第三十三話
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さらに一月ほど。
勉学と仕事という二枚の石でできた石臼があり、それで毎日というものをごりごりとすり潰すような日々だった。その中でいくつかの印象的な出来事があり、窓の外を通りすぎる美女のように心に残る。
「戦士タイプの猫人たちの中で最も変わり種が造山猫ですにゃあ。彼らはたまに街に降りてきて料理で進化を遂げ、それ以外はずっと山を作っていますにゃあ。荷運びできる重さは重戦士タイプの猫よりも遥かに大きいけれど、争いを好まず戦士には向きませんにゃあ。彼らの存在があってこそカラバ王国には山や渓谷が築かれ――」
カラバマルクのような都会で造山猫を見る機会はあまりない。一度だけ見かけた時、彼らは狼の毛皮を何枚も背負って料理屋に詰めかけていた。店主は物々交換で珍しい料理をこしらえ、造山猫たちはもくもくとそれを食べて成長する。そしてまた山に向かう。
彼らにとっては穴を掘り、山を作ることが何よりの生きがいである。一応の整地計画は国から指示されているが、彼らは山をより高く、谷はより深く、より国土を起伏に富ませることにのみ熱中するという。
造山猫たちを理解することはできないが、理解しようとする姿勢を失ってはいけない、というのは母の教えだった。
彼らはカラバ王国全土におよそ5万人。その30年あまりの生涯で150万トンもの土砂を運ぶという。野山のスイカを食べ、ひたすらに国土に起伏を生み続ける彼らは猫たちの社会や、そこに生じる問題から完全に隔絶した位置にあり、この世界を構成する要素の一つとして息づいていた。彼らは天候のごとくに自然であった。
またある日。
「猫たちは、食事によって成長する外見年齢とは別に寿命を持っていますにゃ。おおよそで3歳から6歳が最も活発であり繁殖のピーク。10歳で繁殖衝動は控えめになり、20歳を過ぎると明らかな老いの徴候が現れますにゃ。老いとは多くは体力の減少、皮膚のだぶつき、視力や聴力の低下などですにゃ。50歳を超える長生きの猫もたまにいますにゃ。全体的に知的タイプの方が長生きで――」
「先生ってかなり長生きなんですね」
書庫で製本作業をしながら、ホームジー先生に話しかける。外はざんざんぶりの雨。こんな日はもくもくと作業をするのに向いていた。
「だらだら生きてきただけぞにゃ。ずっと文学論なんかを研究してきたけれど、興味を持つ猫もいなかったぞにゃ」
「そんなことありませんよ。先生の論文を読みましたけど、すごく深くまで考察されていて読み応えがありました。特に物語における目的の推移性というくだりが」
ホームジー先生は厚ぼったい皮膚の向こうから僕を見て、ほうと息をつく。
「お前は本当に変わり者ぞにゃ。研究について話し合えるやつなんて初めてぞにゃ」
ホームジー先生はいちど遠くを見て、思い出したように言う。
「そういえば、あの大宗教選挙、わしは割と期待してるぞにゃ」
「期待、ですか?」
「そうぞにゃ。宇宙の根源とは何か、猫や物体の本質とは何か、いろんな猫がいろんな事を言うにゃ。やれ火だとか、数だとか、言葉だとか。それについてああでもない、こうでもないと議論に参加できる、それが大事なのにゃ」
「よく分かってない猫が大半みたいですが」
「それでいいぞにゃ。ともかくも想像してみる、それが大事なのにゃ。まだ見ぬものや、あるいは目に見えないものを想像するとき、心が少し進化するのにゃ」
なんだか示唆的な言葉だった。食べたことのないものを食べると進化する、そんな猫たちの性質にも繋がる気がした。
僕はふと、以前から思っていたことを聞いてみる。
「あの、ホームジー先生、いろんな宗教家がいろんなものを信仰してますよね」
「そうぞにゃ」
「スイカだとか、水だとか、太陽だとか。でもなんでモノなんでしょう? 僕たち自身や、大地や宇宙は誰かが作った。つまり猫よりもずっと優れた超越的な存在が、宇宙も猫も作ったのだ、という考え方はないんでしょうか?」
ホームジー先生は少し動きを止め。
製本していた本をぱたりと閉じ、僕の目を見て言う。
「うにゃ、それは神に関する言及ぞにゃ」
「神……ですか?」
「そうぞにゃ。創造の出発点、この世の根源。それに人格を付与する特殊な考え方のことぞにゃ。あらゆる力を持ち、あらゆるものを生み出した存在を神というぞにゃ。あまりその言葉を使う猫はおらず、文献にもわずかに見られるだけぞにゃ」
漠然とした全能存在の仮定。
しかし、なんだか僕にはその考え方のほうがしっくりくる気がする。
「なぜです? なぜ一般的ではないんでしょう?」
「それは、その考え方が直感とあまりにも異なるからぞにゃ」
ホームジー先生は噛んで含めるように、しかし確固たる確信を背負うような重々しさで言う。
「その概念は猫たちの直感からあまりにも遠い。我々が信仰し、従うべきは、もっと具体的で身近であるべきぞにゃ。漠然とした超常的な存在など受け入れられない。その存在は大事な何かを否定する気がする。それは骨の髄まで染み入った感覚ぞにゃ。あまりにも当然の常識としか言いようがないけれど、それが自然なことぞにゃ」
「……」
ホームジー先生の言葉は、僕も当然そのような直感を持っているに違いない、という声音だったのは明らかだった。
しかし僕はなんだか判然としない。
なぜ猫は神という存在を受け入れないのか。もっと身近で形のあるもののみに親しもうとするのか。
それ以上、話を続けることはできなかった。僕とホームジー先生の間に横たわる埋められない溝。互いの認識の齟齬を明らかにしてまで、何かを追求することはできなかった。
そこはかとない畏ろしさ、その日はそれからひたすらに、製本のことだけを考えていた。
そしてまたある日。
「ヨルムンガルド城はカラバマルクでも最大の観光地であり、ドラム四世の居城ですにゃあ。内部は六層に分かれていて、貴重な石材をふんだんに使って建造されていますにゃ。特筆すべきはその石組み技術であり、モルタルは少量しか使っておりませんにゃ。
周囲にはぐるりと取り囲む形で堀があり、橋は南北に二本だけですにゃ。以前は堀を一周する遊覧船があったけど、三年ほど前に廃止されて――」
あらためて、休日にカラバマルクの王城を訪れる。噂に違わず見事な建造物だった。うずたかい三角形のシルエットが蒼穹を背負ってたたずみ、堀の水音が涼しげな印象を与える。
この建物の内部は六層あるらしいが、外見上は三層に分かれている。ホールケーキのような巨大な土台。その上にそびえる組石のような部分。箱型の家を巨人が積み重ねたような眺めであり、内部は大小さまざまの部屋が入り組んでいる。
そしてその上にはいくつかの尖塔。ドラム王の居室であり、親族が住処とする部分だ。側面には斜めにスロープが取り巻いており、全体が螺旋を描いて見える。外周部のスロープを通ってそれぞれの階層に入ることもできるらしい。
特に第一層は広大であり、大勢の兵士が寝泊まりするために商店だとか図書館、飲み屋に劇場まであると聞いていた。外観も内装も大胆にデザインされている。
城をぐるりと一周してみる。休日の街にはたくさんの小人と猫人たちが出ており、食べ物を手に歩いたり、堀のそばで柵に寄りかかってのんびりしている。
路地に視線を注ぎながらゆっくりと歩く。先日の「古き夢」の主事、シオンという猫人は今日は来ていないようだが……。
「んにゃー、ここでは演説は禁止にゃー」
「にゃー、とっとと帰るにゃー」
前方で声がする。そこでは長衣を着た男が衛兵たちと押し問答になっていた。
演説用の舞台やら旗指物やらを衛兵が取り払っている。
「なんでにゃー、こないだまでここで演説できてたにゃー」
「んにゃー、今日から禁止にゃー」
「いうこと聞かないと連行するにゃー」
通行人も多いためか、衛兵たちもさほど威圧感は出していない。しかし逆らえるわけでもなく、結局は男のほうが折れ、しぶしぶ演台を片付ける。
「荷車あるから使えにゃー」
「このでっかい看板は乗らないから運んでやるにゃー」
「意外と優しいにゃ」
「やれやれ、取り締まりが妙に厳しくなっていますにゃ」
突然、背後から声がする。
振り返れば鍔の広い帽子。仕立ての良さそうな夜会服に真珠のボタン。肘まである白い手袋という人物。
「あ、ええと、いつかの」
「ネオン・ルートーンですにゃ。覚えておりますにゃ。あのバスでご一緒しましたにゃあ、ダイスさん」
僕は少し目を丸くする。彼は非常に目立つから覚えていたが、向こうが僕を覚えているとは。
「よく僕のことを……」
「なに、あなたは自分で思っておられるより印象的な人物ですにゃあ。なんだか同席した人を落ち着かせるような不思議な気配がありますにゃ」
「たしか選挙の参加者だったはずだけど……調子の方は?」
僕の言葉に、ルートーンは薄く笑って言う。
「まずまずですにゃ。選挙も大事ですが、私は吟遊詩人として自分の名を売り込むほうも大事なのですにゃ。選挙演説という体裁なら、皆さん私の歌を聞いてくれますにゃあ」
なるほど、つまり選挙を自分自身の宣伝に利用しているわけか、うまく考えたものだ。
「吟遊詩人ということは。歌が専門なの?」
「はいですにゃ。恋の歌から歴史の歌。遠い国での遠征の歌。この世ではない想像の大地の歌。悲しき別れの歌、何でも歌えますにゃ」
「どんな歌でも?」
ルートーンは小首をかしげるような仕草をして、僕の瞳を正面から覗き込む。猫らしく上唇が少し余った口元が、かすかな笑みを浮かべる。
「はいですにゃ。どうやら歌をご所望のご様子、どんな歌をお望みですかにゃ?」
僕は少し考える。頭にひらめくのはいくつかの言葉。
神について、山を作るたくましい猫について、だがそれより先に、猫の国の抱えるそもそもの問題、それについて聞いてみたくなった。
「なぜマグヌス・ティルは、真円は岩の王との戦争を望むのか」
ルートーンは八重歯をみせて笑い、目をきらりと光らせる……かに思えた。
「それについての歌は、英雄トムの物語から始まりますにゃあ」




