第二十話
トムが塩の果てに消えてどれほど経ったのか。僕にはもうあまり時を数えるという感覚がなく、猫たちは何かを時代の区切りにするという概念がない。そもそも彼らはトムの不在を意識していたのかどうか。
何度か捜索隊を出したこともあったが、広大な塩の原野の前にすべて阻まれた。トムの亡骸が見つかっていないのは救いと言えば救いだが、白い原野は黙して語らず、その先に果たして未知の大陸などあるのか、トムはどこまで行き、何を見たのか、すべては曖昧であり、猫たちの社会においては時の彼方に忘れ去られようとしている。
想念が過去に囚われていると感じる。僕は思考を切り替えてティルに問う。
「ドラムはどうしたの?」
「今日も遠征ですにゃ。百人ほどの軍を率いて鎧象の討伐に行ってますにゃ」
鎧象とは、この砂漠で最も大きく、最も形容の難しい存在の一つだ。
その外見は、例えるならうず高く積み重ねられた本の山に似ている。その体の表面を覆うのは多種多様な岩だ。岩の塊を鱗のように体に貼り付けるそいつはやどかりの神か、あるいはみのむしの英雄か。
その表面には灰色の触腕が走行し、岩を固定すると同時に、必要に応じて岩を操る腕ともなる。信じがたいことに、わずかに猫たちの腕ほどの太さしかない触腕が岩を振り上げ、破滅的な威力を持たせて投擲してくるのだ。
その本体がどのような生物なのかは推測でしかないが、触腕を操るイソギンチャクのような姿だとされている。およそ20数本の触腕を生やし、砂の奥、地底のさらに底で岩石を集めて鎧となし浮上してくるのではないか、と。
この怪物を討伐した例はいまだにない。その頑健な体はあらゆる攻撃も罠も受け付けず、不用意に近づけば虫を叩くように岩石の一撃を受ける。今までは弓を使って触腕をちぎり、カギつきロープをつかって岩の一枚を剥ぎ取る程度が最大の戦果である。
その体を覆っているのは大理石のような変成岩、方鉛鉱のような鉱石、礫岩のような堆積岩などなど。歩く岩石標本のような存在である。
「うにゃっ、なにか聞こえますにゃ」
そう言われて建物を出てみれば、村の入口から猫人の軍団が入ってくるところだった。
家畜化された残像狼が大型の橇を引きずっており、そこには小人が五人は乗れそうなほどの大理石の固まりが乗っている。
その後ろの橇には花崗岩、その後ろには松脂岩、岩塩の固まりや黒曜岩を背負っている猫もいる。
「ドラム! 帰ってきたか」
「なー、ダイス様、勝ちましたのなー」
僕はドラムのもとへ駆け寄って、そして発見する。彼は右腕を包帯で覆っていた。
「怪我をしたのか?」
「大したことないのなー、新鮮なスイカ食べたら治るのなー」
確かに猫たちは怪我の治りが早いが……。
しかし皆の前で軍団長をあまり心配するのも変だろう。彼が大丈夫だと言っているならそれ以上は追求しなかった。隊列の後に続く戦利品を眺める。
「これは、もしかして鎧象を倒したのか」
「なー、なんとか勝てたのなー、南に三日の場所にまだたくさん岩があるのなー」
うにゃああ、と背後の猫たちも勝鬨をあげる。ティルが目を輝かせて岩にかぶりつき、臭いを嗅ぐように鼻息を荒くする。
「こりゃすごいですにゃ。研究し甲斐がありますにゃ、お前たち、さっそく工房に運び込むですにゃ」
「はいにゃー」
「重いにゃー」
猫たちの力は総じて強い、家具のような大岩でもほんの数人で運ぶ。足がぷるぷるしてる小人がいたので追加で何人か手伝わせる。
「んにゃあ、ティル、新しいハンマーが欲しいのなー」
「はいですにゃ、この固そうな石で作ってみるですにゃ」
ドラムは体つきががっしりしてきたが、その印象は小人だった頃とあまり変わらない。頭が大きく胴は短く、重心の低い子供のような姿だ。その姿でとてとてと歩いてきて伸びをする。
「んなー、ダイス様、宴会やりたいのなー」
「そうだね、遠征からの凱旋祝いだ、酒蔵から酒を全部出して祝おう」
そうと決まれば話は早く、日の沈まぬうち宴の準備、整えば猫の集まって……。
「にゃはは、ダイス様、どうですかにゃ仕込みたての新酒は」
「うん、スイカの甘味が濃厚で、それでいて口当たりがいい、度数もなかなか高くなってきてるね」
「猫たちの中にも飲んべえが出てきてましてにゃ、強いお酒が望まれてるのですにゃ」
若い小人たちは群れ集い、スイカの浅漬けを肴にちびちびとあおる。
「うーん、今年いちばんのできにゃー」
「ここ十年で最高のできにゃー」
「最高といわれた去年すら色あせる究極にゃー」
「君らそういう口上どこで覚えるの?」
小人たちにも酒をたしなむ個体はいるが、大抵は食い気が勝るようだった。山と積まれた大玉のスイカがみるみる平らげられ、さらにスイカの青み部分の刺身盛り合わせ、押し固めたスイカの湯豆腐風、干しスイカのチップスなどの大皿料理に下鼓を打つ。
「ふんにゃにゃー、こんな酒よりわらしの酒のほうがうまいにゃにゃー」
「コジー、飲みすぎだにゃー」
「漬け込みが甘いのにゃにゃー、芯果だけを使うのにゃーにゃー」
「マキュルというのは?」
なんとなく猫人たちの会話が聞こえたので、ティルに問いかける。
「スイカの部位名のことですにゃ。一番中心の部分が芯果、外側に向かうにつれ糖赤、良水、白花、翡翠、緑土となりますにゃ、これは食べ物として見た場合の言い方で、染め物に使う場合は外側の皮は碧素と言いますにゃ」
「いつの間にそんな細かな言い方が……」
「料理や酒作りにはスイカを無数の部位に分解しますにゃ、名前は必要なのですにゃ、科学とは名前なのですにゃ」
うんうん、と赤ら顔でうなずきながらティルは語り続ける。酔うと喋り上戸になるティルだったが、一般的な猫はあまり長話に付き合いたがらないので、宴会ではもっぱら僕が聞き役だった。
「んなー、ティルはいつも喋ってるのなー」
ドラムが来てそう言う。彼は皮の水筒に入れた蒸留酒を飲んでいたが、顔はあまり赤くなっていない。
「ダイスさま、岩を持ってくるのは他の猫に任せて、明日からまた遠征に出るのなー」
「もうかい? この土地では鎧象以上に強い生物はもういないんだし、そんなに戦ってばかりいなくても」
そう、今日この日が記念すべき日であるのは、この土地で最強の獣を、猫たちが倒した日であるからだ。
猫たちに驚異となる怪物はすべて狩り方が確立した。もはやあれほどに驚異だった残像狼も家畜となり、貴重な労働力、あるいは騎馬ならぬ騎狼として活躍している。
村には二重三重に防壁を築き、もはや猫たちの栄華は磐石のものとなりつつある。
「そうですにゃ、化学者にも戦士にも宴会は必要なのですにゃ、ああ素晴らしき酒色の冴え、この一杯にまさる勝利はないのですにゃ」
僕の方にしなだれかかってくるティルを少し遠ざける。猫なのに酒くさいってどうなんだろう。
「ちょっと気になることがあるのなー、宴会は大切だからやるけど、ティルたちみたいにのんびりしてられないのなー」
「にゃっはっは。ドラムは分かってないですにゃ」
ひっく、とシャックリを混ぜつつティルが言う。
「んなー?」
「これからが大変なのですにゃ。獣の驚異を排除してからが本番。我ら猫たちの本当の大いくさが始まるのですにゃー」
「どういうことなー?」
ふっふっふ、とティルは不敵な笑いを浮かべつつ。持っていた杯、動物の角から作られた酒杯を地面に突き刺し、そのままねじねじと地面に埋め込む。
「そうか……始めるんだね、あの計画を」
「その通り、これぞ我らが村の悲願、安定した水の確保のため、井戸を掘るのですにゃ! それも生半可な穴ではない。深さ300メートルを越えるかも知れない井戸、大いなる迷宮のような井戸を作るんですにゃー!」
ですにゃーと言いつつティルは後ろにぶっ倒れて。
特に誰も気にすることのないまま、宴の夜はしんしんと深まる。




