたくなかったが、その黄色い花。砂漠に散らばる琥珀のようなきらめきに目が惹きつけられる。
あの花を摘み取り、彼女の枕元に活ける、それは実に魅力的な想像だった。
「よし、採集に行くか。ファミー、おいで」
「んにゃっ」
砂地を小走りで進むことしばし。
それはなかなかに立派なエデンだった。10メートル四方ほどの大きさに緑の葉が広がり、スイカが数十個も散らばっている。
すでに何十匹もの黒猫が集まっており、スイカを囲んで宴会を開き、そしてむくむくと生長して小人に変わっていた。
「実はまだ倉庫にあるから、花だけもらおう。ファミー、大きくて形の良いやつを選んでくれ」
呼びかけるが、応答がない。
「? ファミー?」
彼女は振り返った先にいた。紫のワンピースが砂漠を渡る風になびいている。彼女は首を高く振り仰ぎ、太陽と反対側の空をじっと見つめている。
「にゃっ……」
その体がぶるっと身震いする。いつも日向の猫のように緩やかで、黒猫たちと同じように、人を全く怖がらないファミーが。
刹那。
ナアアアアアアアオオ
鳴き声が響く。それはスイカの園にいた小人の一人。口を思い切り開いて牙をむき出し、喉の奥から大砲を放つような声。
「――!?」
周囲の猫たちが一斉に散らばる。我先にスイカの園を出て、頭を砂に突っ込んで後ろ足で砂をかく。黒猫も小人も同じように身を隠そうとする。
「ダイス! ダイス!!」
ファミーが僕の腕を引いている。体重全部をかけて腕を斜め下に引くような動作。
「どうしたんだファミー」
「あ、あの、にゃああ、あれ、お、大きな。しっぽ、空、大きな飛ぶ、にゃあああああっ!!」
うまく言葉が出ないことがもどかしいのか、首を振りながら叫ぶ。
その時は分からなかった。ファミーは驚嘆すべき速度で言葉を身に着けたが、それはほとんどがシオウとの会話による学習だ。シオウ自身の過去の話や、子供に語りかけるような他愛のない冗談の中に、「敵」とか「恐怖」とか「怪物」という語彙が存在しなかったのだ。
そして、それは来る。