第三十五話
階段を降り、通路を歩き、地の底の底へ向かう。
進むごとに四角四面に舗装された道は土がむき出しの洞窟に変わり、木で枠組みが組まれただけの坑道のような眺めとなる。
「かつて、王都カラバマルクは砂の海であったと言われてますにゃあ」
先を歩くルートーンはカンテラを持ち、その影を岩壁に揺らめかせながら歩く。
「うん……それは聞いてる。多くの土地は土の下が砂で、巨大な建物を建てるに適さなかったけど、カラバマルクだけは例外的に土と岩盤の層があったとか」
「はい、一説には太古の昔には地上は現在のように山と谷に富み、その世界が滅んだとき、すべての起伏は砂に埋もれたと言われてますにゃあ」
例えるならケーキのような積層構造かも知れない、多くの時代と文明が砂の層に封じられ、その上にまた文明が息づく。なんだか不思議な想像だった。
ちなみに言うなら、もともとの国の起こりはカラバマルクよりずっと離れた場所、ちょうど僕の生まれた村の近くだったという。
すでに地上の音は聞こえない深み、これほど大地の奥であっても、側道に取り付けられた木の扉から歌声が聞こえたり、あるいは造山猫たちによる工事の音がする。方向感覚などとうに失われ、王城ヨルムンガルドがどちらにあるのかも分からない。王城の下を掘ることは禁止されているから、真下ということはないはずだが。
「ありましたにゃ。あの酒蔵が「古き夢」の集会所だと聞いてますにゃ」
「酒蔵?」
通路の突き当りで木戸をくぐる。すると空間が上下に広がるような感覚。
「――そして私は知ったのです。猫たちの記憶の奥底、従うべき教えはすでに心にあると」
周囲には高さ三メートル近い木の樽。それが左右にいくつも並び、ずっと奥まで続いている。ここを回廊と見れば、数十メートルもある荘厳な神殿とも思える。奥にぼうっと仄かな明かりが浮かび、よく見れば集会が行われていた。奥まった場所に毛織物が引かれ、何人かの小人、あるいは猫人が座っているのだ。壁には燭台が設けられ、獣脂蝋燭のまたたくような明かりが広がる。
中央奥にいるのはヴェールをかぶった女性。手に三叉の燭台を捧げ持ち、集まった何人かの猫に呼びかけている。
その姿を見た時、僕は動悸が早くなるような気がした。巨大な酒樽がもたらす複雑な陰影。広いようで、大勢が詰めかければ狭い空間。その中で静かに広がる説法の声。複雑な形のブロックを渡され、その形をじっと確かめるような心地だった。猫たちもどことなく神妙にその声を聞き。僕たちは我知らず、数十秒もその場に立って彼女の声を聞いていた。
「私は、名もなき野良猫でした。ですが、この霊薬により心の深みへと降り、夢にて真実を知ったのです」
霊薬。
その言葉に、はっと意識が引き戻される。
ヴェールをかぶった女性、すなわちシオンが取り出すのは硝子の小瓶。その中で揺れる透明な液体。
やはり薬物という噂は――。
「にゃにゃー、入信希望者かにゃ?」
ふいに真横から声がする。驚いて振り向けば女性型の猫人がいた。薄手の袖のないシャツに麻のズボン。女性型らしく肉付きがよく見える。この地下道は少し暑いため、その猫人も全身にほんのり汗をかいていた。
「いや……僕はシオンに会いに」
「私がこちらまでご案内したですにゃ。いきなりの来訪、ご迷惑ではありませんでしたかにゃ、麗しきお嬢さん」
ルートーンがその手を取ろうとするのをぺしっと簡単に払いのけ、猫人は腰に手を当てて構える。
「私はウィス・コジー、先祖の名前であるコジーと呼ぶにゃ。この酒蔵でスイカ酒を作ってるにゃ。シオンとは昔なじみだからこの場所を貸してるにゃにゃ」
コジーはどこからともなく椅子を2つ引っ張り出し、僕たちに薦めてくれる。
「説法が始まったばかりだから今は話せないにゃ。少し待つにゃにゃ」
コジーは手品のように酒瓶とグラスを取り出し、スイカ酒をどくどくと注ぐ。
「聞きたいんだけど、この教団では儀式に薬品を使うの?」
「うにゃ? 霊薬のことにゃ? あれはシオンがどこからともなく持ってくる薬にゃ。シオンは何度も飲んでるけど、身体に害はないにゃ。ただの強いお酒みたいなものにゃ」
「お酒……」
説法の声が遠く聞こえる。ちょうどそのあたりの話に差し掛かったようだ。
「猫の中でも先祖を持ち、無限の魂を持つ猫を前世持ちと言います。彼らは生まれながらにして己の名前を語り、知恵と力の一部を祖先から受け継ぐ。当たり前のことではありますが、とても奇妙なこととは思いませんか。死したる猫と、新たに生まれる前世持ちはまったく別個の個体であるのに、なぜ記憶を受け継ぐのでしょう。そしてなぜ一部だけなのでしょう」
シオンは猫らしい舌足らずな話し方を抑えているため、とても堂々と、言うことのすべてに自信を持っているような印象がある。さほど信心深くない僕でも、シオンの言葉に身を委ねたくなる。
「それはノートに似ています。一つのページにびっしりと文字を刻み、そのページを捲った時、下の紙には薄っすらと溝が残っています。これはほぼすべての文字の痕跡を残し、時間をかければ読み解くことも可能。しかしそのページに新たに文字を刻みつければ、紙の凹凸でしか無い過去の記述は読めなくなってしまうのです」
シオンは霊薬を捧げ持ち、高らかに言う。
「この薬により、思考を一度まっさらにすることができるのです。その時、我々は前世の記憶と対面し、魂に刻まれた輝かしい先祖の足取りを、その記憶の多くを呼び戻すことができるのです」
説法の声を遠く聞き、僕は慎重に、確認するように呟く。
「つまり……前世持ちが祖先の記憶を呼び戻す薬……?」
「そんなことが……にわかには信じられませんが」
ルートーンはそう言って酒蔵の奥を見る。集まった聴衆が何か質問を投げかけているが、それらはにゃあにゃあという雑音となって空間に溶け、意味ある言葉とならない。
シオンは聴衆の一人に向かって、ふかぶかと頷いてみせる。
「ええ、そうです。この薬は、前世を持たない野良猫にも効果を発揮します。ある意味ではこのほうが重要とも言えますが、野良猫がこの薬によって向かう場所は魂の根源。大いなる猫たちの記憶の原点への旅なのです。
この私もまた先祖を持たない猫。名もなき野良猫でしたが、この薬を飲んだ時、意識がどこまでも沈む中で、とても暖かな光の塊のようなものに出会いました。それはこの大地の意思、あるいは全ての生命に共通する魂のふるさとだったのかも知れません」
「……」
なぜだろう。シオンの説法を聞いていると、胸の奥がざわざわする。
忘れている何かを思い出すかのような。何か自分でもわからない感情が沸き起こり、それに意識が翻弄されるような感覚。
「いやあ、「古き夢」の主事は何度か見かけていますが、相変わらずお美しいですにゃ。あの説法に伴奏でも添えて差し上げたいですにゃあ」
「シオンは本題まで長いにゃ。はやく薬を飲ませてあげればいいにゃにゃ」
「……」
どっかりと足を組んで座るコジー。僕は頭の中で情報を整理し、ゆっくりと問う。
「あの薬、どこから仕入れてるかは分からないの?」
「さあ? シオンが持ってくるだけにゃ」
「あなたは飲んだの?」
「飲んだにゃ。口当たりは度数の高いお酒みたいだったにゃ。飲むとすぐに気が遠くなって、先祖の記憶を色々思い出したにゃ。でも先祖は酒ばっかり作ってたみたいで、あんまり他の記憶は」
「あの薬をどこから盗んだの?」
「なっ……」
ルートーンが腰を浮かせる。
あのような薬、シオンが独力で作れるとは思えない。
おそらくは然るべき機関で研究されていたもの。
シオンがそれを手にする機会があるとすれば、託されたか盗んだか。
思えば、この街の不穏な気配、それはすべて繋がっているように思える。そうだ、このところ激しくなっているという宗教関係の取り締まりも、無関係ではないのでは。
二度、ヨルムンガルドの城へ行き、二度とも取り締まりの騎士とニアミスした。おそらく取り締まりは城の周辺だけではないか、と推察する。
なぜ城の周りなのか。それは城に賊が出たからではないか。
前世持ちの記憶を蘇らせる薬。それは城に務めるような知性タイプの猫には極めて有用なものに違いない。猫が専門技術を身につけるのに何年かかるか知らないが、猫の寿命から考えれば数年の学習期間はあまりにも長いのだから。
「い、いいがかりにゃ。シオンはそんなこと」
「正直に言ってくれ、コジー」
「にゃっ……」
びしり、とコジーの全身に緊張が走る。冷水を浴びせられたように背筋が固まり、しかし表情はなぜか弛緩してゆるみ、口からとぼとぼと言葉をこぼす。
「わっ、私たちは反戦活動をしているにゃ」
ルートーンがぎょっとしてそちらを見る。
「シオンはああ見えて、レベル100を超える猫人にゃ。何か真円の弱みでも握れないかと思って忍び込んだら、あの薬を見つけたにゃにゃ。で、でも試しに飲んでみたシオンが気づいたことがあって、あれを飲んだ猫は岩の王と戦えなくなるにゃ。それは岩の王を含めた四方の王が、この星の支配者であると思い出すかららしいにゃ。シオンはあの薬を使って戦争を止めようと」
「それは無理だよ。遠征隊は毎回5000人以上の大部隊が組まれる。このカラバマルクの人口だって60万以上いるんだ、その全員に薬を飲ませられるわけがない」
「だ、だから、シオンは説法で反戦を訴えて、そのうち有力者に会う機会があれば――」
「そんなことは止めさせないと……」
「な、なぜにゃ。少しづつだけど信者も増えてるにゃにゃ」
「そうじゃない。何度も王城に忍び込んだりすれば、向こうだっていつかはシオンの足取りを――」
ぎい、と音がする。
はっと首を向ければ、そこには全身を鎧に包んだ騎士たち。
「――!」
その先頭にいた猫。その鋭い気配を何に例えるべきか。
その猫は白銀の鎧に黄金の兜。手にはスイカのような、真球の鉄塊がついた長柄の武器。
(こいつ)
一瞬で察する。僕のような一般的な猫にも分かるほどの強烈な威圧感。全身にみなぎる力の奔流。この小さな猫人の身体が、見上げるような巨人に思える。
猫は長柄の武器を振り上げ。その先端の鉄球が天井に触れるか触れないかの刹那。腕に破滅的な力を込めて長柄を振る。先端の鉄球はあっさりと音速を超えて地面に激突。
そして洞窟が、砕けた。




