第三十八話
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「ダイス、妙なことに首を突っ込んでるぞにゃ?」
学問所の図書室、ホームジー先生の第一声はお叱りだった。
「事情は詳しく説明します。ホームジー先生にはその試料の分析をお願いしたくて」
ホームジー先生の前には機械がある。知り合いの科学猫から借りたものだそうで、先生はまず僕の渡した試料を苛性ソーダに溶かし、メタノールと強酸で下処理する。
「噂になってるぞにゃ。どこかの団体の集会に騎士様が乗り込んでの大立ち回りになったとか。なんでも怪しい薬を使う、いかがわしい団体という噂ぞにゃ」
「それは誤解です」
自分でも驚くほど反射的な反応だった。
「シオンは……その団体の代表はこの国のことと猫たちのことを考えています。僕は彼女たちの是非を定めるにはあまりにも付き合いが短いけれど、でも世間に流れてるような噂は誤解なんです。それを見極めるためにも、僕も選挙戦に関わる必要があるんです」
「ふうむ……」
ホームジー先生は僕を振り返り、そのだぶついた皮膚の隙間から覗く目で、僕を真正面から見つめて。
そして一見関係なさそうなことを言う。
「ダイス、この選挙戦についてどう思うぞにゃ」
「……? どう、というと」
「今後50年の国教を国民が決める選挙、それは画期的なことぞにゃ。でも歳を取ると、何にでも裏を思わずにはいられんぞにゃ」
「……」
ホームジー先生は試料を溶かした溶液を機械に注入する。それは内部に螺旋を描くチューブが入っている機械で、試料はガスの力で押し出されてチューブを進み、加熱によって質量ごとに分離してさらに進む。そして機械の終端でろ紙に至る。
「この選挙はただの撒き餌であり、真円に反するもの。岩の王との戦を嫌う猫を見つけ出す作戦。そうとも考えられるぞにゃ」
「……それは」
その発想は、実のところ無かったわけではない。
というよりも、国教を選挙で決めるという感覚自体が、僕にはあまりにも進歩的過ぎるものに思えた。猫の国ならばそんなこともある、その言い方で片付けられることだろうか。
「だからといって、黙ってはいられないんです」
だが、言葉の霊が僕に取り付いたかのように口が動く。
「たとえ選挙戦が無かろうと、僕は彼女に協力したと思います。彼女の教えが正しいと信じられたからです。所詮、この世に完全に定まったものなど一つもない。何を信じるか、何に祈りを捧げるのか、最後の最後は自分で選ぶしかない。そうでしょう?」
「……そこまで言うなら、もう止めはせんぞにゃ。ただし、学問所にはちゃんと来て、一年で卒業するぞにゃ」
ホームジー先生は立ち上がり、出来上がったろ紙を窓の明かりに透かして眺める。含まれている物質の質量ごとに、折れ線グラフのような染みができていた。
「うむ、おおむね成功ぞにゃ。ガス分離式の微量検査、存在は知ってたけど、機械を借りられてよかったぞにゃ」
「すごい……こんな機械が発明されていたなんて」
ガスクロマトグラフ分析法、そんな言葉が浮かぶが、それは前世の知識だなと分かったので口には出さなかった。
「これで成分が分かったんですか?」
「まだぞにゃ、ここから色々なものを分析機にかけて比較し、何が含まれてるのかを見極めていくぞにゃ」
「よろしくお願いします」
僕はふたたび頭を下げる、ホームジー先生は垂れ下がった猫の耳を撫で付け、窓の外を眺めて言う。そこからは演説の声がしていた。このところ、演説の声を聞かない日はない。
「わしも、俗世と無縁でいられる時期は終わったかも知れんぞにゃ」
「……?」
「真円は好かんぞにゃ。かといって他の連中もうさんくさくて耳を塞いでたけど、選挙を無視して引きこもっているのが正しいとも思えなくなってきたぞにゃ、とうせならダイスのやることに乗っかるぞにゃ」
「先生、それは」
僕の問いかけに、ホームジー先生は重々しくうなずいてみせた。
「何かあったら相談するぞにゃ、できるかぎり協力するぞにゃ」
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囚われたシオンがどうなっているかの情報は入ってこない。
カラバマルクの都では選挙戦が熱を帯びてきて、真円の応援はますます大きく、そうでない団体にも熱心な信徒が付いたりして過激さを増している。
「よろしいですかにゃ、数こそが真理なのですにゃ。この世の全ては一つ二つと数えられる。言葉よりもたくさんのものを数で表現できる。よって数こそが世界の支配者なのですにゃ」
「いいや、全ての根源は心ですにゃ。一生をかけても言い切れないほどの巨大な数ですら心に思い浮かべることができるにゃ。よって世界の全ては心にあるのですにゃ。ただ己の内面に向かって一心に祈るのですにゃ」
「ダイス、定期連絡にゃにゃ」
猫人と小人でごった返す広場にて、フードつきのマントで顔を隠したコジーが近づいてくる。猫を隠すなら猫の中と言わんばかりに、僕たちはよく公開討論を連絡場所にした。これならば事前に打ち合わせずとも落ち合える。
「城に出入りしている大工から話を聞けたにゃ。王城ヨルムンガルドには地下の階層があるけど、そこに何人かの科学猫が出入りしてるのを見たらしいにゃ」
「地下……そうか、王城の地下は掘ることが禁止されているんだったね」
「地下の存在は知られてたけど、シオンは大臣とか上級役人がいる上の方で活動してたから、地下は探してなかったはずにゃ。薬を作れる場所があるとすれば地下にゃ」
僕は周囲に役人がいないか警戒しつつ、壁際でコジーを抱き寄せるような体勢のままで言う。
「地下牢はあるの? そこについての情報はない?」
「地下牢はあるけど、そこは厳重すぎて忍び込めないにゃにゃ。出入りの業者に接触したけど、囚人の素性については知らないと言ってるにゃ」
犯罪者はおもに街の収容所か、城の地下牢に収容されるという。地下牢に入るのは大罪人か政治犯であり、基本的に出てくることは無いらしい。あるいは出てきた猫は塩の海を超えて追放されるとか、骸の王に引き渡されるなんて話もあるとコジーは語ったが、それは完全に噂だと思う。
「シオンを助けるには、やはり忍び込むしかないか。そのためには兵力を整え、地下の情報も入手して……」
「焦ったらだめにゃ。あたしらもさらに情報を集めるにゃにゃ」
ぽんと肩を叩き、コジーは人混みの中に消える。本当に煙となって消えたかと思うほど鮮やかな手際だった。
公開討論はまだ続いている。僕もマントの襟元を押さえ、その場を静かに立ち去った。
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何をするにせよ、兵力というものが必要だった。僕たちは本格的に兵士の育成を行うこととした。
集められたのは反戦団体のメンバー。反戦のためにテロの準備をしてるようなもので、何だか矛盾している気もする。しかし潜入捜査をするにせよ、選挙で全国を回るにせよ、戦える猫を育てておくことは絶対に必要だと思われた。
「とりあえず三人集めたにゃにゃ。戦士タイプの猫人は遠征隊に取られるか、そもそも反戦には興味がないのがほとんどにゃ。この三人はうちでも数少ない戦士タイプにゃ」
「がんばりますにゃー」
「護衛ならまかすにゃー」
「みんなの潤滑油として歯車を回すにゃー」
まだレベルの低い小人たちなので、なんだかバラバラな印象だった。まあ猫は大体こんなものだけど。
三人はともに剣士タイプだという。戦士タイプとは体が強くたくましく成長する猫であり、大きく分けて重戦士タイプ、弓手タイプ、そして剣士タイプとなる。
剣士タイプは戦場では重戦士タイプに劣るが、猫同士の戦いなら身軽に動き回って優位を握れるらしい。願ってもない人材というわけだ。
「ありがとうコジー、それからトムは見つかった?」
僕の言葉に、コジーは肩をすくめる。
「何度も言うけど、トムなんて昔話の中の猫にゃにゃ。確かに英雄にあやかってトムと名乗る猫はたくさんいるけど、本当のトムの生まれ変わりなんて聞いたことないにゃ。いちおう探してるけど期待しないでほしいにゃにゃ」
「伝説だと……100年前に破壊の王を倒して、また旅に出たとか」
「そうだにゃ、無限の魂があるからどこかで生きてるとは思うけど、カラバ王国にいない可能性もあるにゃ」
「そうか……」
僕の残念そうな様子に、コジーは少し声を柔らかくして言う。
「……なんでトムなのにゃ? 会ったこともないのに」
「そうなんだけど……昔から知っていたような気がして。なんだか、トムなら何とかしてくれるんじゃないかって、そんな気がするんだ」
「……まるで頼りになる友達みたいな言い方にゃにゃあ」
そうかも知れない。
トムを探しているのは、彼が伝説の英雄だからでも、頼りになる気がするからでもない。
ただ、会いたい。
会って、互いのことを話したい。
そんな漠然とした想いが、ぬるい湯のように心を満たす。恋い焦がれることと、溺れ死ぬこととの中間のような想いが……。
想念に沈みかける僕の耳に、コジーの声が届く。
「まあ探すのは続けるにゃ、ともかく今は目の前の猫に集中するにゃ」
「そうだね、じゃあ三人とも、名前を教えて」
「はいにゃー、コムスですにゃー」
「トトムスにゃあ」
「トームだにゃ」
僕は口元を手で覆い、重々しく言う。
「惜しい……」
「惜しいとかそういう話じゃないにゃ」




