第三十四話
僕はルートーンに手を引かれて階段を降りる。
詩吟にふさわしい場所まで案内してくれるというが、手近な飲み屋に入ったかと思えばカウンターの奥へ、小部屋に入って奥にある階段を下り、細い通路に出たかと思えばまた別の階段へ。
「このような地下空間も造山猫ならすぐに掘ってくれますにゃあ。何しろ地上は手狭になってきましたので、どの店も地下に根城を伸ばしておるのですにゃ」
果たしてどのぐらい下り、どのように進んだのか。
たどり着いた先は地下の酒場。天井からは大小無数のランプが吊り下がり、スイカ酒の甘い匂いが肺に忍び入る空間である。
「ずいぶん奥まったお店だね」
「ここは私の懇意にしております店なのですにゃあ。昔話とは陽の光に弱いもの、暗がりでひっそり語らなければ霧散してしまうのですにゃあ。お酒は嗜まれますかにゃ」
「いや、どうも飲めなくて、ジュースで」
空いている席に勝手に座り、ルートーンが指を鳴らすと、女性型の猫人がすぐに飲み物を運んでくる。なぜか水着のような服を着ていて、桃色の前開きシャツを羽織っただけという姿だった。
その店員の去っていくのを見送ってから、僕はルートーンに言う。
「僕、あんまりお金ないよ」
「気にせずともよろしいのですにゃ。あなたのような知性タイプの小人は、そのうち大勢を導く立場になりますにゃ。我が教団「音楽と美麗」をご贔屓に頂くよう留め置いていただければよいのですにゃ」
ルートーンは木製の五弦楽器を取り出し、ぽろん、とつまびく。その瞬間、雑然とした空気が満ちていた店内がぴしりと水を打ったように静まり、ほとんどの客が僕らの席を振り向く。お店の隅では伴奏のオルガンが奏でられ、ランプの半分から火が落とされて謎めいた気配が深まる。
「かつて国を興したるトム、ティル、ドラムは猫たちの英雄。その毛並みは草原のごとく風になびき、輝ける目は琥珀の輝き、しなやかなる手足に真珠色の爪、見目麗しき三人の英雄。多くの猫を率いて砂漠に街を築き、多くの獣を打ち払わん」
言葉は滔々と空間に響き、それでいて難しい語彙はなく猫たちにも分かりやすい歌だった。
どのように素晴らしい歌であっても猫の集中力は三十分も持続しない。だから吟遊詩人たちは長大な叙事詩であっても簡潔に、要点を短く歌い上げることを美徳としている。
「英雄トムとは旅を愛する猫。その小さな足で塩の海を超え、果てもなき十字の大陸に至る。七つの山と八つの谷、踏み越える果てにて岩の王に出会う」
岩の王とはその名の通り、岩が生命を得たような存在と言われている。建物も森も岩で造られ、そこに住まう人々も、兵士すらも岩の彫像、凍りついたような眺めの岩の街。その奥には見上げるほど大きな岩の顔があったという。
それが岩の王、そこまでは本で知っている。
「岩の王は言い給うた。お前は勇気ある猫である。およそ千代に一人、数万年に一人の奇跡。お前の勇気を称えて黒の剣を与えよう。かくて英雄トムは凱旋し、猫の国を襲いし破壊の王を討ち倒す」
ジュースを一口。おっそろしく甘い。蜂蜜やら煮詰めた樹液やらも混ざっている。しかも花の香りもたっぷり含まれていて、アルコールも入ってないのに頭がくらくらする。
周囲の猫は泥のように緩みきって、ただルートーンの歌だけを聞いている。客の一人から財布をすろうとしていた猫もその途中で溶けて、床にだらりと流れていた。
「世代を重ねて国は栄え、若き次代の猫は塩の果てを目指す。岩の王に会った二人目の猫、そのたくましさを称えられ、白銀の鎧を与えらる」
五弦をつまびく指先は素早く動き、残像狼の疾走のようだった。跳ね回るような即興の指先、計算された華美の旋律。
「三人目の猫は知恵を称えられ、黄金の兜を与えらる。かくて猫たちと岩の王のむつまじき時代、永遠に続くかと思われた」
ぽろん、と転調が起こる。猫たちがはっと耳を立て、旋律に潜む緊張の気配を感じ取る。
「しかして四人目の猫、岩の王を訪ねしときに、岩の王は動かざる口でこう告げる。塩の海を越え、我に至る猫は千代に一人。なぜにかくも続けて訪れる。お前たちはなぜ栄え、なぜ破壊と死から逃れている、と」
低く、かつすばやい旋律。夜の底で森を駆ける狼のごとく、静かな恐ろしさが流れる。
「勇気ある猫の答えていわく、破壊の王は滅ぼされて久し、我らを脅かす怪物はもはやない。岩の王は怒りざわめき、猫に声なき言葉を放つ。必然である破壊を打ち払うこと能わず。お前たちは滅びねばならない。この岩の王が死となって、ああ、哀れなる生命よ、お前たちの全てを砕く、と」
ぽろん、と曲が終わり、伴奏のオルガンも合わせて手を引く。後には水を打ったような静寂と、ルートーンの言葉だけが場に流れる。
「かくて猫たちと岩の王、終焉を知らぬ戦いに、今日も明日も身を投ず……ご清聴、感謝いたしますにゃ」
周囲から控えめな拍手が流れる。このようなお店のためか大騒ぎとはならないけれど、そこには深い感動というか、満足感のようなものが感じられた。
「良かったにゃあ、さすがルートーンにゃあ」
「感激でルートーンが三人に見えるにゃ」
「それ飲みすぎにゃ」
「感動で親指の付け根が痛むにゃあ」
「それ痛風にゃ」
「なるほど……」
僕は詩の内容を反復し、確認のように問いかける。
「つまり最初は温厚だったのに、何度も会ううちに、猫たちが繁栄しすぎていることを怖れて敵対した、というふうに聞こえるけど」
「解釈は聞き手に任せますにゃあ。このような詩吟はあまり大っぴらには歌えませんにゃ。マグヌス・ティルなどは猫たちと岩の王はそもそも相容れないもの、と定義しているため、少なくとも友好な時期はあった、という詩は社会を乱すとして取り締まられるのですにゃ」
なるほど、だからルートーンは僕をこの店まで連れ出したわけか。
「でも、英雄トムが岩の王から剣をもらった、という話は有名だよ。塩の海を越えて岩の王に会いに行きたい、という若者は今でも多いし」
「真円の見解では、トムの持ち帰った剣は岩の王から奪ったことになってますにゃあ」
「……」
と、そこで、僕はもう一つの気がかりを思い出す。
「……そういえば、このところ宗教家の取り締まりが激しくなってるとか……でも選挙は政府公認のものだし、何だかおかしな話だと思うんだ。それには何か理由があるの? 僕の知っている「古き夢」という団体も衛兵を避けていたけど」
「「古き夢」ですかにゃ、ふうむ、あれは妙な噂も流れておりますにゃあ」
すでに観客の猫たちは自分の席に戻り、酒を飲みながら雑談に興じていたが、ルートーンはぐっと声量を落として言う。
それにしても、地上は昼間のはずなのに当たり前のように飲んでるお客ばっかりだ、猫の街はなんて暇なんだろう。どうりで紙漉き屋の納品が遅れまくるわけだ。
まあそれはともかく、話の先を続けるべきか。
「噂、というと?」
「なんでも「古き夢」とは妙な薬を使う、怪しいまじない師だとか……。このところの取り締まりの強化、それは一部の団体が、怪しげな薬や魔術を用いて民衆を洗脳したり、間違った教えを吹き込んでるから、という話も聞きますにゃあ」
「……」
怪しい薬? 洗脳? 彼女が?
あの清楚な印象の白いヴェールが思い出される。ひたむきに自らの教えを広め、神秘性に胸を熱くし、その内に少女のような純真さも秘めるように思えた彼女が、そんなことを?
「信じられない、別の団体とひとくくりになってない?」
「何しろ団体も乱立していますからにゃ、普通の手段では布教は無理と感じた連中が、搦め手に手を出すことはありうるでしょう。その中でも、「古き夢」については名指しで噂が流れてきますにゃあ」
「……」
確か、彼女はこのように言っていた。夢こそが従うべき教えであり、日々夢の深みに潜るための研究を続けていると。
では、夢に潜るために薬を? 確かにどこかのまじない師は、ある種の麻薬やキノコを食べることでトリップ状態となり、その状態での意味不明なうわ言が予言として扱われる、という話も聞くけれど。
「……やはり信じられないよ。百歩譲って、宗教的儀式に酒や薬物を用いることがあるとしても、法に触れたり、身体に危険が及ぶほどの行為を行ってるとは思えない」
「気分を害されたなら謝りますにゃあ。あくまで吟遊詩人の噂話、風のように流れて花のように散る言葉と受け止めていただければ」
「僕は「古き夢」の会合に呼ばれてるんだ、団体の本拠地は分かる?」
「はいですにゃ、ここより三層ほど下方、地上の音も届かぬ地下深くだと聞いておりますにゃ」
「案内してくれ、今から行きたいんだ」
「分かりましたにゃ、しかし主事の猫がいるかどうかは」
と、そこでルートーンは動きを止め、きょとんとした様子でまばたきを二回。僕はすでに立ち上がっている。
「あれ……私、なぜ今、分かりましたと」
「? どうしたの? 案内してくれるんでしょ?」
「は、はいですにゃ」




