第三十七話
たとえば、ある世界においては手を叩くと水が出てくる。
コップでも深皿でも置いて手を叩けば、空中から小さな滝が現れて器を満たす。
誰もそのことに疑問を持たないし、社会はその現象を組み込んで発展していく。
誰かが疑問を持つこともある。なぜ手を叩くだけで水が出てくるのか? と。
その言葉は長い長い議論の果てに否定される。
ある者は「そんなことを考える必要はない」と言い、
ある者は「これが自然の摂理である」と言い、
ある者は「神や精霊なる、不可知の存在の仕業だ」と断言する。
しかし結局の所、疑問を持つ人物もいずれは説得されるだろう。
現にその法則は健在であり、昨日も、一昨日も、昨年も、はるかな祖先の時代も、その法則はずっと守られてきたのだ。
仮にそれが世界の法則などではなく、きまぐれな透明の悪魔が水を注いでいただけだとしても。
そして、その透明な悪魔が実は数秒前にすべて死に絶えていたとしても。
きっと人々は、何の迷いもなく手を叩くだろう。
それは水槽世界という概念。
この世界が水槽ではないと誰に言えるだろうか。目に見えて観測できる現象は三千世界の真理ではなく、この地、この時間にしか通用しないルールではないか。そんな疑問が世界のどこかで生まれ、そして忘れ去られていく。
世界がどれほど強固なものか、
あるいは脆弱なものなのか、
世界の内側にいる者には、けして観測できはしない――。
※
目の前にはスイカ畑が広がっている。
よく手入れされた黒っぽい土。だらだらと適当に伸びたあぜ道が網のように広がり、畑には大量のスイカが実っている。民家は小さく、ばらばらと広範囲に点在している。
村の中央を抜けて川が走り、いくつかのため池が散在する典型的なスイカ村。このような村はカラバ王国に500以上存在し。毎日大量のスイカが運び出されていく。
「皆さん、忙しいお仕事の最中ながら、しばしお耳を拝借いただきたいにゃあ」
ぽろん、と五弦の爪弾かれる音。腰をかがめて作業をしていた猫たちが振り向く。
「んにゃー、変なのが来たにゃー」
「国のお役人かにゃー?」
スイカ畑からわらわらと現れるのは20人あまり。さらに遠くからも集まってきている。田舎の猫たちは物珍しいことに敏感である。十分に集まったあたりで口を開く。
「皆さん、かの大宗教選挙のことはご存知ですかにゃ。わたくし、ネオン・ルートーンが皆さまに投票のお願いに参りましたにゃ」
「んにゃー? 選挙にゃー?」
「興味ないにゃー! 街で勝手にやってればいいにゃー」
「いえいえ、この選挙はあなた方、スイカ村の猫たちこそが最も注目すべきなのですにゃ」
ルートーンは音楽をかき鳴らし、集まった猫たちはうっとりと聞き惚れる。
「皆さま、スイカ村の生活もさぞ楽しかろうとは思いますが、田舎には娯楽が少ないとは思いませんか?」
「少ないにゃー、だからスイカを売りに行くついでに酒場とか寄るにゃー」
「月に一回ぐらい芸人も来るにゃー」
「そうです、私のような詩吟猫が国中を回っている。しかしスイカ村の数に比べて流しの音楽家は実に少ない。私はこれを改善したいのですにゃ。具体的には詩吟猫を国が育成し。国営事業として全国に派遣いたします。その数は実に、今の30倍!」
「んにゃっ!? 30倍にゃ!?」
「そうです! 三日に一度、いや二日に一度は詩吟猫が村に来る。たくさんの歌や演奏を披露してくれるのです。素晴らしいと思いませんかにゃ」
「でも歌ばっかりしょっちゅう聞いてても飽きるにゃー」
「その通り! ですので同時に文化も拡大させるのですにゃ。演劇や軽業の育成に奨励金を出し、国営の劇場も各地に作りますにゃ。音楽についても大人数での楽団を組織し、音楽家や楽器職人も育成しますにゃ。しかし難しいことはともかく、とにかくいろんな芸人がたくさん来る! これだけを覚えていただきたいですにゃ」
そしてルートーンは音楽を打ち切り、一瞬の無音がもたらす神妙な雰囲気の中で、両手を広げて呼びかける。
「そのために必要なことは何よりも労働力なのですにゃ。岩の王との戦争を終わらせ、兵士たちをたくさんの詩吟猫に変えるのですにゃ! 私はその訴えのために、こうして全てのスイカ村を回っているのです!」
「すごいにゃ!」
「分かりやすいにゃ―、たまに来る宗教家は難しいことばっかり言ってたけど、ぜんぜん違うにゃー!」
「ぶつける用のスイカもういいにゃ、カゴに戻すにゃ」
僕はというと、ずっと後方、スイカの木の陰から様子を眺めていた。
「さすがルートーンだ。今日始めたばかりの演説なのに、完全にものにしている」
横にいたコジーが、聞こえるかどうかの声でつぶやく。
「一歩間違えたら独裁者になる気がするにゃ」
そのつぶやきは、とりあえず聞かないことにした。
※
「古き夢」などを中心とする反戦団体はカラバマルクにいくつかの隠れ家を持っている。その一つで会議を開く段取りになった。出席者は僕とルートーン、それにコジーと、彼女の属する反戦団体のメンバーが数名いる。彼らは「古き夢」の信徒でもあり、岩の王との戦争に反対している猫でもある。
まず発言するのは僕である。
「ルートーン、君はカラバマルクの都を出て、全国を回るといい」
「全国? スイカ村を回るということですかにゃ」
カラバ王国において王都カラバマルクとは脳である。他のすべての国土は、つまりはカラバマルクに物資を供給するためにあると言っていい。
地方にもいくつかの都市はあるが、それはあくまでスイカを流通させるための街である。国土全体から得られる数十万ものスイカ。それをカゴをかついだ猫たちや、狼や砂絨毯の牽く大型の荷車によって王都に運ばれる。
「そう……。選挙戦では宗教団体だとか、哲学団体だとかがたくさん出てきてるが。おもにカラバマルクだけを活動拠点にしている。投票権は全国民にあるのに、だ」
僕の横にいたコジーが、腕を組みながらふんと胸をそらして口を開く。
「それは仕方ないにゃ。そもそもスイカ村の猫たちは選挙に興味がないにゃ。私らの団体も反戦を訴えたけど無駄だったにゃ」
コジーの後ろにいる猫たちも同意する。
「にゃー、スイカ村はスイカしか興味ないにゃー」
「布教に行ったらザブトン二つ折りにして出されたにゃー」
「何その古めかしい感じの嫌がらせ」
まあそれはともかく、と話を続ける。
「それは、選挙がどのように自分たちの生活を変えるかを知らないからだと思う。どの宗教を国教とするかの選挙なんて、信仰と外れたところにいる猫にとってはぼんやりした争いだからね……。だから、ルートーンの「音楽と美麗」が勝てば何が起きるのか、生活がどう変わるのかを訴えていくべきじゃないかな」
「ふうむ……」
その言葉に曖昧な反応を示すのは、当のルートーンだった。
「私が言うのも何ですが、そもそも戦を嫌っている猫は少数派ですにゃ。スイカ村で言うなら村から遠征隊が選ばれれば宴を開いて祝うし、岩の兵隊から戦利品でもぶんどってくれば都に家が持てますにゃ。私のような詩吟猫のほうが変わり者なのですにゃ」
「それは仕方ないのかも知れない。猫たちは基本的には好戦的だし、それが種としての繁栄を支えてきたように思う。だが、戦よりも楽しいことが見つかれば、それを守りたいと思うかも知れない。じっさい、ほとんどの猫は君の音楽に陶酔してるじゃないか。もっと娯楽が充実すれば、猫たちを説得する力も増えると思う」
「充実……と言われると、曲目を増やすとかですかにゃ」
「そうじゃなくて、オーケストラとか、サーカスとか、あるいは映画……」
数秒、場に沈黙が流れる。
「……? おおけすとら、とか、さあかす、って何ですにゃ?」
「あれ……? こう、ものすごい大人数でやる楽団のことだよ。サーカスってのは軽業師の集団で、猛獣を操ったり、高いところで飛び跳ねたり……」
情報がひどく細切れで、映像もろくに浮かばない。
あの霊薬の匂いを嗅いでからこうだ。僕の知らないはずの記憶が時々浮かび上がってくる。しかしそれは本当に断片的で、思い出したことから何の枝葉も広がっていかない。浮かぶ映像も一瞬だけのラフスケッチのような粗雑さだ。
だが、確かに知っている。
この「知っている」ということが発想力のバックボーンとなっているように思う。僕の発想がけして突飛な思いつきではなく、どこかに成功例のある真っ当な知識だと思える。オーケストラも、サーカスも。
「なるほど」
ルートーンが、ぽんと手を叩いて言う。
「ダイスさんの田舎の方言ですにゃ」
「なんだろう、不特定多数に対してすごく失礼な気がする」
ともかく思い出せないものは仕方がない。しばらく猫たちと僕の間で認知のずれが続きそうだが、じき慣れるだろう。
「僕は選挙戦と同時に、ルートーンの強みである詩吟そのものの充実を図りたいと思っている。詩吟猫自体を育成する教育機関を作り、多くの村を回るように王に進言する、とアピールしていこう」
「にゃるほど。分かりましたにゃ」
そして舞台はスイカ村に戻る。
今のところは順調だ。猫たちはルートーンの話を熱心に聞き、ときに猫同士で相談を交わす。
脇にいるコジーが問いかける。
「でもどうして夕方なのにゃ?」
日は大きく日に傾いており、スイカ村に夕映えが落ちつつあった。もうじき農夫たちは仕事を終え、静かな夜に向けて帰路につく時刻だ。
「演説をするなら夕方がいいと聞いたことがあるんだ。一日の労働で疲れて判断力が薄れてて、演説の影響を受けやすい。しかもこの後、猫たちはスイカとスイカ酒を囲んでルートーンの演説について話し合うだろう。それが選挙自体への関心を生むんだ」
さらに言うなら、ルートーンはもともと見栄えが良くて弁の立つ方ではあるが、演説の技術についてはさらに磨きをかけた。どのような身振りをすれば美しく見えるかを研究し、分かりやすく短いワードを何度も繰り返す。今回で言えば「退屈をなくす」とか「何度も来る」とかだ。見た目を印象づけるために、楽器も常に手に持たせている。
しかし何というかこれは、真似してはいけない人物の技術だった気がする。そこらへんがよく思い出せないが、まあいいか。
僕の記憶はまだ混乱していて、ふとした瞬間に有用な知識が浮かんでくるが、意識して探そうとすると何一つ見つからない。
だから何を思いつくかも運次第なところがあったが、スイカ村の反応を見るに、悪くない作戦だったようだ。
王都カラバマルクの人口はおおよそ60万から70万、スイカ村は500あまりで、それ以外の鉱山の村、林業の村、猛獣管理の村、ほかに小規模の都市などを含めて人口は50万ほど。十分に戦える数になるはずだ。
「まあ、それもこれも……」
今度は僕が、小声でつぶやく。
「そもそもこの大宗教選挙というものが、まともに運営されていれば、という前提での話なんだけどね……」
僕のそのつぶやきを、今度はコジーが無視した。




