第二十一話
※
翌朝。
「うーにゃ。ダイスさま、お酒強いにゃあ」
冷たいスイカジュースを煽りながら、よろめく目で語るのはティルだ。
僕はというと宴が深まりきったあたりで切り上げ、ティルの工房で寝かせてもらった。
「僕はアルコール分解能を高めてるからね。猫たちの飲み過ぎには気をつけないといけないな。量が手に入るようになったら飲みすぎる猫が増えるだろうし」
「んにゃ、酒は配給制にしますにゃ」
ティルは濡れた手ぬぐいで顔を拭き、ぶるぶると体を震わせる。
「にゅ、ティルさまー、今日のお手紙ですにゅう」
なんだか口を閉じたまま鳴くような声を出すのは若い猫人だった。雌の性徴が現れているが、ややスレンダーな体型をしている。そして明らかに腿の筋肉が発達しており、ハムのようにパンパンに膨れ上がっていた。
彼女が渡すのはスイカの蔓で編んだロープである。途中が何箇所か縛られており、その縛られた数によって情報を伝える。インカ文明での発明はこの村でも役立っていた。
「ごくろうさんですにゃ。スイカジュースを飲んでくといいにゃ」
「いえいえ、クーメルはお仕事中ですにゅう、それより手紙があれば頂くですにゅう」
「んにゃ、ちょっと待ってほしいですにゃ」
このクーメルという猫人は郵便屋を自認しているが、村の人口に対して仕事は少なかった。確かに遠く離れた見張り台に出張していたり、さまよう泉などの資源を求めて歩き回っている猫はいるが、彼らは友人に手紙を出したりせず、旅路で出会う猫とのみ交流した。
猫たちの世界に「親友」はあまり存在しない。
それは猫たちの社会がまだ未成熟なせいか、それとも猫たちは誰とでもすぐ打ち解けるため、留め置いておくべき友人関係などを必要としないのだろうか。ならば猫たちは人間よりも人間関係に豊かであると言えそうだ。
そのため、郵便の顧客はもっぱらティルである。見張り台からの定期連絡、時には遠征中のドラムから便りが届くこともあった。
ティルは届いた結び目を読み、ふむふむと顎をさする。
「工事予定の現場周辺に凶悪な獣はなし。食料庫と寝所は建設済み。工具の搬入も完了、と」
ティルは部屋の隅に立て掛けてあったスイカを見る。それは果肉をすべて取り除いてから乾燥させ、ピーラーのような道具で表面の薄皮を削ぎ落としたものだ。ティルは獣の骨に木炭を挟んだ鉛筆を持ち、さらさらと書きつける。
村の中ではまだ製紙技術は貴重なものであり、ちょっとした書き付けは乾燥させたスイカの皮に行っていた。
「これを東の4番やぐらにお願いするですにゃ」
「分かりましたにゅう」
クーメルはそのスイカを帽子のように頭に被り。脱兎のごとく建物を出ていく。
「情報網もずいぶん発達したね」
「まだまだですにゃあ。現地の猫人たちの結び目文字は間違いが多いので、同じ情報を日に二回送らせるようにしてますにゃ」
「うにゃー、ティルさま、新人に工事のこと教えてほしいにゃ」
工房にいた猫人の一人が言う。彼ら工房の猫には白衣が支給されていたが、このところ人数を増員しているので、まだスイカの弦を巻いただけの小人も多い。
「うにゃ。そうですな。一度説明しておきますにゃ」
ティルは猫たちを前に眼鏡を押し上げ、
そして僕は、ある日のことを思い出していた。
※
「にゃー、ダイスさま、またこんなとこにいたですにゃー」
振り返れば、そこにはティルが来ていた。白衣の背中に蔓で編んだ籠を背負い、そこにスイカを二個入れている。
「さあさあ、スイカ食べて元気出すですにゃ」
「ありがとう」
ここは村を離れて東へ一日。目の前には塩の原野が広がっている。
トムが旅に出た場所だ。
「うにゃー、トムも困ったものですにゃ。生きてるなら顔ぐらい見せに来るべきですにゃ」
「ああ……」
彼が消えて数年になる。過去を振り返らない猫たちの社会では、もはやトムの名前も顔も覚えている者はいないかも知れない。ティルですら、僕がこうして何度も様子を見に来ているので覚えているだけ、とも思える。
ティルは僕の思考を切り替えようとしてか、おもむろに話を切り出す。
「ふむ、ダイスさま、実は考えてることがあるのにゃ」
「なんだい?」
「ダイス様はこう言いましたにゃ。かつて、この星に海という塩水の巨大な水たまりがあり、その水が干上がったために塩だけが表面に残ったと」
「そうだね」
「確かに、この塩の原野は遠くへ行くにつれて下り坂になっていますにゃ。ここから20キロ圏内でもっとも低い場所がおよそマイナス37メートル。ここを水が満たしていたとすればとんでもない量ですにゃ。それだけの水が、一体どこへ消えたのか、それが問題ですにゃ」
それは気になっていた。
この星に降り注ぐ太陽光はごく穏やかなものだし、水がすべて蒸発して消えたとは考えにくい。
蒸発でないとすれば、もっと緩慢な減少。その可能性について言及する。
「……僕のいた星でも、水は年間に20億トンほど失われているという説があった。大陸プレートの働きで地殻に吸い込まれて、水分を含んだ蛇紋岩のような岩になるのだと……。そしてプレートの活動によっては火山活動などでまた地上に出てきたり、あるいは全ての水が、数億年の果てにやがて地殻に吸い込まれて安定してしまうのではないか、と」
「それですにゃ」
ティルは言う。
「地下に水があるのは間違いないのですにゃ。しかしその水は、地下にあるまま安定してしまっている。地下水脈となって砂漠を走行し、スイカや他の生物を生み出すだけになってるのですにゃ。何らかの方法でその水脈に接触できれば、高い圧力がかかっているはずの水は一気に地上に噴き出し、また地上で循環するようになるかも知れないですにゃ」
「その可能性はある」
雲を掴むような話であり、仮定に仮定を重ねるような理屈。
それでもやってみる価値はある。
なぜならそれは大量の水を手に入れることに繋がる。確保できる水の量はすなわち命の数であり、猫たちを進化させるために必須のもの。猫たちの生態を劇的に変える大変革になりうるからだ。
「井戸を掘るのですにゃ。水脈にぶつかるまで」
「わかった、やってみよう。井戸の掘り方にも色々あるけど、猫たちの村でやるとなれば上総掘りのような、鉄管を地面に突き刺していく方式……」
「いいえ、我々にはもっと色々なものが必要なのですにゃ」
「というと……?」
ティルはすっくと立ち上がり、砂漠を指し示して言う。
「ただ水を確保しても、それはすぐに蒸発して空気に溶けてしまいますにゃ。安定して水を得るためには、地形というものが必要なのですにゃ」
「地形?」
「我々は露天掘りで井戸を掘るのですにゃ。砂をただひたすらにかき出していき、石材で壁を作って縦長のトンネルを作るですにゃ、そして工事で出た土は砂漠の別の場所に捨て、山を築くのですにゃ」
「山だって……?」
「深さは当面の目標として300メートル。作る山の大きさはやや横に長く、高さは150メートルほどにしますにゃ」
「そんな無茶な」
「我々はダイス様のお話と、あの地下から持ち帰った本を何度も読んで思ったのですにゃ。雨は山の側に降ると」
「それは確かにそうだ。でもそんな工事、何百年かかるか分からないよ」
「そうでもないですにゃ。ドラムのような戦士は一度に200キロの砂を運べますにゃ。一日に二度往復するとして。1000人の人手があれば数十年で出来るはずですにゃ。もちろん工事用の工具や器具は開発していきますにゃ」
「……」
確かに。
この土地に雨の降らない最大の理由を思わないこともなかった。
それは、山がないこと。
この星はけして乾燥しきっているわけではない。空気にはかなりの湿度が含まれているのだ。
この湿度を含んだ風が山にぶつかれば、斜面を駆け上がることで水蒸気を放出して雨となる。アラブなどの産油国では、実際に山を作って海風を受け止め、国土に雨を降らそうという計画もあったのだ。
しかし150メートルほどの低山で効果があるだろうか? 井戸にしても深さ300メートルで水脈にぶつかるとは限らないし。井戸が深くなるごとに、山が高くなるごとに工事の難易度も作業量も跳ね上がって……。
――やってみる価値はある、か。
「分かった。実際に初めてみないとどうなるか分からない工事だが、やってみないと分からないこともあるだろう。ティルのやりたいようにやるといい。ただし計画には十分な時間をかけるんだ。一人だけで考えず、他に頭のいい猫を何匹か助手にして、話し合って計画を練ること。多数の人員を動かす場合にはドラムとも話し合うこと。特に井戸の落盤や、山を築くときの事故には十分に注意すること」
「はいですにゃ」
星を作る。
その事を思う。
この星は老いている。と感じることがあった。高度な生命循環のシステムがあるようにも見えるが、あらゆるものが失われ、地形すらも摩滅しているように見えることもある。水は大地に潜り、食物連鎖は安定しきって、大噴火や地震のような劇的なイベントも見たことがない。星が老いさらばえて安定し、大地から複雑さが失われているのではないか、そのように思う。
猫たちならば、この星に水を取り戻し、山や谷すらも蘇らせることが――




